その14 (FINAL)
九月最後の金曜日。
長かったような、短かったような――ヘルメット、タイガー、馬、ニールの恋の世話を焼いていたときと比べると、明らかに一週間という時間は長かった。
仕事も特に問題なく、恙無くこなし、すっかり新人と呼ばれる時期を脱し、魚屋にだけど新人の後輩(男子高校生)が入り、わたしに対する「新人」という呼称はすっかり彼に移譲されてしまった。
夏喜チーフとレミチーフは他の人に交際を隠しながらも親密な関係を続けている。
お客さんの少ない時間、二人は一緒に休憩で店の裏、バックヤードに出て行くこともあるし、朝一緒に来ることも何度か目撃した。
何度でも言うけれど、こんなストーカー紛いな情報を持っているからといって、わたしは夏喜チーフに固執しているわけではない。ただ偶然目撃し、その現実から目を逸らさなくなっただけ――もしかしたら、ニールに初めて夏喜チーフを見せて、指摘された後にも何度かそういうシーンをわたしは目撃していたのかもしれないけれど、脳が理解を拒んでいたのかもしれない。
それが恋は盲目の正体――わたしも、ヘルメットも、タイガーも、馬も、ニールも、自分の都合のいい、自分にだけ優しい世界以外を認めなかった。
それは嬉しくて、楽しくて、すごく幸せなことだけど第三者、傍からの目を借りると、それはとても愚かしいこと。
恋に焦がれ、盲目に愛を求めることは、人間にとって禁断の果実のようにおいしく、楽しく、なにものにも変えられず、幸せを感じられる。
片思いって実際は誰も傷つかない、一番綺麗で理想的な恋の形なのかもしれないね。
定時で仕事を終えるためレジを閉めて、事務室でタイムカードを切り、中で事務作業をしていた社員の何人かに「お疲れ様でした」と言えば、みんな丁寧に返してくれる。
こんなにいい人たちばかりの会社でも、やっぱり仕事の人間とプライベートで遊びに行くってことはまだない。
スーパーのように土日、祝日が当たり前のように出勤な勤務体制だと休みを合わせるのが難しいってのもあるんだけどね。
しかしだ――仕事を終え、ある程度の充実感を胸に宿してはいるのだけれど、今日は特別な日。
池袋のビアガーデンで最後の『宇宙人の集会』が開かれるわけだけれども、それよりもわたしには重要な案件がある。
いつもは最後に到着して、馬に愚痴を言われたり、すでにタイガーが食事を始めたりしているので、今日ばかりは――。
シャワーで汗を流し、化粧をしなおし、着替えて、いつもより余裕を持って家を出る。
「今日は特別だからね」
駅前のスーパーに立ち寄り、ちょっとしたお買い物をして冷房のかかる電車に揺られて池袋を目指す。
もしかしたら、池袋に来ることはもう当分ないのかもしれない。
ヘルメットが路上ライブをするのは渋谷か立川だし、ニールが池袋の西口公園に来るのはわたしやヘルメットが池袋のビアガーデンにいるからだ。
都会は魅惑の街で、池袋は若者の集う街であるが、わたしには背伸びしすぎた場所。
でもその背伸びのおかげでヘルメットに救われた。
初めての恋、初めての失恋――そして勢い任せの辞表提出。
すべてを失い、自棄になって、そういうときは酒だと浅はかな考えからビアガーデンへと足を踏み込み、わたしはそこで出会い、紙袋をもらった。
一度しか被ってないけどね。
まだビアガーデンが始まったばかりの時間、そこに踏み込むと、客はまだ当たり前だけどほとんどいなかった。
もう九月も終わりで、世間一般的には残暑であっても夏の様相はすっかり消え、デパートやスーパーでも秋物商戦に移っている。九月いっぱいビアガーデンがやってるところが多くとも、やはり終わりの頃になると時期外れ感は否めない。
「あれ……? なんで、あんたたち」
いつもの席に行くとなぜかスタッフでもないのにテーブルメイキングをしているヘルメットと馬がいた。
「今日は早いんですね」
「張り切りやがって」
二人の皮肉とも取れる言葉に、わたしは、むっと頬を膨らます。
「だって今日――」
「こんばんは。もういらしていたのですか」
背後からの声に振り向くとタイガーが、なにかを引き連れていた。
