最終章 嘘をついていい。ただし、どこで嘘をつくかは変わった
ここまで色々な作品を見ながら、「昔の漫画と今の漫画で、何が変わったんだろう」と考えてきた。
最初は、もっと単純な話だと思っていた。
昔は「漫画だから」で済んだ。今は読者が細かくなって、作品にもリアリティが求められるようになった。
そんな話なのかと思っていた。
でも、どうも違う。
昔の作品が雑だったわけではないし、今の作品が単純に現実へ近づいたわけでもない。
変わったのは、読者が「ここだけは納得させてほしい」と思う場所なのだと思う。
『らんま1/2』では、水をかぶれば女になる。
そんなことは現実には起きない。
でも、俺たちはそこを受け入れる。
『ドラえもん』では未来からネコ型ロボットがやってくる。『魔女の宅急便』では魔女が空を飛ぶ。『ルリドラゴン』では女子高生の頭に角が生え、火まで吐く。
ゴジラだっているし、巨大ロボットだって歩く。
どれも大嘘である。
それでも、そこ自体を「リアリティがない」と言って拒否する必要はない。
フィクションなのだから、嘘をついていい。
むしろ、その嘘が面白いから俺たちは漫画やアニメを見る。
問題は、その後なのだ。
水をかぶれば女になるというルールを作ったなら、そのルールにはある程度従ってほしい。
巨大ロボットが社会に普及しているなら、その世界なりの使われ方があってほしい。
ゴジラが東京に現れたなら、現代日本の政府や自衛隊が何かしら反応してほしい。
ドラゴンの特徴が現れた女子高生が学校へ通うなら、その周りの人間も何かを感じてほしい。
そこで何を求めるかは、作品によって違う。
『らんま1/2』で重要なのは、呪泉郷を科学的に説明することではない。作品の中で決めた変身ルールがきちんと働くことだ。
これは設定内部のリアリティと言ってもいい。
『ルリドラゴン』で俺が気になったのは、ドラゴンという生物が現実に成立するかどうかではなかった。
ルリの友達や先生がどう接するのか、そしてルリ自身が自分の変化をどう受け止めるのか。
そこには心理的なリアリティがある。
『パトレイバー』なら、巨大人型機械そのものより、それを警察がどう運用し、社会がどう扱うのかが重要になる。
これは社会的なリアリティだろう。
『シン・ゴジラ』なら、その規模がさらに大きくなり、政府や行政や国際社会の反応まで物語になる。
逆に『ガンダム』や『ファイブスター物語』のような作品では、架空の技術や歴史や政治を積み重ね、その世界全体に筋を通すことでリアリティを作る。
同じ「リアル」という言葉でも、作品ごとに見ている場所は全然違う。
物理的にあり得るか。人間の感情として納得できるか。社会が自然に反応しているか。作品内部の設定に矛盾がないか。
全部、別の話である。
そして読者は、すべてを同じ強さで求めているわけではない。
『こち亀』に物理法則の厳密さを求める必要はないし、『名探偵コナン』で事件遭遇率を現実と比較しても仕方がない。
米花町で毎週事件が起きることは受け入れる。でも、犯人のトリックには説明してほしい。
結局、作品と読者の間には、
「ここは嘘として飲み込んでください。その代わり、ここはちゃんと筋を通します」
という約束があるのだと思う。
その約束の場所が、時代とともに動いてきた。
昔なら「宇宙人が家に住み着いた」で、そのまま日常へ入れた。
今なら、その周囲がどう反応するかまで描く作品がある。
昔なら「巨大ロボットが出動する」で済ませた部分を、『パトレイバー』は運用や整備や警察組織まで描いた。
昔なら「怪獣が出た、自衛隊が出る」で済ませたところを、『シン・ゴジラ』は、その間にある面倒な手続きを物語にした。
そして『ルリドラゴン』では、昔なら何気なく飛ばしていたかもしれない「次の日の学校」を丁寧に描く。
昔の作品より説明が増えた、というだけではない。
昔なら物語にならなかった場所が、今では物語になる。
そこが面白い。
一方で、何もかも説明すればいいわけでもない。
読者の疑問を全部潰そうとしたら、物語はどんどん重くなる。
だから結局、作品には選択が必要になる。
何を嘘として置くのか。何を説明するのか。何を読者に預け、何をあえて描かないのか。
この選択そのものが、作品の個性になる。
ここまで考えてくると、「漫画だから」という言葉も少し違って見えてくる。
昔の「漫画だから」は、何でも許す魔法の言葉ではなかった。
作品と読者が「ここは気にしないで楽しもう」と共有していた場所だった。
今でも、その言葉はなくなっていない。
異世界転生も、現代ダンジョンも、悪役令嬢も、ドラゴン女子高生も、最初の大嘘についてはかなり大胆だ。
むしろ今の作品だって、昔に負けないくらい無茶なことをやっている。
ただ、その後に求められるものが変わった。
ドラゴンがいてもいい。ゴジラがいてもいい。水をかぶったら女になってもいい。未来からネコ型ロボットが来てもいい。
俺たちは、そこには案外寛容だ。
でも、その大嘘を置いたあとで、その世界の人間がどう反応するのか。社会がどう動くのか。作品が自分で決めたルールをどう守るのか。
そこには、以前より目が向くようになった。
ネットで大量の作品を比較し、大量の感想を読み、誰かの違和感を共有するようになったことも、その変化を加速させたのだと思う。
ただ、それだって絶対ではない。
勢いがあれば全部吹き飛ばす作品もあるし、細かいことなんて気にせず読める作品もある。
むしろ、理屈を付けすぎたせいで面白さを失うことだってある。
(結局、「面白ければかなりのことは許してしまう」という身も蓋もない結論も、たぶん残る)
それでも、今回ひとつ分かった気がする。
フィクションのリアリティとは、現実に近いことではない。
その作品が読者に「ここを信じてほしい」と差し出したものを、読者がちゃんと信じられることだ。
昔と今で変わったのは、その「信じさせてほしい場所」なのだと思う。
『ルリドラゴン』を読んで、「角が生えた。それで学校はどうする?」と思ったところから始まった今回の話。
結局、俺は角が生えたことにはそれほど疑問を持っていなかった。
ドラゴンの血を引いていることも、火を吐くことも受け入れていた。
俺が気になっていたのは、その次だった。
友達はどうするのか。学校はどうするのか。そして本人はどうするのか。
昔なら「漫画だから」で飛ばしたかもしれない、その場所。
今は、そこに物語がある。
嘘をついていい。
漫画なのだから、いくらでも大嘘をつけばいい。
ただし、どこで嘘をつき、どこを本気で描くのか。
その境界線は、ずっと同じではない。
たぶん、それが今回考えてきた「お約束とリアリティ」の変化なのだと思う。




