第39話 夏疾風
【上谷萌々】
私は幼い頃から、父の影響で経済や投資の本ばかり読んでいた。
同年代の子たちが、恋や流行りの話で盛り上がっている頃、 私だけは、四季報やIR資料のページをめくっていた。
──だから、友達はいなかった。
高校へ入学して間もない頃の休憩時間。
いつものように、一人で本を読んでいると、
「上谷さんも、その本読むんだ?」
不意に、声が降ってきた。
顔を上げた瞬間、 春風が、私に王子様を運んできた気がした。
キラキラした笑顔を、まともに見られなくて、 私は視線を落としたまま答える。
「うん……。 こんな本、空谷君も読むの?」
「“こんな本”って。」
彼は少し笑って、私の隣へ腰を下ろした。
「大丈夫だよ。 何も変じゃない。
ウチも、お父さんが外資系の仕事してるからさ。」
まさか、 女子高生が読むとは思えない一冊が、 運命を引き寄せるなんて思わなかった。
その日から、私は彼と話すようになった。
時間が歪んでしまったみたいに、 凄い速さで、彼に惹かれていった。
毎日、野球に全力を注ぐ彼を、 私は少し離れた場所から見つめていた。
手が触れそうで、触れない距離。
並んで歩く帰り道。
尽きることのない、オレンジ色の会話。
夕暮れの空へ、 ゆっくりと溶けていった。
家へ帰ってからも、 彼は海斗君に野球を教えていて、 終わった後は、 スマホ越しに、お互いの気持ちを重ね合っていた。
──夏疾風が、私の髪を揺らす。
夕陽が校舎の窓を赤く染めていた。
私は、門の影で彼を待っていた。
けれど、 いつもの時間になっても、 陸斗君は来なかった。
グラウンドを覗いても、 誰もいない。
その時だった。
遠くで鳴っていたサイレンが、 こちらへ近づいてくる。
その音は、 私の横を通り過ぎ、 学校の中へ吸い込まれていった。
嫌な予感が、 一瞬で全身を駆け巡った。
私は震える足を前へ出し、 救急車を追いかけた。
しばらくして──
校舎の奥から、 担架で運ばれてくる陸斗君の姿が見えた。
彼の鞄。
そして、 私が毎日渡していた、お弁当袋。
視界が激しく揺れた。
気づけば私は、 救急車へ乗り込んでいた。
サイレンの音。
激しく揺れる車内。
その全部が、 不安を身体の奥へ積もらせていく。
救急隊員の呼びかけに、 陸斗君は薄く反応していた。
握った手の温度が、 少しずつ弱くなっている気がした。
その弱さが、 怖かった。
病院へ着くと、 私は彼と引き離された。
長い廊下を、 ただ彷徨った。
真っ白な壁。
消毒液の匂い。
窓の向こうでは、 千切れた雲が流れていた。
その雲に、 自分まで飲み込まれていく気がした。
──気づけば、 私は自分の部屋のベッドにいた。
天井には、 あの雲と同じ形の影。
どうやって帰ってきたのか、 覚えていない。
慌ててスマホを開いた。
でも、 陸斗君からのメッセージは、 どこにもなかった。
翌日。
私は学校を休み、 朝から病院へ向かった。
病室では、 陸斗君とご両親が笑っていた。
けれど、 その笑顔は、 薄いガラスの向こう側にあるみたいだった。
お母さんが気を遣ってくれて、 二人きりになった。
何を言えばいいのか分からないまま、 唇を開きかけた時──
先に、 陸斗君が口を開いた。
彼は、 棚橋君を庇いながら、 事故のことを話してくれた。
でも、 その目に嘘はなかった。
話し終えたあと、 彼は窓の外へ視線を向けた。
「俺の足…… もう、動かないらしいんだ……。」
夕陽が、 彼の横顔を赤く染める。
「もう、この先、 萌々と並んで歩いていけない。
萌々の人生の、 足手まといになると思うんだ。
だからさ……」
言葉は、 そこで止まった。
止まったまま、 彼は夕陽を見つめ続けていた。
