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第1話 隣から始まる「合図」

 四月の風は、眠気に優しいから嫌いだ。

 せっかく目覚ましが鳴っても、カーテンの隙間から入ってくる薄い光とふわふわの風が、「二度寝、合法です」と囁いてくる。合法って言うな。違法だ。


 ——と、そんな言い訳を並べる僕の玄関に、金色の小さな呼鈴がぶらさがったのは、クラス替え初日の夜だった。


 放課後、配られた厚さ三センチのプリント束と、新しい時間割。担任の「受験生の自覚を—」の音声は、帰り道で早送りされた。エレベーターを降りて、二階の共用廊下の角を曲がる。

 そこで、彼女が待っていた。


佐伯湊さえき・みなとくん。……やっぱり、同じマンションだった」


 白波七瀬しらなみ・ななせ。学年の上位常連、清楚で話題の、隣人。

 いや、正確には“隣の部屋の住人”。けれどその距離感を、彼女は一歩で詰めてきた。僕の玄関上のフックに、金の呼鈴をかけながら。


「これ、明日から使うから。二回鳴らして。“今から自習”の合図」


「合図?」


「合鍵は、渡さない。有無を言わさず入ってくる関係は、苦手だから。だから、合図だけで繋ぐの」


 彼女は無表情じゃない。けれど笑い方を選ぶ人だ。かすかな笑みを一秒だけ見せて、すぐ真顔に戻る。

 手にはクリアファイル。差し出される。


「可視化シート。四月分。起床、朝食、自習、スマホ裏返し、就寝。塗るだけ。完璧にやらなくていい。色が付いたら勝ち」


「色で、勝ち負け決めるんだ」


「続けるための勝ち。完璧は敵」


「……それ、受験向けっぽくない名言だね」


「ラノベっぽく言うと“チュートリアル”。私はサポートNPC。攻略は自分でやって」


 彼女が言うなら間違いない、と思わせる説得力がある。不思議だ。教室では近寄りがたい雰囲気だったのに、廊下では距離が測れる。

 僕はファイルを受け取って、内容をざっと確認する。マスが、ぎっしり。空白の海。

 ここに色を塗る未来を、僕は想像できるだろうか。


「三か月だけ。期限をつける。私のルール」


「どうして期限?」


「結末が見えると、人は始めやすいから」


 それから、もう一枚、小さなカードが出た。

 名刺サイズ。角が丸い。表に欄が三つ。「科目/質問/返答」。裏に「ひと言」。


「質問カード。分からないのを我慢し続ける人の目、してたから。明日から、これをポストに。返事は夜。直接会わない。——“ルール”にする」


「直接……会わない?」


「会うのは、合図のあと、玄関の前で一分だけ。顔は見ないで話す。それも週二まで」


「徹底してるね」


「徹底しないと崩れる。……私は、一度崩した」


 最後の一言は、小さく沈むように落ちた。拾おうとして、拾えない。

 彼女はすぐに気配を切り替えて、玄関横のフックを指した。


「じゃ、明日。朝は六時半に起きて、バナナでも可。スマホは二十三時に裏返し。呼鈴は二回。私も二回鳴らす。せーの、じゃなくて、お互いのタイミングで。合図は重ならなくていい」


