7
ルスラン 7
言葉を失い呆然としている僕を一寸だけ睨みつけ、アーシュはすぐに踵を変え、あっとう間にさっきまで居た林檎の木に飛び上がった。
その細く若枝のような肢体から、僕は一時も目が離せない。
と…
「おおい、おにーさん。俺が林檎を落とすからさっきみたいに受け止めて」と、叫ぶ声。
言い終らぬ内から、僕に向って次々と投げつけられる林檎を、僕は命じられるままに、傷つけないように受け取り、足元に置く。
彼もお構いなしではなく、熟した林檎を餞別しながら、ポイポイと投げよこしてくる。
綱渡りのように細い枝に向かう足取りに、いらぬ心配とは言え、少しばかり肝を冷やしたが、彼は鮮やかに枝から枝に飛び移り、お目当ての実を捥ぎ取っていくのだ。
「これぐらいで良いかな~」
林檎の木から降りたアーシュは、足元に置かれた相当な量の林檎の山を見て、満足そうだ。
一体どうやって消化するのだろうと、聞こうとすると、当の本人の姿が無い。
慌ててキョロキョロと辺りを探すと、古びた手押し車をすごい勢いで押してきた。
「はい、これに入れて!」
命じられるままに、僕は収穫した林檎を載せていった。
するとまた、彼の姿が見えなく、一時して壊れかけたブリキのバケツを手に走り寄ってくる。
「こっちはおにーさんの分。手伝ってくれたからさ」
「…」
いや、これは元々僕の林檎の木なのだが…と、言おうと思ったが、すっかりアーシュのペースに乗せられた手前、彼を不機嫌にだけはするまいと心掛けた。
「こんなに沢山、どうするんだい?」と、彼の機嫌を見ながら問う。
「保育院に持っていくんだ。エダは料理が趣味だから、リンゴジュースにリンゴジャム。コンポートにアップルパイ。ガキ共はいつもお腹すかしているからね。寮の奴らにも分けてやるけどさ」
「君も…保育院の子?」
「そうだよ」
僕の顔を見もしないで、一心不乱に林檎を運ぶアーシュは、さっきの乱暴でクセのある子には見えなくて、まるで純粋無垢な羽の生えた天使にも似て。
あまり見つめてはまたドヤされると思い、チラリと盗み見するだけでも、この子の特殊な輝きに魅せられる。
白磁のような肌に、仄かに紅く染まった頬、ギュと結んだ赤い唇、柔らかくくねった黒髪の跳ね具合の愛らしさ。少しばかり綻んだ藍色のケープも、一見してお古と思える学生服も、彼の輝きを少しも損なってはいない。
リノが言ってた通りだな。
保育院で育つ子は特別な子ばかり居るって言ってたっけ。だからこの子もこんなに…。
「あの林檎の木、実は僕の友達で…君のいる保育院出身の先輩が植えたんだ。それを彼が卒業する時に譲り受けてね。知らないかな。リノって言ってね、君より随分上にはなるけれど…ああ、保育院に良くお菓子を持って行くって言ってたんだけど」
「知らない」
まるで興味ないとでも言った風にアーシュは僕の話を一言で片づけてしまったものだから、僕はその先を話せなくなった。
「じゃあね」
僕の分だと言い、バケツからはみ出すぐらいの林檎を積み上げた後、アーシュは急いで帰ろうと押し車に手を掛けた。
「待って!アーシュ!」
彼の名を呼んだ僕の声が、何だか少し変な気がした。
なによりも、鼓動が早い。
こんなのはおかしい…
呼ばれたアーシュは不機嫌に振り向き、僕を見上げる。
「まだなんか用?林檎足りない?それとも、俺のこの美貌にイカれて、犯したいとでも思っているわけ?」
「い、いや…そんな事…」
「じゃあ、何?」
「…」
言葉が出なかった。
なんというか…天使と思ったら小悪魔のようでもあり、それでいて、見事な整合性を持った自意識。
惹きこまれる。
もっと一緒に居たいと願った。
なのに、彼と共有する話のネタすら思い浮かばない。
「あのな!リノって奴があんたの初恋の相手でも、俺には関係ねえし。大体黒髪に眼鏡の男なんてそこら中にいるだろ。おにーさんは俺が視て、いいひとだから、林檎を分けてやったんだ。それで満足しとけよ」
「!!」
驚いたどころじゃない。
「き、君は…僕の思念を読んだのか?」
「ああん?読まねえよ。メンドクサイし。あんたの見てるものがちらりと映っただけ。言ったろ?俺、天才魔法使いで、魔王だって」
「…」
そんな事って…
僕だって一応は優秀なアルトのつもりだ。昔ならいざ知らず、簡単に他人に自分の思考を読ませるようなヘマはしない。
確かにこの子は魔力は強い。でも僕の思考を探った感じは、全くしなかった。
まだ十かそこらの少年なのに?
