エピローグ 幸せになる資格
結局、治安部隊はキリルとサラの逃走を許した。
「あんな思いをして捕まえたのに」とかなり落胆したセイヤとリサだったが、特命チームは通常勤務に戻っていた。キリルとサラの捜査には警察捜査隊が行い、もう特命チームが呼ばれることはなかった。
あれからさらに10日経ったが、今もキリルとサラは見つからず、すでに彼らは中央地区を出てしまった可能性も高かった。
世間は治安部隊の失態を批判しながら、キリルとサラの逃走を手助けしたのは病院を襲ったシベリカ人の少年たちだとして、さらなる『反シベリカ』となっていった。
改めてリサは、少女サラの両手を粉砕しておいてよかったと思っていた。リハビリをしても元の戦闘能力は取り戻せないだろう。
サラを逃してしまった今、またいつダイやヤハーの孫が襲われるとも限らない。が、今のサラにならば、民間の警備会社でも充分、太刀打ちできるはずだ。
未だ一部の人たちからネット上で非難され、治安局の一部の人間からも後ろ指を差されていたリサだが、全く気にしていなかった。そんな小さな『敵』がいることで、セイヤや特命チーム内も結束が固くなり、むしろ敵の存在は夫婦仲を円満にし、仲間意識を強めてくれていた。
だがある時、こんなメッセージが自宅のポストに届いていた。
『罪を背負ったリサ・シジョウは幸せになる資格はない。罪を背負った者は幸せになれない。幸せになってはいけない。それが傷つけた者への、せめてもの償いとなる』
食卓で封を切り、メッセージを読んだリサは考え込むように、その手紙を見つめていた。
何が書かれているのか、いつものリサならこの手の嫌がらせには鼻で笑うのにと、その様子を見て怪訝に思ったセイヤは、リサが持っていた手紙を覗き込む。一読してすぐにその手紙を取り上げ、キッチンのガス台で手紙に火を点け、流し台へ投げ捨てた。
手紙はあっという間に燃え、立ち上る焦げた臭いが鼻を突いた。
――リサが罪人なら、オレはさらに罪人だ。トウア国を守るためにシベリカ地方独立運動を裏で支援する作戦に加担したのだから。この独立運動は内紛に発展し、多くの人の血が流れ、命が奪われたはずだ。
セイヤにとっての『正義』とは、自分と自分の家族と仲間の命と暮らしを守ること。この一点に尽きる。この正義を貫くための行動は、しかし他者にとっては『悪となる行為』になる。
アリア国はシベリカ支配から脱却できそうだが、シベリカの地方地域はシベリカ中央政府に抑えつけられ、独立を支持する市民への弾圧が始まっていた。
が、シベリカ中央政府は、運動家や独立を支持する市民をテロリストと呼び『悪』として扱っている。
一方、運動家や市民のほうは、国民を抑圧するシベリカ中央政府を『悪』だと訴えている。事実、シベリカ中央政府は多くの運動家や市民を疑わしいからという理由だけで逮捕していた。そのやり方はまるで独裁国家ノースリアのようだという。
シベリカの地方都市を独立させようとしていたマハート氏の消息も分からなくなった。
セイヤは黒焦げに縮んだ手紙の残骸を見つめながら、今まで自分の胸にしまっていたことを口にした。
「なあ……もしも、トウアが住みづらくなったら、海外に移住することを考えようか?」
自分たちにこういった嫌がらせをしてくる者は、ごくごく一部の人間であり、トウア社会は今、リサの味方だ。しかし、これがいつひっくり返るか分からない。
世間は簡単に手のひらを返す。
数年前であれば、リサの行為は未成年者への人権侵害であり、許されざる暴力行為として世間に吊し上げられただろう。