「了解。……いや、了解って言っていいのかな」


「言って。契約成立」


 ぱちん、と彼女が指を鳴らした。音は小さいのに、胸の奥でやけに響いた。


 ——それからの夜は、静かに忙しかった。

 部屋に戻って、机の上を片付ける。散らかったマーカー、去年のプリント、眠っていた問題集。

 可視化シートを取り出し、今日の日付のマスに小さく色をつける。「準備」。

 スマホの画面を二十三時ぴったりで裏返す。机の上に置く。裏側の黒は、妙に気持ちが落ち着く。

 寝る前、天井を見ながら、呼鈴のことを考えた。二回。二回って、打楽器のリズムみたいだ。タ・タ。

 生徒手帳の裏表紙に、明日の時間割を書き写す。

 起床 6:30。朝食 バナナ。自習(夜)21:00〜。

 合図 二回。


***


 朝六時二十五分。

 アラームの電子音がひとつめの夢を切る。目だけ開く。体は開かない。

 六時二十七分。天井が白から薄い黄に。

 六時二十九分。——金の鈴が一度、鳴らない。


 鳴らない、というのは、変な言葉だ。けれど正確だ。呼鈴は、音がしない。振動だけ。小さく震えて、真鍮が触れ合う直前で止まる。

 僕の胸の中では、別の鈴が鳴った。起きた。

 六時三十分。起床。

 バナナ、むきにくい。皮がしたたり、手がべたつく。味は悪くない。

 可視化シートの「起床」「朝食」のマスに黄色を塗る。細いマーカーがするすると走る。色がつく音はしない。なのに、音がした気がする。


 ——放課後。

 問題集のページをめくるのが今日は少しだけ軽い。

 玄関に近い机で、カードに書く。

 〈数学A/二分探索の考え方が腹に落ちません/範囲を半分に削る“基準”が曖昧になります〉

 裏に小さく〈今日、起きました〉と書いて、ポストに入れる。


 夜。二十一時。

 呼鈴を二回。タ、タ。

 扉一枚向こうから、少し遅れて二回。タ、タ。

 扉の前に立つ。顔は見ない。扉越しに声だけが届く。


「可視化シート、塗った?」


「起床と朝食、黄色で。ちょっとはみ出した」


「はみ出しは点数にならない。“塗ったかどうか”だけ点数。ラノベで言うと、フラグの点灯」


「フラグ、折れやすいからね、僕」


「折れても、立て直せる。二分探索の回答、明日。文章で返す」


「直接、じゃないんだ」


「カードのほうが残る。残る記録は、あなたの味方」


 短いやりとりで終わるのに、胸の内に長い余韻が残る。

 扉越しの一分が終わると、彼女の気配はすっと遠ざかった。

 スマホを裏返す時間が来る。くるりと伏せる。画面が闇を吸う。

 今日のマスを塗る。自習、裏返し、就寝——寝る前に色が三つ増えた。

 線はガタガタ、色ムラあり。完璧の真反対。だけど、続けるための勝ちだと、彼女の声が言っていた。


***


 二日目。

 眠気をバナナで黙らせるコツを覚える。半分を冷蔵庫、半分を常温。冷たい甘さは喉を起こす。

 質問カードの返答がポストに入っていた。ルール通り、手書きの文字。


『二分探索は“見た目を信用しない方法”。

 分割の基準は “目的と反対側を切るための根拠”。

 例:答えxを含む区間[1,N]。真偽判定f(mid)の値で、必ずどちらかが捨てられることを先に証明してから、半分に。

 “半分にする”が先に来ると迷う。“捨てられる理由”が先。』


 最後に小さく、〈昨日、起きたのえらい〉。

 たったそれだけで、胸が熱い。えらい、なんて言われ慣れていない。

 放課後、同じようにカードを書いて返す。

 夜、呼鈴は二回。言葉は今日も少ない。

 けれど、玄関の前に並ぶ足音の間隔は、昨日より半歩分近い気がした。勘違いならそれでいい。勘違いにも、色を塗ってやる。


***


 三日目は雨が降った。

 通学路のポスターが濡れて、インクの匂いが強い。

 帰りの廊下で、彼女は短く宣言した。


「雨天改定。呼鈴二回のあと、玄関前で一分会話可。顔、横向き。傘の水滴が落ちるから」


「その規定、今日発効?」


「今この瞬間。柔軟性は、続けるための条件」


 彼女は真顔でラノベ用語を言う。笑う。僕も笑う。雨の匂いが薄れる。

 玄関に傘を立てて、向かい合う。横向きで、目線は床。

 指先が、緊張で少し震える。僕のじゃない。彼女の。

 それに気づいた瞬間、胸に浮いた謎が、言葉になって出た。


「七瀬は、どうして……そんなに、境界線にこだわるの」


 沈黙。雨の滴る音。

 彼女は呼吸を整えてから、丁寧に答えを折った。


「昔、合鍵を渡したら、毎日が壊れた。善意は、刃物にもなる。……だから、合図だけ。扉の外側まで、が安全」


「……分かった。じゃあ、僕は合図を守る」


「守って。守る人には、ひらく扉がある」


 呼鈴が雨で冷たい。僕の指先も冷たい。

 でも、心臓の鼓動は、熱かった。タ、タと、呼鈴のリズムで鳴っている。

 その夜、可視化シートの「自習」のマスを、いつもより濃く塗った。滲んだ。滲むのも記録だ。


***


 四日目、五日目。

 色は増える。会話は増えない。

 でも、カードは往復を重ねる。

 彼女の字は読みやすく、余白の一言は短い。「よく寝たえらい」「バナナ熟れすぎ注意」「質問の切り方が上手」。

 僕の字は揺れている。けれど、揺れながら、線は前へ進む。


 そして、一週間。

 僕は気づく。

 合図のない朝でも、起きられる回数が増えていることに。

 呼鈴が鳴らない日、彼女の体調が悪いのかもしれない。家の事情かもしれない。

 どちらにせよ、起きる。起きて、バナナをむく。色を塗る。

 合図がない朝に、僕は自分で合図を作る。

 それが、この一週間でいちばんの、獲得だ。


***


 日曜の夕方。

 課題を片付け、スマホを裏返し、呼鈴を二回。

 返ってこない。

 いつもなら五秒以内に返ってくるのに、今日は十秒経っても、三十秒経っても、静か。

 心臓の音だけが、やたら大きくなる。

 扉を叩きたい衝動に、指が動く。ルールが、止める。


 ——一分後、タ、タ。

 遅れて返ってきた二回の合図に、膝の力が抜けた。

 扉の向こうの声は、かすかに擦れている。


「ごめん、熱。……大丈夫、だから、ルールは守る。呼鈴は返す」


「返さなくていい時は、返さなくていいルールを、作ろう」


「それは……やさしい。けど、危ない。私は**“返さなくていい”を乱用**する。だから返す。合図だけは返す。声は……今日は、ここまで」


 声が離れていく。足音が遠ざかる。

 扉を開けない。開けられない。開けたくならないように、僕は壁を見つめる。壁紙の目地が思ったより複雑だ。


 机に戻って、カードを書く。

 〈家庭科/ポカリの作り方〉

 裏に〈無理しないルール、いつか作ろう〉

 投函して、可視化シートの余白に小さく書く。「七瀬、熱」。

 僕の一日が、彼女の一行で色づくのは、ずるい。嬉しい。ずるい。


 その夜、眠る前に気づく。期限の欄が、遠いようで近い。残:83日。

 数字は残酷で、やさしい。終わりがあるから、今日に色が塗れる。

 ——終わりがあるから、怖い。


 枕元でスマホを裏返し、目を閉じる。

 合図のない朝でも、起きる。

 明日は、僕が先に二回鳴らそう。タ、タ。

 扉の向こうで鳴らなくても、鳴っても。

 どちらでも、色を塗る。続ける。

 生活は手順。恋は予定外。

 予定外は、たぶん、手順の外で育つ。

 その外側に手を伸ばすために、まずは内側を整える。


 金色の呼鈴が、月明かりで小さく揺れた。

 音は鳴らない。

 でも、僕の中では、確かに鳴っていた。

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