締結
両目を瞑り、あらかた思考を終えるとエルギン氏は鼻からひとつ大きな溜息をついて、やがてこちらを見た。
「─────ワシは君にペルズブラッドの麦汁を安定供給する、それを使って出来上がったウイスキーの半分をうちに納める、それでどうかね?」逡巡の後にエルギン氏はこぼした。
「販売するおつもりですか?」と俺は質問を質問で返す。
「こんな美味いものを世に広めて、葡萄酒のようになってしまったらどうする。言わずもがなワシが飲む」エルギン氏はにやりと笑みを作った。
最初、俺はウイスキーの商品価値を評価したのだと思ったがそうではなく、どうやらエルギン氏は一口でウイスキーの魅力に囚われてしまったように見えた。
「そうですか、俺としては願ってもない申し出なのですが、ハリス会長と先約がありましてね……後日もう一本の方を彼の元へ持っていかなければならないのです」
「なっ……何を莫迦なっ……!あの男のことだ、これを口にすれば商売を始めたがるに決まっておるではないか」憤りの色がエルギン氏の表情に浮かぶ。
「俺が目標に掲げるものは上質なウイスキーの安定生産、そしてそれを自分自身で味わい、愉しむこと。商売で富を得たいわけではないですが、未だ完成していないこの酒を仕上げる為にはどうしても原資が必要です」
「完成していないだと?もうこれ以上無いほどに美味いではないか」そう言ってエルギン氏は首を傾げた。
「今日ここへ持ち込んだのは、一種類の原料と製法で作った酒です。真のウイスキーとは、別々のニュアンスを含んだ原酒を複数混ぜ合わることにより複雑な香味が調和するもの。様々な条件下で原酒作りを試し、多種多様な原酒を獲得することがこの酒をさらなる高みに昇華させるんです」と俺は熱っぽく説明した。
「やれやれ……………他人の好奇心を逆撫でするのが上手い男だ。それにハリスまで一枚噛んでいるとは、ワシは既に君の手のひらの上だったわけだな」観念したようにエルギン氏は瞳を閉じた。
「そう人聞きの悪い言い方をしないでくださいよ」俺はくすりと笑った。
「ウイスキーはペルズブラッドの新商品として販売し、流通はフルールモア商会が独占して行う。製造された商品と売上げのいくらかを君が手に入れる。こういうストーリーならどうだ」
横で静観を決め込んでいたミルは口を覆った。
「それはなかなか面白い物語になりそうですね」言い終わると俺は白々しくも右手を前に差し出した。
「まったく、狐に化かされた気分だよ」そう言ってエルギン氏は俺の手を握った。
「取り分の割合はこちらが提供する麦汁の原価とウイスキーの販売価格を加味して互いに妥協出来る点を探す。最初期は全てこちらの持ち出しでかまわん、好きなようにやってみたまえ。サンプルをここへ持ってくるのを怠るなよ」とエルギン氏は俺の目を見て言った。
「ありがとうございます」
流石天下のペルズブラッド、懐が深い。深すぎていつの間にか懐に入れられぬよう気をつけなくては。
「ミル」エルギンは愛娘の方へ向き直った。
「な、なに?」ミルの身体が一瞬びくりと強ばる。
「お前が連絡役になれ。知り合いならば意思の疎通が取りやすいだろう」
「え。あたしに出来るかな……」
「出来るよ、ミル。俺も君の方が話しやすい」
「ショウさん……」
「決まりだ。それはそうと、この栓を開けてしまったウイスキーだが、もちろん売り物にはならん。どうすべきだと思うかね?」力強い眼差しだった。
台詞こそ質問の形態をとっているが、その実、彼の言葉以外の全てが雄弁に『よこせ』と俺に訴えているようにしか思えなかった。
「あ、あぁ、お近づきの印にどうぞ、お飲みになって下さい」
「ふむ。そうかそうか、ならば有難くもらっておこう。ミル、ショウ君を送って行って差し上げなさい」そう言い残してエルギン氏は大事そうに酒瓶を抱え、背中を丸めて退室して行った。
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刻は日中、スペイル河沿いの道を俺達は西へ歩いている。
復路を行く頃には宵の口だろうと思い、俺はミルの送りを一度は断ったが、それでも彼女は俺を送ると言って聞かず、こうして自宅までの道のりを共にしていた。
「─────クレインズ」
「へっ?何ですかそれ」隣を歩く女はキョトンとした顔で俺を見た。
「さっき君らに試飲してもらった酒の名だよ」
「え、でもさっきはウイスキーって……」
「それも間違いじゃない。麦酒の内にペルズブラッドという銘柄があるのと同じかな」
「なるほどお!銘柄の名前ですかっ」ミルは両手を顔の前で合わせた。
「どう思う?売れると思うか?」
「うーん。さっき聞いたお話だと、かなり高級なお酒として売り出すことになりそう……けれど、今はまだ製造出来る数も少ないでしょうし、最初はうちが麦酒を卸してるごく一部の富裕層に向けてノベルティみたいな形で無料で配るのがいいんじゃないかと思うんです。あとは富裕層の方たちのクチコミが横に浸透していけばブランドとして確立できるかも──────って、どうしました?」
「えっ………ああ、いや、思ったよりも内容の濃い返答に戸惑っただけだ」
「あっ、あれ……あたしったら聞かれてもないことを……っ」耳を真っ赤にした女は両手で顔を覆っていた。
販売方法をどうすべきかとは俺も考えを巡らせていた。麦汁の使用量から考えて麦酒の数倍の値でないと採算は取れないだろうし、かと言って得体の知れないものを高価格で購入する者もそうはいまい。
「─────いいと思う。ミル、それでいこう」
「え?」
「その方法ならウイスキーの美味しさで勝負できる。君のお父さんが認めてくれたように、富裕層の連中にウイスキーの魅力が浸透すれば高額でも安定して売れるかもしれない」俺は右拳を握りしめた。
はっきり言って富裕層のみに飲むことが許される酒にしてしまうというのは、俺が望むところではない。だが原資が必要な今はそうも言っていられない。現時点で庶民をターゲットにしたところで無い袖は振れぬ。いずれは庶民層も購入可能なものを売り出すためにも、今は潤沢に財を持つ者をターゲットにすべき。
今後の展望を見据えた逡巡から俺を現実へ引き戻すのは女が啜り泣く声だった。
「─────うぅっ……ぅ」
何だ。何が起こった。何故女が泣いている。女を泣かす男は最低な野郎だと聞いたことがある。まさか俺が泣かしたのか?俺は最低な野郎なのか?
「お、おい、ミル?どうしたんだ」背を丸めて顔を覆う彼女に恐る恐る俺は声をかけた。
「ごべんな゛さい……嬉しくて……っ」
「嬉しくて?」
「………はあっ、ごめんなさい……実はあたし、あの大衆浴場に勤める前までは酒造業に携わってたんです。でもすぐに大きな失敗をしちゃって、それからはずっと今の仕事を任されて……」
落ち着きを取り戻したかに見えた彼女だったが、話すにつれてまた瞳から涙は溢れて来ていた。
「そうか……自分の娘だってのに容赦ないな」
「父は仕事に対しては真っ直ぐで、家族だからと言って妥協は許せない人なんです」
「確かに厳格そうな人だった。ミル、少し落ち着くまで座ろう」
そう言って俺はスペイル河の土手を降り、背の低い草が茂る川べりへミルを誘った。