魅惑の凝縮液
「カリラさんの念動魔力にお願いしようかとも思ったけれど、やっぱりこの作業だけは自分でやってみたい」
俺は出来上がった原酒を両手で抱え、タリスの所から拝借してきた可愛らしい樽に注いだ。その瞬間、空気に触れた原酒は強い酒精と麦の香りを部屋中に漂わせる。樽栓を円形の注ぎ口に押し込み、木槌で叩いて慎重に押し込んでいく。
「これでよし、と。ここからは熟成の工程だ、もうすぐ出来上がる」俺は子樽に手をかざし、時をゆっくりと加速させ始める。
「わくわくだね」アソールは子供みたいな目で姉を見た。
「ええ」とブレアは小さく頷く。
─────それはあまりに突然の出来事だった。
順調に進んでいたかに思えた熟成は樽の何かが崩れる音ともに瓦解した。
「なっ!?なんだ、何が起きたあ!!?」足元のモルタルに染み込んでいく液体を眺めながら俺は叫んだ。
すぐに樽の方へ目をやると側板が外れ、内容物が漏れ出している。
「何をやってンだ!!早く戻せっ!!」サルも叫ぶ。
崩れてバラバラに分解してしまった樽に俺は慌てて巻き戻しの時魔法を履行。崩れ散らばった板は樽へ戻り、内容物は全てその内側へ封入された。
「─────はあっ、はあっ、危ないところだった……一体何が……」
何故樽は壊れてしまったのだろう。老朽化したようには見えなかった。何よりウイスキーの樽は一度熟成に使われたものを二度、三度と再利用するくらいに長期間使えるはずなのだ。
「ショウ様、私見ました。その樽にぐるりと巻き付けてある、なんでしょう……ツルのような─────」
「箍か!?」
「箍というのですね。それがちぎれるところを見ました。それから樽がバラバラに……」と狼狽える俺にブレアは教えてくれた。
「はは……っ。なるほど、考えてみればそうだ」思わず俺は双眸を掌で覆う。
タリスから譲り受けた樽はウイスキー熟成に適した木材を使用し、彼の職人技法によって一滴の漏れもない気密性を保つ。完璧だと先程まで俺はそう思っていた。しかしだ、ひとつ大事なことを見落としていたと言わざるを得ない。
樽の板同士を締め上げ、樽を樽たらしめるために必要な箍。その材質はこの世界においては植物のツルで出来ている。麦酒を充填して出荷するためならばその程度で十分なのだろう。
では、ウイスキー造りが行われている現代の地球で使用されている樽はどうだったというと、箍には必ずと言っていいほど金属が使用されていた。日本古来の伝統工芸品である木桶なども箍には竹を使用しているが、長期間内側に液体を保持する前提で作られてはいない。察するに何年にも及ぶ熟成に耐える為には植物製のものでは脆弱すぎるのだ。
「サル、この箍の部分を金属で作り直せるか?」
「あァ、出来ねェことはねェが、それならいっそのこと樽そのものを金属でぴったり覆っちまえばいいじャねェか。そうすりャ絶対に壊れねェだろ?」とサルは不思議そうに答えた。
「ダメだ、それだと熟成がうまくいかないんだ」
原酒を樽に封入して熟成すると聞くと、熟成の作用は樽の内部だけで行われているものだと思ってしまうがそうでは無い。樽は呼吸している。つまり、樽の外側の大気がゆっくりと内側に作用するのだ。さらに樽板の内部に住み着いた細菌達もまた、外気から酸素を取り込んで熟香の一端を作り出しているとする説まである。
「そうかい。よくわからねェが、これでいいか?」
サルは樽を締め上げる金属製の箍を彫金魔法を使って瞬く間に作り上げた。
「うん、上出来だ。これでさっきみたいな失敗は無いだろう」
俺は満を持して再び樽へ手をかざし「アクセラ」と詠唱した。
夢を詰め込んだ樽は再び時を超え、樽の表面は水分を失って、より茶色が濃くなったように見える。
「今度は零れてない!上手くいったかなあ?」樽を見つめてアソールは言った。
「それはこれからわかるさ」
俺は部屋の隅に積み上げられた荷物の中からガラス製の小さなグラスを五つ取り出した。
「ほう、可愛いグラスじゃの」カリラは眉を持ち上げた。
