7 空の夢
ふわり、と意識が浮上する。
ヒカリエがゆっくりと目を開けると、そこに広がっていたのは、信じられないほどに美しい、青の世界だった。
巨大なキャンバスを思わせる、真っ白な大理石の岩壁。それが、洞窟の上空から差し込む光を浴びて、まるで内側から発光しているかのように、どこまでも深く、どこまでも澄んだ青色に染まっている。
言葉を失い、ただただその光景に見入っていると、隣から穏やかな声がした。
「これが、『空の夢』だ」
はっとして横を向くと、そこにいたのはフェザンだった。彼は、いつものように少し眠そうな顔で、ヒカリエと同じように青い壁を見上げていた。
「フェザンさん!? どうしてここに? リバレインさんは?」
「ああ。急におまえさんが倒れたって、リバレインが村まで走ってきてな。実はあいつ、急に遠い町に異動になっちまって、村長が大慌てで探してたんだ。だから、代わりにオレが来たってわけだ」
淀みなく語られるその言葉に、ヒカリエは「そうだったんですね」と納得する。リバレインの、頼りになるがどこか幼い笑みが、脳裏に蘇る。
「お仕事はよかったんですか? 急用で来られないって……」
「ん? ああ」
フェザンは、一瞬だけ遠い目をした。
「終わらせたよ。全部な」
ヒカリエは、再び『空の夢』へと視線を戻した。
その美しい青を見つめていると、不意に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。それは、亡き母が遺した、あの絵の青と、あまりにもよく似ていた。
ぽろり、と。一筋の涙が、頬を伝う。
「母も、ここに来たことがあったのかな……」
「……そうかもしれねえな」
「もしかして、フェザンさん、母と会ったことあったりしませんか?」
「さあな。顔も名前も分からねえんじゃ、なんとも言えねえや」
「……確かに」
ヒカリエは、涙を拭いながら苦笑した。
そんな彼女へ、フェザンは尋ねた。
「おまえさんにとって、産みの母親ってのは、どんな存在だ?」
「産みの母ですか……。そうですね……私が絵を始めたきっかけです。でも、それだけかもですね。私にとってのお母さんは、育ての母の方ですから」
「そっか。……だよな」
ヒカリエはフェザンに目を向ける。彼はただ、『空の夢』の見上げていた。
しばらく、ふたりで無言のまま、刻一刻と表情を変える青い光のショーを眺めていた。やがて、フェザンがぽつりと問いかける。
「ヒカリエ。旅は、好きか?」
「うん。もちろん、大好きです」
「そうか。そいつはよかった」
彼は、心底安心したように、穏やかに言った。
「提案があるんだが」
「なんですか?」
「旅は、何かと危険だろう。オレが用心棒として、ついていってやろうか?」
その意外な申し出に、ヒカリエはきょとんとした後、あはは、と声を上げて笑った。
「いらないですよ。小道具屋のおじさんより、私の方が強いって」
「そういや、護身術が得意だって言ってたな」
「はい! 悪いやつなんて、みんなコテンパンにしてやります! それに、フェザンおじさんには、この村のみんながいるじゃないですか。——この村のみんなのこと、好きですか?」
そのまっすぐな問いに、フェザンは少し照れくさそうに、だが、はっきりと頷いた。
「ああ。もちろん、大好きだ」
「それなら、お互い、お互いの場所で、やりたいことをやらなくちゃね!」
「……そうだな」
フェザンは、眩しいものを見るように、目を細めた。
村に戻ると、ヒカリエは旅立ちの支度を始めた。ポーチから収納ボールを取り出し、地面に置くと、光と共に愛用のスクーターが出現する。
「なんだか寂しいなあ。たった一週間だったけど、すごく、寂しいや」
「ああ。なんだか、昔からずっと、おまえさんがここにいたような気がするよ」
「私も、なんだかそんな気がしちゃってます。でも、やりたいことは全部やり切ったし、次の出会いが待ち遠しいです。……リバレインさんと、ちゃんとお別れできなかったのだけが、心残りですが」
「まあ、おまえさんはまだ若いんだ。生きてりゃ、またどこかで会えるだろ」
「……そう、ですよね」
ヒカリエは、少しだけ俯いた後、顔を上げてニッと笑った。
スクーターに跨ったヒカリエに、フェザンが「ほれ」と何かを差し出した。
「これ、やるよ」
それは、手のひらサイズの、キラキラと輝く鉱石の塊と、数枚の紙ヤスリだった。
「え、でもこの石、親指の先くらいの大きさで、家が買えるほど高いって……」
「あれは嘘だ。これくらいで、せいぜいちょっと高い腕時計くらいのもんだ」
「ひどい! ……いえ、それでも充分高いです! 本当にいいんですか?」
「ああ。それから、これもやる」
彼が懐から取り出し、ヒカリエに差し出したのは、真新しい一本の絵筆だった。
「この筆は、そこの森にいる希少なイタチの尻尾の、さらに希少な部位を使って作った、とっておきだ。おまえさんが持ってる筆と同じ材料だよ。本当は十本セットで渡したいところだったんだが、さすがに時間が足らなかった」
その筆は、ヒカリエが持つ筆の中で、もっとも太いものと同じ寸法だった。
ヒカリエは、いつか自分が言った言葉を思い出す。
——でも、少し前にこの一番太い絵筆の毛を傷つけちゃったんですよね。これくらいの小さな絵だとあまり使わないので問題ないのですが。またどこかで買い足さなきゃ。
「そのためにイタチを……」
「ああ。これで、最高の絵を描いてくれ」
筆の持ち手には、キラキラと輝く青い装飾が施されていた。初めてフェザンの小道具店で見た時計の、美しい青だ。
ヒカリエは、今にも泣き出しそうな顔で、それらをそっと受け取った。
「……ありがとう、ございます」
深く頭を下げる彼女に、フェザンはわざと乱暴な声をかける。
「なんだ、その辛気臭い顔は。ほら、おまえさんは、おまえさんらしく笑ってろ」
その言葉に、ヒカリエは顔を上げ、涙をこらえて、ニカッと満面の笑みを見せた。フェザンは、その太陽のような笑顔を、まるで一枚の古い写真を眺めるかのような、温かい目で見つめていた。
「じゃあ、もう行きますね」
「おう。達者でな」
スクーターのエンジンが、軽快な音を立てる。走り出す直前、ヒカリエは空を見上げた。
「——あの雲がなくなったら」
つられて、フェザンも見上げる。
「必ず、ここにまた戻ってきます。そのときは、また一緒に、『空の夢』を見に行ってくれませんか?」
「もちろんだ。『空の夢』と本物の空。どっちが綺麗か、見比べてみようぜ」
「はい!」
ヒカリエは力強く頷くと、ゴーグルを装着した。
そして、一陣の風のように、次の目的地へと向かって、意気揚々と走り出していった。
その小さな背中が見えなくなるまで、フェザンは、ただ静かに、手を振り続けていた。
了