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となりの優等生は恋を後回しにする  作者: 妙原奇天


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2/22

第2話 ポカリの作り方と「返さなくていい日」

 熱の夜は長い。

 扉越しの二回が返ってきたあと、僕は机に突っ伏してカードを書いた。〈家庭科/ポカリの作り方〉。返事は翌朝だろうと思っていたのに、ポストにはすでに封筒が落ちていた。白い、薄い、きちんと角が生きている。


『等張の水分は、体にやさしい。

 水500mlに砂糖大さじ3(約36g)、塩ひとつまみ(1.5g)、あればレモン汁少々。

 砂糖を減らすと吸収が遅く、塩を増やすと喉が渇く。

 ——家庭科の答案っぽく書いたけど、作りすぎない。冷蔵なら半日。

 P.S. 玄関前に置いたら、ノックはしない。合図は返す。声は返さない。』


 字は凛としていたが、最後の一行だけ、少しだけ震えていた。

 僕はキッチンで計量スプーンを探し、粉をはかる。砂糖は袋の口がベタベタで、塩は気を抜くと出すぎる。水筒に入れて振る。白い渦が消えるのを待ちながら、ふと笑ってしまう。答案みたいな手紙だ。でも、その答案は僕を動かす。


 水筒を紙袋に入れて、玄関の前へ。

 置いて、ノックはしない。呼鈴も鳴らさない。

 代わりに、紙袋の持ち手に小さな付箋を貼る。〈“返さなくていい日”の実験〉。

 扉の向こうで気配が揺れ、床近くに影が伸びた。紙袋が少しだけ沈む音。ありがとう、の代わりに、静かな気配の変化が届く。


 部屋に戻る。可視化シートの余白に「作った:500ml」と書いて、黄色で小さく印をつける。

 手のひらが砂糖でざらついていて、妙に安心する。やったことの感触が残っているのが、救いだ。


***


 翌朝、僕は合図なしで起きた。起きてしまった。残りのバナナを半分だけ食べる。

 ポストに、封筒。昨日の二倍の厚み。中には、線と矢印で埋められた紙が三枚。


『合図規約 第1.1版(雨天改定・体調特則を含む)

 第1条(目的) 生活を可視化し、続けやすくする。

 第2条(合図) 呼鈴は二回。自習開始の合図。

 第3条(対面) 扉越し一分、週二まで。目線は床。

 第4条(免除) 体調不良、家庭事情、精神のオーバーフロー時は**“返さなくていい”を選べる。ただし返さない時は、翌日付箋で理由の記号**(◎体調/△家庭/□心)を掲示。