グラスを樽の上に置き、俺は樽栓を慎重に引き抜いた。ぽっかりと空いた注ぎ口へ恐る恐る鼻先を近づけてみる。
「ぁ…………っ」
鼻腔の奥の粘膜を刺激するアルコールの香りは先程つめた原酒よりも弱く、そして微かにバニラのような香りを俺の嗅覚は受容する。
「カリラさん、樽の中の液体を少しだけこのグラスに移せる?」
「お易い御用じゃ」
カリラが念じると樽の注ぎ口から生き物のようにそれは這い出した。
「あっ!色が!!」変化を真っ先に指摘したのはアソールだ。
彼女の人差し指の先に浮かぶ液体は大気中で球状をとどめ、まるで琥珀の如く美しく透き通った黄金色の宝玉のようだった。そして、やがてそれは五つのグラスの内側に等分割されて収まった。
「何か、嗅いだことの無い香りがします。とってもいい香り……」ブレアはうっとりとした表情で言った。
衝動を抑えきれず、俺はグラスを傾けて舐めるように一口だけその液体を口に含んだ。
まずは最初に丸くなったアルコールの刺激。そして次にみたらし団子のタレを彷彿とさせるこってりとした甘みが下の中央に絡み、舌苔に残った余韻がバニラやナッツのような馨しい香りとなって鼻腔を駆け抜けた。
「──────ウイスキーだ」俺の身体は無意識のうちに震えていた。
正直なところ、地球で販売されていたような香味が複雑に絡み合った完成度の高いものではない。その代わりに単一の原料と製法から抽出された勢いや力強さ、あえて悪く表現するならば"クセ"の味わいが楽しめる酒。
「完成かッ!?」サルは前に身を乗り出した。
「ああ、飲むか?」俺はグラスをサルに差し出す。
サルはそれを受け取り、少しだけ口に含んだ。
「辛っ……いけどさっきほどじャねえな。木の実みてェな匂い……この甘さはなンだ?熟成させると砂糖が出来るのか?」
「蒸留する過程で糖分は蒸留器の方に置き去りにされてしまうから、ウイスキーに糖分が含まれることは無いよ。もし甘味を感じるんだとすれば、それは全て風味から引き出された味覚ということになる。全く砂糖が入っていないのに甘いなんて不思議だろう?」
「これで砂糖が入ってねェのか……こんな味わい深い酒は初めて飲む」グラスの内側で揺蕩う黄金色を眺めながらサルはぽつりと言った。
「あたしも飲みたーいっ」元気よく挙手したのはアソールだ。
続いてアソールも一口ウイスキーを口に含む。
「うっ……あ、でもすごいいい香り!あたしこの香り好き!でもこのお酒強すぎない?」アソールは不満げにこちらを見た。
「ウイスキーにも色々な飲み方があるんだ。これを二、三滴だけ垂らして薄めて飲んでごらん。度数は下がるし、また違う味わいが楽しめるよ」そう言って俺は彼女に水の入った小瓶を差し出した。
促されるままに小瓶の水をグラスへ少しだけ注ぎ、アソールは再びグラスを傾けた。
「あっ、飲みやすくなったかも!美味しい!…………んん?ショウさん、これ本当に水?」
「うん、水だよ」
「なんかお酒の匂いがちょっと変わったような気がするんだけど」とアソールは首を傾げた。
俺が初めてウイスキーを希釈して飲んだ時は香りの変化には気が付かなかった。竜人の嗅覚は優れているのだろうか。
「ああ、それがウイスキーの面白いところなんだ。少し加水するだけで、なりを潜めていた香りが開く。それがいい香りの時もあるし、苦味みたいな良くない香りの時もある。こうやって自分の舌に最も合った濃さを探すのも楽しいんだ」
この後、五人で出来上がったウイスキーを試飲したが、思った通りそれぞれが感じる風味は個人個人で違っていた。
カリラなどは奥に少しだけ土臭い風味を感じると言っていたし、ブレアは蜂蜜のような粘性のある甘みを感じるとも言っていた。これは人それぞれ固有の後天的味覚を有しているということであり、誰が正しいとか、誰が間違っているということはない。
いずれにせよ、四人ともウイスキーを総じて"美味しい"と評してくれたことが俺は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。