集大成
家に帰ると、家の中はまだカップケーキの匂いが充満していた。母親は今日は夜遅くなるということで、友花莉は早めに夕食を済ませて、漫画の作成に精を出そうと思っていた。だが、その予定は少し後だおしになりそうだと、台所に来て思った。
「なにこれ?」あたり一面、真っ青なというより、ぐんじょ色の何かがへばりついていた。
「この色って・・・?」
「のりお!あんた何してんの?」ノースフェイスちゃんの声の先には、銀色の料理用ボウルに頭を突っ込んでいる、のりおがいた。
「こんなに台所を汚して、誰が掃除すると思ってるのよ。」のりおは普段あまり怒らないノースフェイスちゃんの逆鱗に触れ、落ち込んでいた。
「もう、こうなったら、のりおが大嫌いなお風呂の刑だからね。」のりおはうつむきながら、ノースフェイスちゃんの方へと向かっていった。ノースフェイスちゃんはのりおを抱き上げると、のりおの腕についている、ぐんじょいろのフレーバー部分を指ですくいあげ舐めた。
「何この味?」のりおはノースフェイスちゃんの耳元で、何かを訴えた。
「のりお味って何?」いつにも増して、ノースフェイスちゃんのしかめ面は激しかった。友花莉も、のりお味が気になってあたりに飛び散った残骸を指ですくい上げてみた。匂いは悪くはない。しかし、嗅いだことのないに匂いだった。友花莉はそのまま、指を口に運んだ。すると、口の中で今まで食べたことがない味が広がり始めた。甘い?確かに甘さはあるが、その中に謎の苦味が見え隠れしていた。
「のりおってそんな味するんだ。」友花莉がそう呟くと、お風呂場からノースフェイスちゃんの叫び声が聞こえてきた。どうやら、のりおが水を嫌がって、暴れているようであった。友花莉は気にせず、台所の片付けを始めた。恐らくのりおのおかげで、カップケーキの材料は切らしていた。今日はカップケーキ作りはお預けだから、漫画制作に精を出すことができそうだった。
しばらくして、びしょびしょののりおが、ノースフェイスちゃんに抱かされた状態で、部屋に入ってきた。その頃には台所の片付けもひと段落して、早速漫画制作に取り掛かっているところだった。
「ずいぶん時間がかかったわね。」
「だって、素直に応じてくれなかったんだもん。」ノースフェイスちゃんも不満そうだったが、のりおも不満げな表情をうかべていた。何せ、自慢のもふもふの毛が水分の重みで一気に下に落ちてしまっていたからだ。のりおは、不満げにノースフェイスちゃんに何かを訴えていた。
「わかった、わかった。すぐ乾かすから待ってて。ここだと、友花莉の邪魔になるから。」
「ごめんね。のりお。またあっちで毛を乾かしてもふもふになったら、撫でさせてよ。」のりおは渋々、友花莉の言うことしたがって、洗面所へと向かった。
「ところで、漫画は順調?」
「もう、クライマックスってところかな?これなら、締め切りにも間に合いそう。」
「よかった。」友花莉の中で、ここまで時間の猶予をもらっているのだから、余裕を持って提出したいと言う気持ちが強かった。だからと言って手を抜くわけではない。ドライヤーの音が、遠くから聞こえる中、友花莉は漫画の世界にどっぷりと浸っていた。宮城が書いた物語は奇想天外、だが、登場人物それぞれが、その事象に説得力を持たせていた。友花莉は、それを絵で表現した。表情、動き、それに合わせて背景もこだわった。これまで何度も何度も話し合ってきた。放課後だけでなく、授業中に、恐らく宮城は予備校に行っていた頃だと思うが、帰宅してからも、二人は作品について意見を出し合ってきた。その時間を生かすも殺すも、友花莉だった。宮城は、コンテストがあることを告げてから、連絡をして来なくなった。恐らく友花莉に集中させようとしてのことであろう。その期待に応えるためにも、友花莉は手を抜くわけにはいかない。ゴールは目の前だからこそのこだわり。気がつけば、午前四時。恐らく母親もとっくの前に帰ってきていることであろうが、友花莉は気がついていないほど集中力が続いていた。そして朝になり、登校時間。友花莉はやむを得ず、作業を中断し学校へと向かった。登校中も授業中も、友花莉は今ピークで漫画のことが頭を支配していた。でもそれは、今までとは違う。ストーリーをどうするべきかという漠然としたものではない。その分、集中力はいつも以上で、先生に指名されているにも関わらず、一切反応せず、授業時間が過ぎていることも多々あった。