エジプトの棺桶とかに入ってる、包帯ぐるぐる巻きの人――ミイラ男ではなく、ミイラ女がいた。
「な、なに!」
ヘルメットも、タイガーも、馬も最初は驚いたけれど、ミイラ女の驚きはベクトルが違う。お化け屋敷から生還したのに、外まで後ろからついてきたみたいな。
「こんばんは。セン――じゃなくて、紙袋さん」
優雅な口振りで紡がれた言葉に大きく肩を露出したキャミソールドレス。
「あなた、ミリさん?」
「いいえ、ミイラ女のマミーです」
「……もう、なんでもいいや」
恐怖のミイラ女の正体なんてこの際どうでもいいや。
「おっさん、手伝ってくれ」
「はい、ただいま」
タイガーは手に持っていた箱を他のテーブルに置いて、ヘルメットと馬の方へと行ってしまい、ミリさん――ではなく、マミーと二人きりになった。
「どうして、あなたがここに?」
「いえね、社長さん――ここではタイガーさんでしたね、彼に告白されました。結婚を前提に付き合って欲しいと」
おお、タイガーすごい勇気だ。
「わたしはお店の看板でもありますから特定のお客さんと仲良くするのは、今までずっと控えていたのよ。それでなくても小さなお店だしね。でも――」
マミーがわたしを見てくるけど、恐怖以外のなにものでもない。
お化けでないにしろ、ミステリードラマとかで顔を火傷した如何にも怪しい登場人物みたいだ。
「あなたのせいよ。あなたのような真っ直ぐな人間が素敵だって認めるタイガー。告白にOKしていないけれど、断ってはいない。わたしもね、恋に迷ってる。年も年だし、ここで身を固めるのもいいかもしれない、なんてあなたがお店に乗り込んできたときに思わされ、ロトのお墓で真剣にヘルメットと馬を説得すあなたのる姿を見たら、自分のプライドとか考えとかが馬鹿馬鹿しくなっちゃって、頭で考えるのやめた。将来も大事だけど、目の前の幸せの在り処ってすぐそこにあるのかもしれないって気付いたの」
「はあ……」
よくわからないけど、今までまったくタイガーのことを男として見ていなかったミリさんがわたしの働きかけのおかげでミリさんに素敵な男性だって認識させられたってことだろうか。よくわかんないからそうしておこう。
「あ、一つ気になることがあるんだけど……タイガーがとある女性に相談して、わたしに下着をプレゼントしてくれたんだけど、あのダサいセンスはあなたの差し金?」
それはまったくの誤解だし、どんな柄とか以前に、相談される前からプレゼントは用意され、わたしの反応がどうであれあげるつもりだったのだから、わたしの関与したところではない。
「お姉さん!」
またしても背後から叫ぶように聞こえた大声に振り向くと、傘を持ったニールがウエイターの静止を振り切って全力で走ってきた。
「未成年者がここに入っちゃダメだよ」って言ってから、わたしの存在はなんなんだって虚しくなった。
「あれ? 傘、それ……」
「うん! ビニールはヘッドにあげて、これ買ってもらったの。ビニール傘の二十倍の値段したんだよ」
ビニール傘は約三百円だから……って大奮発したね、ヘルメット。
ニールが今度掲げている傘は空が透けて見えるビニール傘ではなく、縁が黒で、全体がかわいらしい明るいピンク色の大きな、骨が丈夫な傘。
「わたしも欲しいな、それ。かわいい」
「じゃあ、お姉さんも買ってもらいなよ。恋人作って」
高い傘を買ってもらうために恋人を作れって本末転倒っていうか、貢いでもらうのなら、それこそマミーの専売特許。
「そのうち機会があったらね」
傘を差して、その場で、くるくる回るニールは本当に嬉しそうで、毎日が楽しいんだって笑顔からわかる。
「あたしね、高校出たらヘッドと暮らすんだ」
「そう。ちゃんと、あいつを見張ってるんだよ。馬鹿しないようにさ」
「うん! 首輪でもつけとくよ!」
本当につけそうだけど、チワワみたいなヘルメットになら似合うかもね。
「さあ、準備ができましたよ」
ヘルメットの声に、今度はテーブルの方に再び振り返ると、そこには。
「ケーキ……」
ヘルメット、タイガー、馬の三人を順番に見て、最後にマミーとニールを見る。
みんなが怪しく微笑んでいる。
「もしかして……今日のこと……?」