トウア国には感謝していた。孤児の自分たちの面倒を見てくれ、生活を保障してくれた。この国が自分たちにとって住みやすく、ここで幸せになれると信じていたからこそ、国を守りたいと思っていた。今まで精いっぱい尽くしたつもりだ。
――けど国も世間も警戒すべき魔物だ。いつ敵に転じるか分からない。
私刑じみた行為をしたリサへ嫌悪感を抱く感覚のほうが善であり、おそらく正しい。
でもセイヤはリサの逸脱した行為を批判する気になれなかった。
そうやって、正しさから遠ざかろうとしている自分たちは、いずれきっと世間から攻撃されるようになるだろう。
そう、世間は正義という免罪符を掲げながら非難してくる。免罪符があるから容赦がない。そして免罪符となる正義はその時々で変わってしまう。セイヤは今、その恐ろしさをヒシヒシと感じていた。
もちろん移住先の外国は、自分たちを外国人として扱い、それなりに権利が制限されるだろう。いい仕事も見つかるとは限らない。条件の悪い仕事しかないかもしれない。不便で貧しい生活を強いられるかもしれない。
そういったことを天秤にかけ、どちらの道がより幸せに心穏やかに暮らせるかを考え、選択してもいいと思っていた。あくまでも自分たち家族の幸せが優先される。
セイヤの問いに、しばらくリサは考え込んだ。そしてこう答えた。「それもいいかもね」
トウアの街を守りたいと言っていた兄の遺志を継いで治安部隊に入ったが……兄はきっと許してくれるだろう。今まで自分なりに尽くした。その分、罪も犯したが――。
リサは居間のソファに積んでいた旅行パンフレットを手にして、セイヤに笑顔を向けた。
「どこの国にする?」
それから二人はソファに座り込み、パンフレットを眺め、将来のことを語り合った。
「オレはゴルディアがいいかな。冷徹な国だけど治安もいいし、そこそこ福祉も充実しているし、一番、納得できる社会システムを構築していそうだよな」
「セイヤに合いそうなお国柄だよね」
「ただ永住権を取る条件はなかなか厳しいよな。ゴルディアへ持ち込む資産と納税額で決まるからな。これから貯蓄に励んで、そのうち投資でもして、資産を増やしておかないとな」
「じゃあ、ルイに相談してみる? 投資のほう詳しいみたいだし、着々と資産を増やしているそうよ」
「ああ、それがいいかもな」
「ゴルディア語、勉強しないとね。仕事はどういったものがあるかなあ」
「ま、ほかの国もいろいろ調べてみよう」
「そうだね」
トウア国にこだわらない。ただトウア国の公務員である間、任務は果たす。
そう決めたら、リサは気持ちがラクになった。そうだ、逃げればいいんだ。戦えば罪を犯す。だから逃げられるうちは逃げてもいいかもしれない。
セイヤとのおしゃべりを終えた後、リサは流し台に行き、手紙の燃え滓をビニールに入れ、ゴミ箱に捨てた。
その後、海外移住の話をルイにチラッと漏らしたら――「移住するならアリア国にしなさいよ。今に見ていて。トウア国やゴルディア国のいいところをお手本にして、住みやすい国になるから。私もいずれアリアに帰って、アリア国のために尽くしたいし……ね、一緒にアリアに住もうよ」と言われてしまった。
リサは頬をゆるめる。
――アリア国か。それもいいかもしれない。
そうしたら三人でまた動物園に行こう。アリア国にも動物園はあるだろう。まあ、ジャン先輩がいないのは寂しいけれど。その分、ゴリラを堪能しよう。いや、こうなったらジャン先輩も誘っちゃう?
