第1章 たかがゴリラ、されどゴリラ
5つの島から成る海洋国トウア。家々の白壁が青空に映える、昔ながらの風情を残す美しい旧市街と、近代的な高層ビルが建ち並ぶ新市街が混在する――経済的に落ち目といえど世界的に見れば豊かな文明を持つ民主主義国家だ。
島は『地区』と呼び、首都トウア市は中央地区、それを取り囲むように南地区、北地区、西地区、東地区が点在し、中央地区からそれぞれ海底トンネルと橋でつながれている。
そんなトウア国の総人口は約3000万人。
が、人口減少による労働力不足を海外からの移民や出稼ぎ労働者で補っており、300万人弱の外国人が在住し、その中でもシベリカ国からの出稼ぎ労働者と移民が多く、約210万人と突出していた。
シベリカ人たちは一つの地域に集まってコミュニティを形成するようになり、やがてそれはシベリカ人たちが集まる街となり、今ではトウアの各地区に『シベリカ人街』がある。
一方、そのシベリカ人たちの祖国は――トウア国の西海の向こうにある大陸の半分以上を占める広大な国土を持つ大国であり、膨れ上がる人口と貧富の差に頭を悩ませており――シベリカ国は増大する国民を養うべく、豊かな海洋権益を持つトウア国を支配下に置こうと目論んでいた。
国の密命を受けたシベリカ工作員らは長い年月をかけて情報工作と教育工作を仕掛け、トウア社会に絶対平和主義を浸透させた。トウアの警察組織である治安部隊と国防軍を『暴力的な血生臭い連中』として、彼らの存在こそが『平和を脅かす悪』だとトウア世論を誘導した。トウア国の治安部隊と軍の予算を削らせ、弱体化させることが目的だった。
その上でトウアに在住するシベリカ人とトウア人を反目させ、憎悪を煽り――さらに全国規模で同時多発的に重犯罪を起こし、市民を暴徒化させ、治安部隊の目をそちらへ向けさせた隙に首相や大臣たちが集まっている国会を襲った。
その後――シベリカ軍が「シベリカ人を保護する」という名目を掲げ、無政府状態に陥っているトウア国に侵攻する予定だった。
しかしトウア国が先にシベリカ国に内乱が起こるよう画策し、それが実行されたため、シベリカ軍は自国の紛争を鎮圧しなくてはならなくなり、トウア国への進軍は見送られた。
こうしてトウア国にとっては最悪のシナリオは回避されたものの、国会襲撃事件以降、首相も負傷し、トウア社会の治安悪化が収まらず、犯罪が多発していた。
大規模な暴動は、軍が治安に関与するようになってからは沈静化し、街は徐々に秩序を取り戻しつつあるものの――
治安部隊に過重労働を強いていることには変わりなく、あまりの過酷な勤務に退職者が増え、ますます人員不足となり、一人の隊員にさらなる負担がのしかかるという悪循環にはまっていた。
・・・
あれから――何者かに頭と胸を撃たれたサギーはずっと意識不明が続いていた。
サギーは国会を襲った実行犯の一人として、トウア治安局長直属特命チームに所属するセイヤ・シジョウとリサ・シジョウに逮捕された。その際、怪我を負ったため、トウア国立中央総合病院で治療を受け、翌日には退院となったが、警察捜査隊・取調室へ護送される際に狙撃されてしまった。
それでも一命を取りとめ、今もなお、この病院の集中治療室に入院中である。
同じ病院には、サギーと同様に国会を襲撃し、リサ・シジョウに撃たれた『少年』もいた。重傷だったため入院が長引いていたが、こちらはやっと退院の目処がついたところだ。
その少年が入院している特別室は一般患者の病棟から離れた場所にあり、少年には逃走・自殺防止用に拘束具が着けられていた。
そんなある日。病棟の消灯時間が過ぎ、夜が深まる頃。
特別室のドアの前で所在なさげに突っ立っていた監視係のパトロール隊の隊員は、薄暗い廊下の向こうに、防災用照明が不気味に赤く灯る中、微かな物音を聞いたような気がした。