 第5条(応急) 倒れている可能性がある場合、管理人立会いで開扉可。

 第6条(雨天改定) 雨の日は対面一分を可とする。

 第7条(期間) 三か月。——【残:82日】

 付録:“返さなくていい日”シール(◎/△/□ 各7枚)』


 紙にシールが貼ってあって、思わず吹き出した。かわいい。丸と三角と四角。子どもの連絡帳みたいで、でも、とても賢い。

 僕は封筒の底から小さなメモを見つける。手書きで一行。


『昨日は◎。返したのは、私の悪い癖。治すために条文にした。』


 “返さなくていい”を守れない自分の癖を、条文にして矯正する。

 なんて真面目で、きれいなやり方だろう。

 僕はポケットから小さな付箋を出して、玄関フックに貼った。〈了解。条文って強い〉。


***


 学校は、月曜の顔をしていた。

 眠い、だるい、教科書が重い。廊下ですれ違う男子が、背中を叩く。


「おー、湊。最近、目の下のクマ薄くなってね?」


 如月悠真は、喜怒哀楽を省エネに表示するタイプの友人だ。

「なんだ、恋か?」

「違う。手順」

「お前の語彙、ついに理科室の実験台みたいになったな」

「生活を可視化してる。隣で」

「隣で? いや、それ完全に恋の説明じゃん」


 否定の言葉が口の手前で止まり、僕は肩をすくめた。

 恋、なのかもしれない。でも、恋って、もっとこう、派手な効果音が鳴るものだと思っていた。ドーンとかズギュンとか。

 僕の生活は、カサカサとかタタとか、静かな音で整っている。

 静かなまま、よく眠れて、よく起きて、質問カードが往復する。

 ——それを恋と呼ぶなら、そうかもしれない。


 数学の授業で、先生が問題を出す。二分探索。

 昨日のカードが、ここで生きる。“捨てるための理由が先”。

 板書の途中で手が上がった。自分の。意識より先に。

「範囲を半分にする前に、単調性の証明を入れていいですか」

 クラスが一瞬、息を止める。先生が顎を上げる。

「……よろしい。やってみなさい」

 チョークが乾いた音を立て、黒板に“捨てられる理由”が白く立つ。

 終わって席に戻ると、前の席の白い首筋が、ほんの少しだけ動いた。

 振り向かない。振り向かないけど、見られていた気がした。


***


 放課後。

 管理人さんに挨拶して廊下に出ると、フックに**□**のシールが貼ってあった。四角。心。

 今日の合図は、返さなくていい。

 僕は二回鳴らしてから、自室に戻る。

 机に座り、カードを書く。


〈現代文/“要約”が苦手。文を削ると、どこかが死ぬ気がする/削らずに済む読み方がある?〉

 裏に〈□了解。合図は一方通行でも機能する〉と書いて、ポストへ。


 夜、扉は静かだった。

 静かな扉に、静かな勝利を一つ置く。二十三時、スマホを裏返し、寝る。

 寝る直前、ポストが小さく鳴る気配がした。拾いに行くのは、明日。今は返さない方を選ぶ。条文が守ってくれる。


***


 火曜日。

 ポストの中に、分厚い返答。


『要約は“命名”ではない。

 削る、と考えるとどこかが死ぬから、“役割を分ける”と考える。

 主眼/根拠/余白(読者に残す余韻)に分解。

 余白は削らない。主眼と根拠を線で結ぶ。

 ——課題:明日の帰りに、学校から家まで三つの役割で日記。余白に“今日の一行”。』


 最後に〈□ありがとう。返さなかった日でも、私の中では合図が鳴ってる〉。

 返さなかったのに、返ってくる。返ってきたけど、昨日返さなかったこと自体が、何かを守った感じがする。


 放課後、廊下で短い対面一分。目線は床。

 彼女の声は、昨日より透明だ。


「明日、小テストある」

「うん」

「模擬休憩15分、導入する?」

「何それ」

「テストの一時間前に、休む練習。机から離れて、何もしない。何もしないのはスキル」

「何もしない、の練習?」

「うまく休める人は、うまく走れる。——これは、私の失敗からの条文」


 彼女の“失敗”がどんな形をしているのか、僕はまだ知らない。

 でも、条文として渡されると、受け取り方が分かる。

「やる。模擬休憩」

「じゃ、明日17:00に二回。私はベッドに横になる。あなたは机から離れて、窓を見る。窓の描写を一行、カードで」


「了解」


 扉越しにうなずく気配があった。

 扉に額が当たりそうで、ぎりぎりで止める。ルールは守る。守るから、安心できる。


***


 水曜。小テストの日。

 十六時四十五分、心が落ち着かない。

 十七時、タ、タ。

 返ってこない。免除のシールはない。

 十秒、二十秒。タ、タ。遅れて返った二回に合わせて、椅子から立つ。机から離れて、窓へ。

 夕暮れの色は、オレンジでも紫でも言い切れない。グラデーションの途中に、鳩が二羽、電線の上で等間隔。

 カードに書く。〈窓の描写/電線の間隔は鳩の体温で決まる気がした〉

 意味が分からない。でも、余白として書くと、少し呼吸が楽になる。


 テスト本番、鉛筆が走る。

 “捨てる理由を先に”。

 “役割を分ける”。

 頭の中に、条文の背骨が走っている。

 終わって廊下に出ると、如月が肘でつつく。


「お前さ、最近、声が落ち着いてる」

「そう?」

「焦ったまま走らない声。誰だよ、家庭教師」

「サポートNPC」

「ますますラノベ。タイトル長そう」

「『隣、三か月、手順。』」

「短くなったな」


 笑って別れる。家に帰ると、フックに**◎**のシール。体調。

 今日は返さなくていい。返すとしても、明日。

 僕は二回だけ鳴らして、扉から離れた。

 可視化シートに色を塗る。起床、朝食、自習、裏返し。

 余白に一行。〈合図のない朝でも起きられた:2/7〉。数字が、静かに増える。増えるたびに、怖さが少しずつ減る。


***


 木曜の朝、ポストが重かった。

 封筒の中に、細長い透明ファイル。

 **「生活可視化シート(共有版)」**とラベルが貼られている。中には、僕のシートと似た表が二枚。片方は彼女の分だった。

 起床の欄に、薄い黄色。「×」が二つ。「起床、失敗」。

 その上に、青いペンでこう書いてあった。

 〈失敗ログは、見える場所に置く。恥ずかしさは燃料。混ぜすぎると苦い〉


 ふいに、胸の奥がつんとした。

 彼女も、崩れる。

 僕と同じように、崩れて、立て直して、ルールにしている。

 だから、守りたいと思う。ルールそのものを。


 学校で配られたプリントをカバンに突っ込んでいると、成宮先生が近づいた。

「佐伯。最近、顔がよくなったな」

「顔?」

「睡眠。生徒の目は、タブレットより嘘つかない」

 先生はそれだけ言って去っていった。

 午後、黒板の下で白波の横顔が一瞬だけ僕を見る。やっぱり、見られていた。


***


 夜。

 呼鈴は二回。返ってくる二回。

 扉越しの一分で、七瀬が短く告げる。


「文化祭の準備、来週から。実行委員が組分けする。“ペア作業、異性禁止”の案が出てる」

「高校あるあるだね」

「あるある。でも、仕事の効率が落ちる。——“玄関越しペア”はどう?」

「玄関越しペア?」

「作業の打ち合わせは扉越し。資料はポスト。会わずに進むことを、学校に提案する。モデルケースが必要。……私たちで」


 息が詰まった。

 恋じゃない。恋じゃないけど、恋と相性のいい作戦が降ってきた。

「やる」

「ありがとう。**“会わずに近づく”**の練習になる」

 練習。そうだ、これは練習だ。

 いつか、手順の外に出るための、準備運動。


 扉の向こうから、紙のこすれる音。

 付箋が一枚、床に落ちた。

 〈次回のルール改定:文化祭仕様(対面ゼロで準備)〉

 付箋の端に、小さくペンの跡。ためらいの点。

 僕はそれを拾って、胸ポケットにしまう。

 可視化シートに、今日の色を塗る。

 余白に、一行。

 〈会わずに近づく——怖いけど、楽しみ〉


 ページの片隅に印字された数字が、またひとつ、減っていた。

 残:80日。

 減るたびに、今日が濃くなる。濃くなる色の中で、僕は二回、静かに鳴らした。

 タ、タ。

 扉の向こうの鈴も、同じ速さで、二回。

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