「はい。だって、あなたのメールアドレス丁寧に八桁の数字が入ってるので、もしかしなくてもわかりますよ。今日が誕生日だって、みんな気付いてます」
「さすがにロウソクはないからな。おまえの年齢分刺したらケーキが蟻塚みたいになっちまう」
「わたし今日で十九歳だから!」
しかし、六人から八人用ぐらいの大きなケーキだ。ちゃんとイチゴがのっている定番のショートケーキ。
「お誕生日おめでとうございます」
タイガーだけだよ、まともに祝ってくれるのは。
「マミー、タイガーはすごく優しいんだよ」
「そうね。赤い薔薇の刺繍の入った黒い下着でなければ、もっと素敵だったかもね」
「……タイガー、今度からプレゼント贈るときは誰かに相談しな、買う前にね」
わたしとマミーは揃って笑う。
「今日は特別に持ち込みも許可してもらったんです。ぼくたち有名人ですから」
泣いて、叫んで、笑って、怒って、ケンカまでして……まったく、嫌な有名人だ。
「さあ、お誕生日会始めましょう。ぼくたちの救世主の――」
さすがにメンバーがメンバーだし、場所も場所なので誕生日の歌なんてなかったけど、みんなに祝ってもらえる――家族や親戚ではない誰かに祝ってもらえる誕生日ってすごく嬉しい。
料理と飲み物はここのビアガーデンのメニューからだけど、ケーキがあるってだけですごく素敵。
「紙袋さん、ちょっといいですか? わたしからの誕生日プレゼントです」
綺麗な包装紙に包まれ、リボンのついた長方形の箱がタイガーから渡された。
「パンツとかじゃないよね?」
「い、いえ! 開けてみてください」
「ありがとう」
包装を解くと中から現れたのはチョコレートでも入っていそうな高級感溢れる箱。
蓋を開けてみると、中にはハートのワンポイントの入ったネックレス。
「お安いものですみません」
なんだろうね……箱の中に入っている保証書や箱に書いてあるロゴがシャ――豚に真珠って言葉があるけれど、そう思われないように高いってことは考えないでおこう。
「ぼくからはこれです。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。あけるね」
ヘルメットからのプレゼントはちょっと重たくて大きい。けれど、薄い。
額縁に入った絵とかならオシャレだよね。
「……ケンカ売ってるんだ」
「そんなことはありません! 将来、あなたの料理を食べて運ばれる患者さんを減らすために――」
「大きなお世話!」
ヘルメットのヘルメットを平手で叩く。
まったく、なにが素人でもできる簡単料理レシピだ……。
「あたしからはこれ!」
「って、それ買ってもらったばかりの傘でしょ?」
ニールからピンク色のかわいい傘が手渡される。
「いいの! 大好きなお姉さんに使ってほしいの」
コンビニ傘の二十倍の値段のする――ヘルメットが青い顔をしているのではないかな、ヘルメットの中で。
「ありがとう。すごく大事にする!」
「うん! お姉さんが喜んでくれれば、あたしも嬉しい」
ニールは固まるヘルメットの頭を、ぺしぺし、叩いて再起動させる。
二人は本当に仲良しで羨ましいぐらいだ。
しかもいい感じにバランスが取れていて、お似合い。
「わたしからはこれをどうぞ。あなたがお好きだと言うので用意しました」
大きな瓶に入った日本酒と大量のお饅頭。
コンビニで投売りされているようなものではなく、老舗と呼ばれる和菓子屋のもの。
貧乏人のわたしには全部がお高く見えてしまう。
「ありがとうございます。でも、お酒は飲めないんですよ」
「飲めるようになったら飲めばいいし、なんならご両親にでも贈ってさしあげたら?」
「うん……」
正月とクリスマスと誕生日が一度に来たかと思うぐらい、わたしはたくさんの抱えきれないプレゼントと思いをもらって泣きそうになる。
最後に……。
馬に視線を向けると、
「なにを期待している」
鼻で笑われておしまい。まったく可愛げがない。
ヘルメットとニールが楽しそうに笑い、マミーがタイガーの世話を焼いている。
そうすると必然的にわたしと馬はそれぞれ一人ぼっちになる。
「……なにか喋ってよ。今日、わたしの誕生日だよ」