未来から、 静かに切り離されていくような横顔だった。
──この先を聞いたら駄目だ。
そう思った瞬間、 私は声を被せていた。
「イヤだよ……。」
涙で、 呼吸が詰まる。
「急に歩けるようになるかもだし……。
そうなった時、 私、一生後悔する……。
だから…… 一緒にいさせて……。」
涙につまずきながら、 ようやく言葉を絞り出した。
陸斗君は、 小さく笑った。
「……ありがとう……。」
数日後。
学校へ向かう途中、 スマホを開いた瞬間、 棚橋君と優愛ちゃんの名前が目に入った。
嫌な予感がした。
気づけば、 病院へ走っていた。
勢いよく病室の扉を開ける。
中は荒れていた。
床には物が散らばり、 陸斗君はベッドの下で、 テレビに背を向けながら震えていた。
「ぼくのせいだ……」
その声が、 胸を裂いた。
気づけば私は、 彼の手を両手で包み込んでいた。
窓の外では、 夕陽がゆっくりと赤く滲んでいく。
ベッドまで、 赤く染まり始めていた。
その時、 病室の扉が開いた。
「兄ちゃん!」
海斗君だった。
その声を聞いた瞬間、 陸斗君の顔が、 “いつもの顔”に戻った。
安心した。
でも同時に、 私は気づいてしまった。
──まだ私は、
海斗君みたいに、
彼を救えていない。
翌日。
本間先生と校長先生の訃報が流れた。
神様は、 彼から言葉まで奪っていった。
それから数週間。
ご両親が来ても、 海斗君が来ても、 陸斗君は何も話さなかった。
赤トンボが、 私を追い越して病院へ向かっていく。
いつものように病室へ入ると、 海斗君が笑顔で手を振った。
陸斗君が話せなくなってから、 私は海斗君と、 たくさん話すようになっていた。
二人で、 どうにか陸斗君を笑わせようとしていた。
その日も、 いつものように話していた時だった。
突然、 声が飛んできた。
私が望んでいた声と違う声。
「うるせーよ!!」
空気が、 凍りついた。
「毎日、毎日、 くだらない話してんじゃねーよ!!
もう…… 放っておいてくれよ!!」
怒鳴り声なのに、 その奥で、 今にも泣き崩れそうな音がしていた。
時間が止まった。
海斗君は、 涙を滲ませながら言った。
「……なんで、 そういうこと言うの?」
「嫌なら、 来るんじゃねーよ。」
その言葉に耐えきれず、 海斗君は病室を飛び出した。
私は慌てて追いかけた。
病院を出たところで見失い、 辺りを探していると──
向こうから、 中邑君と柴田君が歩いてきた。
「中邑君、柴田君!」
二人は驚いた顔をする。
「久しぶり。 どうした?」
「今、この辺りで、 小学生の男の子見なかった?」
二人は顔を見合わせ、 首を横に振った。
「見てないけど…… 何かあったのか?」
「ううん、大丈夫。 ありがとう。」
そう言いながら、 私は二人の制服を見る。
「新しい学校はどう? 野球、頑張ってる?」
二人は笑いながら、 背番号を握ったユニフォームを掲げた。
「この通り。 頑張ってるよ。
今から陸斗に見せに行くんだ。」
その笑顔が、 少しだけ無理をしているように見えた気がした。
「上谷は? もう帰るのか?」
「うん…… 今日はもう……。
ありがとう。 じゃあね。」
私は二人に手を振り、 再び海斗君を探した。
街灯が灯り始める。
震える手で眼鏡を外し、 汗を拭った。
その時、 公園のブランコが目に入った。
海斗君が、 一人で揺れていた。
「海斗君!」
海斗君は、 ゆっくりこちらを見た。
「萌々ちゃん……。
お兄ちゃん…… 怖かったよ……。」
その声に、 胸が締めつけられた。
私はしゃがみ込み、 目線を合わせた。
「そうだね……。
お兄ちゃん、
今すごく苦しいところにいるの。