が、ボンヤリして働かない頭がそれを否定する。このところ過酷な勤務が続き、残業に次ぐ残業で、心身共に疲れ果てていた。今も瞼が下がり、立ったまま眠ってしまいそうだ。
そこはナースステーションからかなり離れており、特に暗かった。トウア国は治安悪化と共に経済事情も悪くなり、病院も経費削減の一環として節電に励んでいたためだ。
少年が入院していた最初の頃こそ、二人体制で監視していたが、少年の入院が長引き、隊の人手不足もあり、いつの間にか一人体制となった。監視と警護の人員は、頭と胸を撃たれた意識不明の女性被疑者のほうへ回されていた。
監視係の隊員は今日何度目かのあくびをしながら、壁に寄りかかる。強烈な眠気が襲ってくる。また物音がしたかな? そう思った直後、完全に意識を失った。
その後、隊員が気づいた時にはベッドにいたはずの少年の姿が消えていた。
・・・
そよ風が心地よい春の夜、セイヤ・シジョウは自宅マンションにてシャワーを浴びていた。
日頃の厳しい訓練でますます筋肉が鍛えられ、プチマッチョ化した己の体を観察する。
ジャン先輩のような『ゴリラ体型』にだけはなりたくないけれど、今くらいならばバランスもとれていて、男として決して悪くない。自分もまだまだ捨てたものではない。
今夜はそんなに疲れてないし、リサもそれほどバテていた様子はなかったし、何といっても明日は仕事も休みで寝坊ができる。
てなワケで心が浮き立っていた。
そう、リサと結婚してもう3年目。
――保護者を失くして孤児となり、セイヤは8歳の時、リサは17歳の時に未成年養護施設へ送られ、リサとは施設の付設高等学校時代からのつきあいになる。学校卒業後、同い年の二人は公務員としてトウアの警察組織である治安局治安部隊の職に就き――いろいろあったものの、めでたく結ばれ、今は夫婦として同じ部署で働いている。
が、毎日の訓練や仕事がキツくて「疲れたっ、早く寝たいっ、睡眠が一番っ」という日々を送っているうちに夫婦生活がおざなりになってきた感がする今日この頃。ちょっとテコ入れをしなければと思っていたのだ。
「テコ入れ、テコ入れ♪」
今夜のあれこれをシュミレーションしながら、セイヤはしっかりと体を洗い終える。脱衣室の足拭きマットに上がり、リサが用意してくれたバスタオルを籠から取り出し広げた。
「こ、これはっ……」
セイヤは愕然とした。そのバスタオルには何と! ニヤついた『ゴリラ3兄弟』のでっかいイラストが描かれていたのだ!
とりあえず手ぬぐいを下半身に巻き、脱衣室を出てキッチンにいるリサを問い質す。
「よりによって何でゴリラの絵のバスタオルなんだ?」
「ん?」
今しがた食器洗いを終えたらしいリサは手を拭きながら――皿洗いは夫婦で交代にやっている――セイヤのほうへ視線をよこす。
よく見るとリサが手を拭いているタオルにも『ゴリラ3兄弟』のイラストが描かれていた。
ベッドにある『ゴリラ3兄弟』のぬいぐるみに続き、タオル類にまで……『ゴリラ』がうちを侵食し始めた。セイヤは頭を抱えたくなった。
そんなセイヤの心を知ってか知らずか、リサはしれっと答えた。
「ああ『ゴリラ3兄弟タオルセット』ね、ルイがくれたのよ。すっかり『ゴリラ3兄弟』ファンになったみたいね」
またもやルイは余計なものをリサによこしたらしい。ベッドにある『ゴリラ3兄弟』のぬいぐるみも、ルイがくれたものだった。
ちなみにルイ・アイーダは、セイヤとリサと同じく未成年養護施設出身で、そこの付設学校で一緒に学んだ二人の友人であり、現在、研究生としてトウア国立大学院に通っている。トウア中央動物園に遊びに行った時、ゴリラが大変気に入り、そこのマスコットキャラの『ゴリラ3兄弟』にはまっているようだ。
「これ、なかなか質のいいタオルだよ。フカフカでさわり心地いいし」
