エピローグ 未来
空気がやわらかく感じられようになり、春の足音が聞こえてきそうな休日。
相変わらずリサはベッドでゴロゴロしていた。すっかり寝坊をしてしまい、もうお昼だ。
セイヤも寝転びながら、フィオから数冊ほど借りた『リサ漫画』を読んでいた。フィオはすでに十数冊のノートに下絵を描きためており、いずれ完成画稿にし、将来、ネットで発表するのが夢なんだそうだ。
「あ~休日はベッドから離れるのが、ひと苦労になっちゃったね」
訓練も再開され、筋肉痛が酷い。もはやトイレに行くのでさえ億劫だ。
「それでもオレらは、ほかの治安部隊の連中よりラクさせてもらっているよな。軍との合同演習がない日はいちおう定時で帰らせてもらっているんだから」
フィオの漫画ノートに目を落としたまま、セイヤはリサの愚痴につきあった。
「そうだね」
相槌を打ち、ふとリサはベッドのサイドテーブルに並べて置いてあるはずのゴリラのぬいぐるみへ目をやる。
ゴリラのぬいぐるみは3つとも、うつ伏せにひっくり返されていた。
「あ、またゴリラがうつ伏せになっている。セイヤがやったんでしょ」
「ゴリラと視線を合わせたくないからな。というか、ゴリラの線はなしだ、と言っていたよな。なのに何でここにゴリラのぬいぐるみがあるんだ? しかも3つも。それもオレらのベッドの傍に」
「仕方ないでしょ。ルイがくれたんだから。この前、フラっと動物園に寄ったら『ゴリラ3兄弟』があまりにカワイくて衝動買いしちゃったんだって。……って、この説明、何度もしているよね」
そう――先日、久しぶりにルイから連絡があり、このゴリラのぬいぐるみをおみやげにもらったのだ。
『ゴリラ3兄弟』は動物園のマスコットキャラで、みやげもの店に数組並べられていたらしいが、一つだけ選ぶことができず、あるだけ全部、大人買いしてしまったという。ルイのベッドやソファもゴリラのぬいぐるみで埋まっていることだろう。
ルイが元気そうでホッとしたリサだったが、ルイからのコンタクトが何よりも嬉しかった。おそらく、ルイのアリア国関係の仕事が一息ついたのだろう。
リサはルイにこう伝えた――機密事項を探ったり、追究しようとは思わない。問い質すことも絶対にしないと。そして、自分が蚊帳の外であったことを恨みに思うことはないと。気にしないでほしいと。
ルイからは一言『ゴメン』と返事があり、そこからはわだかまりなく交流が再開した。
「よりによって、何でゴリラが3兄弟なんだ?」
セイヤがまだブーブー言っていた。しかも昨日も同じようなモンクを繰り返していた。
「ま、でも、3兄弟ってとこがミソだよね」
「で、よりによって、どうしてそこに置くんだ?」
「だって、まだソファは買ってないし、ほかに置くところないし」
結局、あれからずっとソファとテーブルは買いそびれたままだ。
「クローゼットに突っ込んでおけばいいだろ」
「ルイに悪いじゃん。せっかくくれたのに。それにけっこうなお値段だよ、これ」
そう言って、リサは『ゴリラ3兄弟』を起こし、ベッドのサイドテーブル上に並べた。このゴリラのぬいぐるみ、触り心地もよく、わりと気に入っているのだ。
それを見たセイヤは――ルイのヤツ、どうしてオレの好みに合わないものばかり寄こすんだとため息を漏らす。
そう、ゴリラが3つも並んでいると、どうしたってジャン先輩と『ゴリラその1』と『ゴリラその2』を思い出す。それもベッドにあるのも由々しき問題だった。ゴリラたちに見られていると思うと『夫婦生活』に支障をきたしそうなのだ。しかも、そのゴリラのぬいぐるみは何だかとてもイヤらしい顔をしていた。ま、セイヤだけそう見えるのかもしれないが。
「どうしてもゴリラをそこに置きたいなら、うつ伏せにしてくれ。これだけは譲れない」
ついにセイヤの『譲れない発言』が出てしまった。これが出ると絶対にセイヤは譲らない。
「……仕方ないか」
苦笑しつつリサは『ゴリラ3兄弟』をうつ伏せに戻した。たかがゴリラ、されどゴリラ。ここが妥協点である。
「ゴリラ3匹じゃなく、子ども3人なら嬉しいけどな」
何気にセイヤはつぶやいてみた。いや、ゴリラの場合、3匹ではなく、3頭になるのかな、と細かいことを気にしながら。
「え、子ども3人も欲しいの?」
「できたら」
そう言いつつも――ふと自分は子どもを持つ資格があるのだろうか……多くの人の血で染まった手を持つ自分が――と一瞬、セイヤは夢を語る言葉を飲み込む。
「ま、そのことについては改めて話し合いましょう。その代わり、パパにも育児してもらわないとね」
と、リサは釘を刺してきた。
「ああ」
当然そのつもりだとセイヤは胸に手をやる。やっぱりリサと自分の子どもが欲しい。そして家族と一緒に幸せに暮らしたい……。
その時、学生時代に聞いたサギーの言葉が甦る。
――『いかなる理由があろうと殺人を行った者は幸せになる資格はありません。それだけの罪を背負うのです』――
もちろんサギーは本心でそう言ったのではなく、治安部隊や軍のイメージを悪くさせ、入隊希望者を出さないようにと放った言葉である。シベリカが仕掛けてきた教育工作の一環だ。
だから、学生時代のセイヤは自衛権を認めさせないその考えこそ人権侵害だと突っ込んだ。
――そうだ、幸せになる資格がないのだとすれば、人を傷つけ命を奪う可能性があるこの仕事をするヤツはいなくなる。
セイヤは思う。誰かを犠牲にすることもなく、誰かに攻撃されることもなく、そしてその恐怖を味わうこともなく、善人のままで平和に一生を終えられる人は幸運だ。その平和は、誰かの犠牲の下で保たれているのかもしれないのに。
その時、お腹が鳴った。結局、朝食も抜いたまま、お昼ご飯もまだである。
「お腹空いたよね。そろそろご飯の支度をしますかっ」
ようやくリサがベッドから立ち上がった。
「あ~、セイヤは洗濯機、まわしておいてくれる? あと掃除よろしくね」
平和になったとは言えないが、セイヤとリサのささやかな暮らしはこれからも未来へ向かって続けられていく。
セイヤはフィオから借りた漫画ノートを閉じる。
今日も空は青く晴れ渡り、ベッドのサイドテーブルに伏せて置かれている『ゴリラ3兄弟』が、窓から差し込む淡い日差しを浴びていた。




