夕闇迫る雲の後
ふと、目が覚めた。
辺りを見回すと、現実感が著しく欠如した、希薄な視界であった。
空には──いや、空というには余りに広い。
視界全てを覆って尚余りある空白が、其処には在った。
空白といっても、空が白に満ちてる訳では無い。
寧ろ、赤かった。
赤くて紅くて赫くて朱い───空。
とても比類できるものは無いけれど、しかしそれでも鮮烈に、夕闇に酷似しているものだった。
敢えて換言するなら。
鮮血を水に溶かして描いた水彩画。
彼岸花から抜いた色で塗られた壁紙。
───それらは皆、元は白色だったモノ。
どうしてだろう?
この赤が、
この夕闇が、
最初からこうだったとは思えない。
何か悲痛で、
断末魔の様で、
慟哭の様で─────・・・
「おい」
其処に、奴は居た。
居た。
と言っても、顔は見えない。
「酷いものだろう? ここは」
俺が返す前に、一人で独りでに喋り始めた。
独りでに、という表現は些か不自然とも言えるが、奴は、なんと言うのだろうか、無機質だったのだ。
物の様だったのだ。
故に奴は、独りでに戸が開く様に、独りでに人形が歩き出す様に、独りでに喋り始めたといえる。
先刻奴を物と言ったが。それは奴の生気のなさ故の発言だ。
奴は其処にいるのに、喋っているのに、生きているのに、
死んでいる様だった。
「ああ、地獄さながらだ」
「つまり現世と変わらん、と言いたいのか?」
「そんな穿った見方をするのな、アンタ」
「まあ、そういう奴もいるものだ」
奴はそう一言、他人事のように言った。
「・・・というか、そんなことはいいんだ。
ここは一体どこなんだ?」
ふん、と俺を一瞥すると、奴は後ろを向いた。
「ここはな、私が、私が愛した女が、死んだ場所だ」
「そうなのか?」
「ああ」
「いや、正確には、愛した女を失った私の精神世界だな」
「お前もあの空を見ただろう。
あまりに希薄で、空白で、赤々としたあの空を。
いや、希薄なのはこの精神世界そのものだがな」
独りでに、鉤括弧を贅沢に使って奴は言う。
そして、背面のままに、奴は俺の後方を指差した。
指先に従って、俺はそれを見た。
「・・・っ!」
それは、亡骸だった。
見るも無惨だ。
頭蓋は潰れ、目は抉れ、鼻は千切れ、耳は欠損し、口は損なわれ、心臓は貫かれ、手は穿たれていた。
辛うじて、性別が女だということはわかった。
そうか、この女が・・・。
「そう、私の愛した女だよ」
やはり、そうか・・・。
余りに無慈悲で、見るも耐えないこれが。
──お前の過去か。
「そして、お前がこれから見るであろう、否、
───見逃すであろう惨劇だ」
───惨劇?
俺が?
これを・・・見逃す?
「トリスに負けて、このまま逝けば彼女は、きっと師匠とやらに殺されるのだろう?
ならば当然、彼女たちの行く末はああだ。
無論お前は、それを見逃すこととなる」
──死体の身故にな。
付け足すように、奴はそう言う。
「そこで、私は問おう。
主、生きたいか? 死にたいか? 」
・・・分かりきった問答だな。
問答無用で生きたいさ。
「其は、真か?」
「真だよ」
淀みなく、言い切った。
ただ、思うままに。
「ふむ、何と言うのか、
主はもう幾ばくか下を向いて歩く人間だと思っていたぞ。
『あんな怖い目に遭ったのに、何でまた戦いに行くのさ』
だの、
『わざわざ生き返って、むしろ惨劇を見ることになったら
どうするんだ』
程度の妄言ならば、あり得ると思っていた」
酷い言われようだな、全く。
だけど──・・・
「俺はお前の言う通り、
いつでも下を向いて歩いているよ。
でもさ、いつの世にも、
足元を掬われる奴ってのはいるよなぁ。
周りからいくら注意されようが何だろうが、
そう言う奴は必ず出てくる。
不思議だよなぁ、目の前に穴があるのに
どうしてか見えていないんだ。
なぜだと思う?