でもね、 抜け出そうって、
頑張ってるんだと思う。」
海斗君は、 黙ったまま涙を拭った。
「私も、 それに気づいてあげられなかった。
一緒に謝りに行こっか。」
そして、 少しだけ笑った。
「でもその前に、いっぱい走ったから、
お腹空いたね。
お兄ちゃんの分も、
ハンバーガー買って行こう?」
海斗君は、 ようやく笑ってくれた。
その笑顔に、 少しだけ救われた気がした。
二人で病院へ戻った。
病室の扉をそっと開き、 静かにカーテンを覗く。
すると──
「萌々……海斗……。」
掠れた声が聞こえた。
「さっきは……ゴメン……。 言い過ぎた……。」
その瞬間、 胸の奥で何かが崩れた。
待ち望んでいた声だった。
なのに、 嬉しいより先に、 涙が溢れていた。
「いいよ……。」
声が震える。
「私も…… 何も分かってあげられなくて……
ごめんね……。」
涙がまつ毛を伝い、 眼鏡を濡らした。
嬉しかった。
本当に、 嬉しかった。
神様が、 彼に声を返してくれた気がした。
私は心の中で、 中邑君と柴田君に、 何度も感謝していた。
その日、 三人で同じ味のハンバーガーを食べた。
冷めかけていたのに、 不思議なくらい温かかった。
それからの毎日は、 短かったけれど、 確かに幸せだった。
病室には、 また少しずつ笑い声が戻った。
けれど──
年が明け、 あの事件が起きた。
陸斗君を救ってくれた二人が事故で亡くなり、 チームメイト全員が、 自らこの世を去った。
それでも、 陸斗君は、 その運命を受け止めようとしていた。
ある日、 彼は静かに言った。
「萌々。 お願いがあるんだ。」
次の日曜日。
陸斗君は外出許可を取り、 私と一緒に出掛けたいと言った。
日曜日。
私は沢山の花が入った袋を、 車椅子の手摺に掛け、 陸斗君を押していた。
最初に向かったのは、 交番だった。
三つの花を供え、 二人で静かに手を合わせる。
その時、 陸斗君が小さく呟いた。
「萌々…… ごめん……。
辛いのは、 俺だけじゃなかったな……。
萌々も、 優愛ちゃんと仲良かったもんな……。
本当に、ごめん……。
ありがとう……。」
私は、 合わせた手で涙を拭った。
「……二人で、 乗り越えようね。」
そう言って、 再び車椅子に手を掛けた。
私は、 彼の“足”になって、 学校へ向かった。
学校に二つ。
海に十一。
最後に、 歪んだガードレールの下へ、 二つ。
花を供えるたび、 彼の表情が、 少しずつ過去へ触れていく。
冷たい風の中、 彼がぽつりと零した。
「前に…… 俺が萌々と海斗に怒った時にさ……」
その先は、 言葉にならなかった。
私は静かに頷く。
「知ってるよ。
病院の前で、 二人に会ったから。」
白い息が、 ゆっくり空へ溶けていく。
「私は、 二人に感謝してる。
今も…… これからも…… ずっと。」
陸斗君は、 少しだけ笑った。
「やっぱり、 萌々は凄いな。」
「それも知ってるよ。」
二人の白い息は、 淡く重なり合い、 冬の風に運ばれていった。
それから毎年、 私たちは花を供え続けた。
数ヶ月後。
陸斗君は退院し、 家へ戻った。
お母さんは、 私に気を遣わせないように、 毎日ご飯を作ってくれていた。
いつの間にか、 私は“お客さん”ではなくなっていた。
高校を卒業した私は、 大学へ進学した。
そして、 両親の許可をもらい、 空谷家で暮らすようになった。
月日が流れ、 大学四年の夏。
朝食を終え、 私は陸斗君の車椅子を押して、 部屋へ戻っていた。
蝉の声。
揺れるカーテン。
エアコンの風。
夏が、 静かに部屋を満たしていた。
その時、 陸斗君がぽつりと呟いた。
「萌々…… 卒業したら、 どうするの?」