「……おまえの言葉でマミーの心は変わった。わかろうとしなかった心を開いておっさんの言葉に耳を貸し、歩み寄ったことでおっさんの人となりを知ったんだろうな」
「そうじゃなくて」
「……あの小娘とヘッドをくっつけたのもおまえだそうじゃないか。まったく世話焼きも程ほどにしておけよ」
「だから――」
「……おれとおまえ、二人だな。相手のいないのは」
「そういうネガティブになるのもやめてくれない?」
二組四人のやり取りは見ているだけですごく楽しく、同じグループにいるだけで嬉しくなる。
大好きな人が笑っていると、一緒に嬉しくなれる。
「おれも、おまえに救われた人間の一人だ。過去に囚われず、前に進めるような気がする。ありがとう」
「……やっと素直になった」
馬のお腹を叩く。
タイガーのは柔らかくて触り心地いいんだけど、馬の筋肉もなかなか面白い。
「なあ、おれたち――」
そのとき、馬からなにやら小さな小箱が差し出された。
「ビックリ箱? それとも爆弾?」
「開ければいい。開ける勇気がないなら、そのまま屋上の外へ捨てろ」
「そんなことできるわけないでしょ」
指先で摘むようにリボンを解くと、濃い青――群青色の小箱が現れた。
恐る恐るあけると、なにかが飛び出してくるようなことも、怪しい自爆スイッチのようなボタンもなく、中には銀色の指輪が入っていた。
「呪いの~、とか頭につくの?」
馬は哀れむようなため息を吐く。むかつく!
「意味がわからないなら、質屋にでも持っていけ」
馬の表情は被り物の下でわからないけど、馬はわたしから視線を逸らして、夜空を見上げている。
「渋谷のセンター街にあったよね質屋さん」
「本当に持って行くなよ。おまえは察しがいいんだか、悪いんだか……。おれはおまえに感謝してるんだ。あと……おれがおまえに惚れたなんて言ったら、おまえはどうする?」
「ええ……笑うか逃げるか殴る」
指輪を箱から抜いて、左手の薬指に嵌めてみる。サイズピッタリ。
「これって偶然? 返せと言われても返せないよ。もう抜けませ~ん」
左手を空に掲げてみせるけど、映画で見るような綺麗な煌きを見せるわけでもなく、ただ闇の中に映えている。
「馬、わたしのこと好きなの?」
「……お節介で単純で単細胞で、愚かしい行動を取らないのであればな」
「無理。それがわたしだもん。――って誰が単細胞!」
「じゃあ、おまえのお節介で単純な気持ちでおれを幸せにしてみせろ」
「なにそれ」
馬はどうして上から目線――元より背が高いのに、馬なんて被ってるからさらに高く感じるし。
「おれがおまえを幸せにしてやるって言ってんだ。放っておくと危なっかしいからな、おれがおまえのブレーキになってやる」
「お断り! わたしをなんだと思ってんの」
あれ? 馬の肩が下がったけど、もしかして落ち込んでるの?
「でも、楽しいから嫌いじゃないよ。この指輪ももらっておく。今度デートしてみる?」
「プロレスかボクシングでも見に行くか」
「いや! そんなの全然ロマンチックじゃない! 行くなら遊園地がいい!」
わたしは隣に並ぶ馬を見上げて文句を言う。
「なんで好き好んで人の多いところに行く。おまえは放っておくとすぐにどこかに行ってしまうんだから、見つけやすい指定席のあるところにいろ。小さいんだから」
馬の大きな手が乱暴にわたしの頭に載せられる。
わたしはその手を振り払う。
「楽しいところに人が集まるから仕方ないでしょ」
口数少ない割りにわたしの話にいつも聞き耳立てて、口を挟んでくる。
もしかして馬ってずっとわたしを見てたの?
「おれはおまえが心配なんだよ。猪突猛進の考えなしの単細胞な行動がな」
付き合うとか以前に、わたしは馬と絶対に合わない気がするけど、退屈しないし、嫌いじゃない。
みんなの笑顔がわたしと馬を捉えている。
恥ずかしくなって、わたしはいつもバッグに入れていた馬の作ってくれた紙袋を被った。
「あんたのせいだからね……」
隣に立つ馬の脇腹を肘で小突く。
誰を好きになるかも、誰かに好きになられるのもわからない。
好きになっても、相手のことなんてわからない。
ほんと、宇宙人を相手にする方が気が楽だ。
それでも、わたしは馬を好きになりそうな気がする。だって面白いもん。
了