それはな───上を向いて歩いているからだ。
空を見ていれば、希望を掲げれば否応なく、
視界に地面の穴などありはしない。
当然の話さ。
穿っていても、ズルくても、馬鹿でも、間抜けでも、怠けていても、臆病でいても、戦えなくても、勝てなくても、
下を向いていれば! 下を向いてさえいれば───!
───足元は見えているんだ。
足が掬われるわけがない。
だったら、
至らないままでも、足りないままでも、負けたままでも、
自分より強い奴より、
強くなれなくとも、勝つことぐらいならば。
足元を掬うぐらいならば─────!
そんな可能性に、しょうがないくらい俺にお似合いの、
薄ら馬鹿げた可能性に賭けてみるのも、
悪くはない───────!! 」
己を鼓舞するように、下向きに、直向きに。
そう、下を向いているからこそ、誰より勝者に近いんだ。
「成程な、では征けよ、
主は『敗者』故に、最も『勝者』足りうるのだ」
その言の葉を皮切りに、世界が崩れた。
奴も、女も、あの空も、ただ俺を残し、落ちてゆく。
勝利というのは、こういう感じなのだろうか。
※
瞼が開く。
視界には、満遍なく炎が満ちていた。
痛い。
当然だが、比類無き痛痒が今も襲っている。
だけど今は、何故だが心が落ち着いている。
現状の打開策として、緊急的にできるものといえば、恐らく水魔術で火を消せばいいだけなのだけれど。(どうしてこんな簡単な事を思い付かなかったのか)
そんなことをしたところで、きっとまた火をつけられて同じ事を繰り返すのだろう。
それでは駄目だ。
駄目なのだ。
では、何をすれば良い?
「否、何をすれば良い?では無い───!」
俺は火だるまのまま、トリスに躍りかかった。
流石に想定外だったのか、トリスの瞳に動揺が走る。
この機会を逃すほど、俺も甘くは無い。
勢い殺さず、そのままトリスの足元にしがみついた。
「・・・ッ!」
そう、何をするべきでは無い
「何もしないべきなんだ!」
下向きな俺の、直向きなやり方。
「コイツ・・・!」
流石のトリスも、判断しあぐねているようだった。
そりゃあそうだろう。
既に攻撃を喰らっているのに、怯んでいないのだから。
どうすればいいのか迷うがいい。
はっきり言って死にそうだし、勘弁してほしいし、どうしようもないので俺の方が不利ではあるが。
それでもトリスは、その考えごと俺を振り切るように足を振った。
無論離さない。
離してなるものか。
強くならなくとも、勝てばいいのだから。
勝てなくても、負けなければいいのだから。
このハンデを負って尚、俺に勝てるというのならばやってみろ!
と息巻いてみたが、これはなかなか詭弁だな。
馬鹿げていると言っていい。
だけどしかし、馬鹿と天才は紙一重とも言う。
「十二単だよ!」
思考を読まれた!!?
何トリスこわ・・・。
読心術持ちかよどんなだよ。
と、いうか、先の台詞と同時刻に、俺はついに蹴り離されてしまった。
クソ、どうしたものか。
トリスは今、僅かに燃え移った火を消している。
これが隙ならいいんだが、彼女の場合そんなでは無いのだろう。
畜生。
はっきり言って打開策がない。
こう、戦況をひっくり返す程の明確な切り札は無いものか。
どんなものをも焼き払うような、そんな必殺技。
・・・あるわけがない。
そんなご都合主義で、非実在的な展開。
だけどもそれでも負けられない。
なれどもそれでもわからない。
ん・・・?
待てよ?
あるじゃ無いか。
ある意味では、俺の最初の、原点のような技じゃ無いか。
威力が凄すぎて、正直人に向けるのが怖いくらいだが。
化け物のような強さを誇る彼女には、全く問題などありはしないだろう。
よし、ならばやることは一つだ。
俺は胸に手をかざし、手に焼き印して突き出した。
あの─── 不吉な六角を。