昼休みは、女子たちとミスコンに向けての活動をしていた。だが、それはノースフェイスちゃんの仕事になっていた。友花莉に代わって人一倍、いや、本人よりも、愛想よく票集めに精を出していた。今日の内容は・・・もちろん、友花莉にはやっていた事実すら、覚えていない。
そんな毎日が、数日続いた。締切まであと一週間。友花莉は焦らなかった。そして、それから間も無くして、ついに友花莉が長い年月の集大成の時が来た。
「やっとだ。」思わず出た言葉を発したのは、時計が早朝五時を指していた時だった。外は空が青みかかり、徐々に外が騒がしくなり始めるころだ。友花莉は原稿を両手で持ち、大きく上に掲げた。本当に長い時が流れていた。描き始めてから思い返せば、一年は経っていないはずだが、人生の半分くらいを費やしたような感覚だった。だが、人生で絵を描いてきた集大成と考えれば、それは決して大袈裟な表現ではなかった。家を出るまであと二時間、まだ時間に余裕はあったが、すぐに友花莉は読み直しを始めた。ページ数で言えば三十ページ。読み直しはあっという間に終わった。申し分はなかった。もちろん、手直ししたい部分もあったが、そんなことを言い出したら、もう半年かかってしまう気がした。友花莉は原稿をノースフェイスのカバンの中にしまった。するとカバンの中で何かが動いた気がした。
「のりお。」ゾウのぬいぐるみは眠たそうに目を擦っていた。「こんなところで何してるの?」のりおは何かを訴えていた。しきりに上の方を何度も指差していた。
「電気?電気がどうしたの?」今度はのりおの小さな黒い目をもけもけの手で覆い被せた。友花莉は思わず微笑みながらも、真剣な訴えを真摯に受け止めた。
「もしかして、ずっと電気がついてたから、眩しかったってこと?」のりおは激しく同意をしていたが、さらに何かを訴えていた。今度は両手を何度も広げていた。恐らくここのところ毎日夜遅くまで、電気をつけた状態で作業していたから眠れず、ノースフェイスのカバンの中で夜を明かしていたのであろう。
「ごめんねのりお。もう終わったから。」友花莉がそうういうと、のりおは電気のスイッチを指差した。「なら早く電気を消せ。」と訴えていることはすぐに理解できた。
「わかった、わかった。お休みのりお。」友花莉は電気を消したが、部屋はそこまで暗くならなかった。のりおは結局寝れないのか、何度も寝返りを打っていた。友花莉は、そもそもぬいぐるみの睡眠ってなんのためにしているのだろうかと疑問に思いながら、可愛らしい姿を眺め、次第に眠りについていた。恐らくここ最近で一番深い眠りだっただろう。気がつくと、昼の一時だった。すっかり学校に行きそびれていた。だが、友花莉は慌てなかった。それどころか、そもそも行くつもりなどはなからなかったのかもしれない。すぐさま、友花莉は原稿を出版社の担当に送ろうと電話へ向かった。しかし、受話器をとり番号を入力するところで、手が止まった。友花莉の頭の中で、ある一人の人物の顔が浮かんでいた。彼がいなければ、この漫画は完成していない。もし自分だったら、自分よりも先に別の人間が自分の作品の完成を先に見ていたら、と想像力を掻き立たせた。そして受話器を置いてすぐに学校へと向かった。午後から登校なんて、人生で初めてだった。今まで学校に価値を見出していなかった。だが、学校そのものに価値はなくても、そこでの出会いは友花莉にとって、とても価値が高いものだった。