穏やかで平和な楽しいひと時を過ごせることを願って。
・・・
時が経ち、季節は枯葉が舞う晩秋を迎えていた。
ジャンは時折、マオー氏の孫ダイの許を訪ねていた。一緒にテレビゲームをするだけで、その間もダイは無言で、話しかけても生返事ばかりだったのだが――そんなダイが先日、めずらしく話しかけてきて、リサのことを話題にしたという。
「あの……おネエさんにお礼、言っておいてくれるかな……。犯人に重い障害を負わせたことで、一部の人に非難されているみたいだけど……おネエさんのおかげで……犯人が逃走したと聞いても、僕はそれほど不安を感じないでいられる。……心臓をもらったことは悪いと思ってる……けど、やっぱり殺されるのは嫌だから」
ダイは、リサがネットで一部の者たちに叩かれていることを知っていたようだ。
ジャンからその話を聞いた時、リサは少し救われた。
また、同じような話を、ヤハー氏の孫の許へ通っていたフィオからも聞いた。
「世間が何を言おうとリサさんは僕たちにとってヒロインなんです」
どうやらフィオはヤハー氏の孫に『リサ漫画』を見せているようだった。
リサはあの例の手紙を思う。
『罪を背負ったリサ・シジョウは幸せになる資格はない。罪を背負った者は幸せになれない。幸せになってはいけない。傷つけた者に対し、それがせめてもの償いとなる』
と同時に、学生時代に聞いたサギーの言葉が甦ってきた。
――そういえば、サギーも似たようなことを言っていたっけ。
『いかなる理由があろうと殺人を行った者は幸せになる資格はない。それだけの罪を背負う』と。
もちろん、サギーのその言葉は、人の命を奪う可能性がある治安部隊や軍を貶めるために吐いたものであり、あの手紙の主の考え方とは根本が違うのだけど。
リサは改めてこんな問いを抱く。
――罪を背負っていない人間っているのかな。
――誰も傷つけたことがない人間っているのかな。
――どの程度の罪なら許され、どこから許されないのか。それは誰が決めるのか。
この手紙を書いた人物は『自分は悪を犯さない善なる存在だ』と思っているのかもしれない。けど、もしかしたら、それこそ恐いことかもしれない。
ただ、そう考えるのも、自分を正当化したいための言い訳だと分かっていた。
自分はおそらく罪深い人間だ。
兄が死んだ当初は、自分は幸せになる資格はないと思い、死に場所を求めていた。でも、今は幸せになりたい。あの時より、今のほうがずっと罪を犯しているにも関わらず。
――どれが正しい生き方なのだろう?
――幸せになることを放棄し、死んだように生きるほうが自分にはお似合いなのか?
――償いとはなんだろう? そもそも償えるものなのか?
――では、自分にふさわしい罰とは、どういった罰なのか?
頭が痛くなってきた。
人間、そんなに正しく生きられない。今ではもう何が正しいのかすらも分からない。
ただ、善人たちからのこの程度の非難は仕方ない。罪を犯してきた自分への罰だと思えば安いものだ。
自分ができるのは、身近にいる大切な人とそこそこ満足しながら幸せに暮らすこと。ただそれだけだ。その幸せが脅かされれば守るしかない。その方法は逃げるか、戦うかだ。
そう、逃げるのもいい。だからセイヤは海外移住を考えてくれているのだ。
罪悪感も所詮、自己満足――ならば、自己満足しながら生きていくしかない。
・
一方、セイヤのほうは夫婦一緒に治安部隊を辞めてもいいと思っていた。
この仕事から離れれば、少なくとも今以上に罪を背負うことはなくなる。汚れた仕事をしないで済む『善人』でいられる。『正しさ』から遠ざからないで済む。
『罪を背負ってくれる誰か』に守られていることを肝に銘じた上で、この割に合わない過酷な仕事からそろそろお暇してもいいかもしれない。二人で一緒にできる仕事を見つけたい。
海外移住――本気で逃げるのは最後の手段だ。
セイヤはあの少年と少女のことを思い出す。そう、少年に「国を変えるべき」と諭した自分自身は、国や社会を変えるよりもそこから逃げようと考えている……。
人に説教なんてするもんじゃないな――セイヤは改めて自分に呆れる。
そして思う。あの少年と少女も国に利用されながらも必死で生きてきたのだと。例え、間違った生き方だったとしても、そうするしかなかった……。
いや、それが間違った生き方なのかどうか、ジャッジする資格は自分たちにはない。
自分にできるのは、身近にいる大切な者を、自分たちの暮らしを守ることだ。逃げることが守ることにつながるなら、逃げてもいい。