リサはルイの贈り物を気に入っているようだが、セイヤにとってはタオルに描かれている『ゴリラ3兄弟』のイラストが問題なのだ。
そう、ゴリラといえば、ジャン先輩、ゴンザレ、アザーレである。彼らはセイヤとリサが所属する同じ特命チームの同僚だが、説明するまでもなく野獣系のむさ苦しい男どもだ。
そんな彼らはトウア中央動物園のマスコットキャラになった『ゴリラ3兄弟』に似ていた。少なくともセイヤの目からはそう見えた。
だからあの三人の顔を彷彿とさせるようなバスタオルで自分の体を拭きたくないのだ。
セイヤは水滴を垂らしながら、リサに訴える。
「ゴリラの絵のタオルなんて使いたくない……」
リサからすればバスタオルごときに何を駄々こねているのか、と思っているだろう。
「ああ……体ちゃんと拭いてないから床が水浸しじゃない。セイヤってヘンなところで子どもっぽいよね」
案の定、リサはショートボブの頭を横に振り、呆れたようにため息をついていた。
「じゃ、私がそのバスタオル使うよ」
「え?」
「これからシャワー浴びるから、そのままゴリラタオル置いておいてね。セイヤのバスタオルは今、出してくる。ちょっと待ってて。その濡れたままの体でうろうろしないでよね」
リサはセイヤのバスタオルを取りにキッチンを出ようとしたが、セイヤが慌てて止める。
「ちょっと待て。ゴリラのバスタオル、リサが使うのか?」
「質のいいタオルだし、使わなきゃ勿体ないでしょ。せっかくルイがくれたのに」
「……」
セイヤは思案する。リサが『ゴリラバスタオル』を使うということは、あの三人に似ているゴリラの顔がリサに触れるということである。
つまり、あの三人のニヤついた顔がリサの裸体に巻きつき、リサの裸体を包むのだ! しかもゴリラたちはただニヤついているだけではなく、1匹(1頭)は舌を出し、もう1匹(1頭)は唇を突き出してチューの形をさせていた。
「いやダメだ」
リサの裸体がゴリラたちに舐められ、チューされる様がセイヤの脳裏に浮かぶ。
「へ?」
「ゴリラバスタオルを使うのはよせ。それだけは譲れない」
「えええ?」
ついにセイヤの『譲れない発言』が出てしまった。こうなるとスーパー頑固になるセイヤ君である。
もちろんセイヤだって分かっていた。これはどう考えても『下らないこだわり』だ。けど、イヤなものはイヤなのだ。たかがゴリラ、されどゴリラである。
「勿体ないっていうならオレが使うよ。そのゴリラバスタオル、オレ専用にしてくれ。リサもフカフカタオル使いたいなら別のを買えよ。その代わり無地にしろよな」
「はあ」
リサは心の中で……ええ~とセイヤ君、たしか今年の夏で23歳になるよね……と苦笑する。
セイヤは脱衣所に戻ると、渋々ゴリラバスタオルで体を拭き始めた。もちろんゴリライラストが描いてある面を避けて。
――ああ、心浮き立つ春の夜だったのに……すっかり覚めてしまった。いや、でもゴリラに夫婦生活を邪魔されるのもシャクである。がんばらねば……。
パジャマに着替え終わったセイヤはゴリラタオルに心を乱されつつも、寝室へ入り、これからシャワーを浴びるリサを待つことにした。ベッド脇のサイドテーブルに置いてある『ゴリラ3兄弟』のぬいぐるみが視界に入りそうになり、顔を背ける。
とその時、仕事用の携帯通信機が鳴る。
治安局から緊急で呼び出しがかかった。トウア国立中央総合病院より入院中だった『子どもへの無差別銃撃犯および国会襲撃犯』の被疑者である少年が消えたという。
特命チーム出動である。
「これからシャワー浴びて、サッパリしようと思ったのになあ」
脱衣所からリサがぼやきながら出てきた。
「オレだって……」
これから夫婦生活のテコ入れを、と思っていたところなのに……ガッカリである。
二人は渋々身支度を整え、中央地区管轄治安部隊と敷地を共にする治安局へ向かった。