私は笑った。
「まだ何も決めてないよ。
決めてるとしたら……
陸斗君と、ずっと一緒にいることくらいかな。」
彼は、 少し俯いたあと、 小さく聞いた。
「……本当に?」
「本当だよ。駄目?」
沈黙が落ちる。
蝉の声だけが、 遠くで鳴いていた。
やがて彼は、 震える声で言った。
「……こんな身体だけど、 萌々が良かったら……
俺と、 結婚してくれないか?」
時間が止まった。
蝉の声も、 風の音も、 全部消えた気がした。
彼は、 薄い緑色の箱を差し出した。
その中には、 指輪が入っていた。
「俺の身体が不自由なこと、 忘れさせるくらい、 幸せにするから……。」
涙で、 視界が滲む。
彼はそっと、 指輪を取り出し、 私の薬指にはめた。
ただ、 彼を支えたい。
その気持ちだけで、 毎日を過ごしていた。
なのに、 気づけば私は、 こんなにも幸せの中にいた。
──生きていて良かった。
大学を卒業するまでは、 誰にも言わない。
そう決めて、 二人で少しずつ未来を作っていった。
その幸せは、 家族みんなを笑顔にした。
ある日の夕食。
海斗君が、 少し照れながら言った。
「萌々ちゃん。
今度の日曜日さ、兄ちゃんと三人で、
甲子園の決勝戦見に行こうよ。」
「え?」
「嫌味じゃないよ?
もし、 僕が野球続けてたら、
あの舞台に立ってたかもしれないって、
たまに思うんだ。
だから、
せめて観戦だけでもしたいなーって。」
陸斗君と私は顔を見合わせ、 笑った。
「うん。 行こう。」
決勝戦当日。
鳥たちが目を覚ますより少し早く、 お母さんが玄関で、 大きく手を振って見送ってくれた。
灼けるような熱気。
歓声。
甲子園の空。
その全てが、 三人の胸に、 新しい熱を灯していた。
帰り道──
「萌々ちゃん。 ごめん。
次のサービスエリア寄って。 トイレ行きたい。」
「いいよ。」
しばらくしてサービスエリアに車を停めた。
後部座席では、 陸斗君が眠っていた。
海斗君と二人で車を降り、 トイレを済ませた帰り道。
私たちは、 陸斗君に内緒で、 三人お揃いのキーホルダーを買った。
車へもどりながら私は、 少し照れながら言った。
「海斗君だから、 先に言っちゃうんだけど……
実は私たち、 結婚するんだ。」
薬指を見せる。
海斗君の顔が、 ぱっと明るくなった。
「えっ!? 本当に!?」
その笑顔は、 昔ハンバーガーを渡した時より、 もっと眩しかった。
「おめでとう!!」
「まだ内緒だよ?」
そう笑い合いながら、 私たちは車へ向かった。
目を覚ました陸斗君が、 車の中から手を振っている。
私たちも、 笑いながら手を振り返した。
横断歩道を渡る、
その瞬間だった。
斜め前の車が、 こちらを見ないまま発進した。
世界が、 歪む。
私は反射的に、 海斗君を抱き寄せた。
──ドンッ。
衝撃が全身を駆け回り、陸斗が回転しながら視界から消えていった…
急に降り出した雨に視界を奪われそうになった。
それでも、私は陸斗を探した。
後ろのドアが開き、彼が崩れ落ちながら出てきた。
動かない足は、まるで十字架のよう…
彼は雨に濡れながら、足を引きずり、腕の力だけで、私達の方へ来る。
凄く叫んでるけど、微かにしか聞こえない…
何を言ってるの?
私達はどうなったの?
胸の中で温かさを感じる…
海斗君の血…
どうして?
海斗君は目を開けない…
どうしたの?
ねぇ、私達になにがあったの?
陸斗… 教えて…
目を閉じてしまいそう…
もう少し…
陸斗… どうして泣いてるの…?
雨が暖かい…
あっ… 陸斗の手の方が…
あったかい…
どうして…だきしめるの…
キーホルダー…
わたせない…
からだが… うごかな……い
りくと…