けど、せっかく距離が縮まった仲間たちと一緒に今の仕事を続けたい気持ちもあった。それに自衛・治安維持という免罪符はあるものの、彼らだけに『汚れ仕事』を押しつけ、罪を背負わせるのも気が引けた。
まだ世間の多くはリサに対し、手のひらを返したわけでもない。敵となったわけではない。
――退くのは早いか。もう少しここでがんばってみるのもいいかもしれない。
『特命チーム』は、いつの間にかセイヤにとって離れがたい場所にもなっていた。
・・・
心地よい秋の終わりの休日。
空の青が薄まり、茜色と黄昏色が混じり合う夕暮れ時、セイヤとリサは夕飯の買い物に出かけた。穏やかな風がどこかの家で作っているのだろうカレーの匂いを運んできた。
「あ、今夜はうちもカレーにしようか」
「いいね」
ほんのりとしたカレーの匂いに包まれながら、スーパーマーケットまでの散歩道。二人は歩く速度をゆるめた。
それでも、だんだんカレーの匂いが遠ざかる。セイヤはちょっと足を止める。
「ん?」リサが振り向く。
「名残惜しいな」
「カレーの匂い?」
「ああ」
「これからうちも作るんだから、イヤというほど部屋がカレーの匂いで充満するわよ~」
「ま、そうだけど」
道端に漂うどこかの家のカレーの匂い――セイヤは子供のころを思い出していた。
夜へ向かう空の下、各家庭から漂う夕飯の気配。その中でもカレーの匂いは格別だった。
でも両親が亡くなり、家庭を失い、養護施設送りになってから、家庭の匂いからあえて遠ざかるようにしていた。この匂いに包まれると、あまりの喪失感に心がかき乱され、辛くなるからだ。
それなのに、あの時――いじめっ子のアントン・ダラーを殴って怪我させ、ルイを連れて入院中のアントンを訪ね、二度とちょっかいを出すなと脅した後の帰り道。どこかの家で作られているのだろうカレーの匂いが漂ってきた。
茜色の空が陰り、時はすでに夕刻に入っていた。家族という絶対的な味方を失い、ルイ以外の者は全て敵に思え、本当はとても心細かった。そこへカレーの匂いがセイヤを包んだのだ。懐かしさを覚えながらも寂しくて仕方なかった。
けれどルイの手前、泣き言も言えず、微笑むしかなかった。この時から、自分の感情に蓋をしてしまったのかもしれない。リサに出会うまで。
そんなもの思いにふけるセイヤをリサの声が引き戻す。
「カレーといえば、セイヤって最初辛口がダメだったよね。仕方ないから、お子様用の甘口ルーをよく使ったっけ」
「昔の話だろ。甘口はすぐに卒業しただろ」
少しムッとしてセイヤは応える。別に甘口カレーだって別にいいじゃんか、リサは物足りないって言うけれど、甘口には甘口のよさがあるんだ――と心の中でぼやきながら。
「……昔か」
リサは遠くを見つめた。
二人が出会ってから6年経った。結婚してからは3年だ。
「これからも……」
「ん?」
「こうしていろいろ昔の話を持ち出せるようになるのもいいかもね」
「どうして?」
「それだけ、たくさんの時間を二人で過ごしてきたってことになるわけじゃない」
「ん、まあな」
「だから、長生きしようね」
「ああ」
「そうだ、今思いついたんだけど、私たちの目標は老衰で死ぬことにしようよ」
「何だよ、それ」
そう言いつつも、セイヤはその目標がとても気に入った。
「ま、できれば、曾孫の顔も見たいよな」
「あら、目標はでかく、玄孫まで行きましょうよ」
「つうか、それよりまず子どもだろ……孫や曾孫や玄孫の顔を拝むには」
「そうだね」
リサも笑顔になる。脅迫状のことが頭に浮かんだが、すぐに打ち消した。
――今だけは、ひと時の安らぎを満喫したい。
だから郵便受けも今日は覗かない。ニュースも見ない。今夜はカレーを食べながら、二人で旅行番組でも見て、心穏やかに過ごすつもりだ。
どうせ明日から仕事で、どす黒い現実と向き合わないとならない。
どこにいようが、どこに逃げようが、どこにでも『どす黒い現実』はあり『敵』もいる。時には戦うことになる。
罪を背負ってでも、自分たちの今ある暮らしを守ることを優先する――それはセイヤもリサも同じ思いだ。
どこかの家から流れていたカレーの匂いはすっかり消えていた。でも、もう寂しくはない。心細さも感じない。傍には頼りになる家族、そして仲間がいるのだ。
黄昏に染まった淡い光の中、道に映し出されていた影法師が二つ並び、家路へと急ぐ。
彼方の向こうに行ってしまったカレーの匂い。この後は、セイヤとリサの家が夕餉の匂いを風に乗せて、道行く人に届けるだろう。
とりあえず一区切り。「なろう」での連載はここで完結とさせていただきます。
読んでくださった方、ありがとうございました。