「おにーさんは俺の特別になりたいのか?」
「え?」
真っ黒い闇の中に、無数の光を散りばめた大きな瞳が、僕を射る。
何と言う力強さだ。
眩暈がする。
「じゃあ、名前をやるよ。そうだな…ああ、その髪、飢えた銀狼みたいで綺麗だし、夜空の星にも似てるから、シリウス。どう?」
「どう…って」
「ああ…真名は別にあるみたいだけど…よく見えないな。でもまあ、じじいの付けた名前より、シリウスの方がかっこよくね?」
「じじい…学長の事?」
「他に誰が居るって言うんだよ」
「学長はまだ四十代だと思うけれど…」
「充分じじいじゃんか。偉そうに聖人ぶって、拾って育ててやったって恩着せがましいんだよ」
「…」
なんだが昔リノが言っていた言葉を思い出して、思わず笑ってしまった。
「なにが可笑しい」
「いや、リノも同じ事言ってたから。学長に恩があるけど、それが癪だって…」
軽い笑いに変えようとしたが、アーシュは僕を睨みつけたまま…
「…あんた、リノって奴に入れ込んでいるみたいだけどな。いいか!この俺様とそいつを比べるんじゃねえよっ!」
「…ゴメン」
勢いに呑まれて、思わず謝った。
全く…こんな子供に、僕が慌てふためいているなんて、ミカやハルが見たら、どう思うだろうか。いや、そんな事はどうでもいい。
この子が僕を見てくれている事が、僕は嬉しいんだ。
「確かに保育院出身は悪目立ち過ぎるけど、根が僻んだ奴らばかりだから、あんたみたいな善人はすぐに騙される」
「僕は善人なのかい?」
「どこもどう見ても善人だよ。自分じゃわかんねえの?…ったく、これだから、普通のアルトって面倒臭いんだよなあ~」
善人だなんて、こんなにはっきりと面と向かって言われた事が無い。なんだかくすぐったい気もするが…
「僕は、褒められているのかな…」
「褒めてねえし!しっかりしろって言ってるじゃないか。保育院出の奴らを簡単に信じるなって、わざわざあんたに教えているのがわかんない?…呆れた聖人君子だぜ。やってらんねえ~。俺、帰るわ」
「ま、待ってくれ、アーシュ。また君に会えるかな?」
何が彼を怒らせたのか、僕には理解出来なかったし、彼を怒らせたまま、別れるのが嫌だったから、僕は思わず彼の腕を掴んだ。
その細さに驚きつつも、彼の脈動が、強く伝わるのを感じだ。
彼は…
本物だ。
僕らとは違う…
本物の…
アーシュは僕の手を振り払い、上目使いで凄味を聞かせた声で(もちろんソプラノではある)僕を罵った。
「勝手に俺に触るんじゃねえの!もう、盛りの付いたオスはこれだから嫌なんだよなあ~。俺に会いたがる男も女も五万といる。そんなのいちいち相手にしてられるかっていうの!つうか俺、番いの相手がいるから、諦めろ」
「つが…い…」
「そう!ルシファーってすげえ可愛い同い年の子でさ。まあ、なんつうか、相思相愛?運命の恋人?って感じなの。だからおにーさんの相手は無理」
「いや、君とどうかなりたいわけじゃない。ただ…友達に…」
「その友達というワードに、下心は無いと誓えるか!」
「…」
思わず黙った事は、僕の最大のミスだ…
「あはは!マジでいいひとだ!気に入ったよ、シリウス!じゃあね!」
満面の笑みを僕に返したアーシュは、押し車を物凄い勢いで押しながら、保育院のある建物の方へ走り去っていった。
残された僕はなんというか…
段々と腹の奥底から笑いが込み上げ、どうにも止まらなくなってしまった。
こんなに陽気に楽しい気分を味わったのは、何年振りだろう…
アーシュ、君は一体何者なんだ?
母さんの予言した僕を導く者?
そうであったら…
そうであってくれるなら、
僕は幸せになれる気がする。