友花莉は学校に到着すると、迷いなく教室へと向かった。運がいいことにちょうど休み時間だった。
「廣坂さん大丈夫?」クラスの女子たちが、友花莉を心配そうに迎えた。しかし、友花莉は傍目も気にせず、自分の席に向かっていった。各々自由にしていたクラスメイトたちの視線が友花莉に向けられていた。その友花莉の視線の先には、休み時間でも一人で単語帳を開いて勉強をしている陰気な男がいた。
「宮城。」友花莉の呼ぶ声に宮城はゆっくりと視線を上げた。
「ついにできたよ。私たちの漫画。」教室中が少し騒然としていた。もちろん、二人で漫画を描いていることは、友花莉と宮城しか知らないことだった。
「そっか、おめでとう。提出はしたの?」友花莉が思っていた以上に、宮城の反応は薄かった。
「いや、提出する前に、宮城に見せようと思って・・・。」
「そんな、別に気を使わなくてもいいのに。」
「だってこれは宮城の作品でもあるんだよ。」
「俺は別に、ただシナリオを考えただけで・・・。」
「つべこべ言わずに読んで感想聞かせてよ。」
「わかった、あとで読むわ。」宮城は丁寧にその台本を受けとった。友花莉には、少し嬉しそうな表情に見えていた。
「あ、でもできれば、今日中には・・・。」
「わかってる。次の時間数学だから、読んどく。」
「よろしく。」そう言っている時には、もう宮城の手元にあった単語帳は閉じられ、隅に寄せられていることに、友花莉は気がついていた。
「ねぇ、廣坂さんと宮城くんで漫画を作ったってこと?」いつもミスコンの手伝いをしてくれている女子が聞いてきた。
「まぁ、そうだけど・・・。私が、宮城が考えたシナリオで、絵を描いた感じだけど。」クラスメイトたちは口々に関心の声をあげていた。
「ねぇねぇ。その漫画をミスコンで使うっていうのはどうよ。」周りの女子たちどころか、クラス中が賛成した。
「いや、それはちょっと・・・。」
「なんで?」なんでもへったくれもなかった。
「これはコンクールに出品するためのものだから、そういうのには使えないのよね。」友花莉は冷静に頑張った。本当は無理に決まってんじゃんくらいは言ってやりたかった。
「そっか・・・。でも・・・。」女子たちも何か言いたげな感じだった。
「このままだと、ミスコン負けちゃうよ。」清々しいほどド直球の球が飛んできた。でも、仕方がないと自分でもわかっていた。ミスコンに向けた活動も、ノースフェイスちゃんが主体で、基本的に友花莉は言われたままにやっているだけで、そもそも友花莉にはやる気もなかった。
「そうだよね。でも、漫画も執筆も終わったから、これからはミスコンに力入れるから。」友花莉は、あっさり今までやる気がなかったことを暴露してしまった。
「でも、もうあと一週間だよ?」他の生徒も各々頷いていた。
「カップケーキは?評判良かったし。」
「あれは、カップケーキってよりノースフェイスちゃんだと思うけどね。」確かにあの時彼女がいなければ、あんなにカップケーキの人気が出ることはなかっただろう。
「ノースフェイスちゃんだったら楽勝だとは思うけど、それでもこの学校のミスコンは何かないと・・・。」
「去年だって学校で一番可愛いって言われてた先輩が、自作でぬいぐるみを作ってた先輩に負けてたし・・・。」友花莉はミスコンを甘く見すぎていた。でも、だからといって反省もしていなかった。友花莉はますますやる気が出なかった。教室の空気は最悪だった。クラスメイト全員が、友花莉に失望の眼差しを送っている気がした。
「でもさぁ、」声の主は宮城だった。宮城は気だるそうに話を続けた。「そもそも、この漫画、誰も読んでないのに面白いかどうかなんて分からなくね?」少し待っても誰からも返答がなかった。「もしかしたら、面白くないかもしれないし、絵も酷かもしれないじゃん。」
「でも、宮城も描いてるんでしょ?」一人の男子が口を挟んだ。
「そういうってことは自信がないの?」それに別の女子生徒が加勢した。だが、宮城は顔色ひとつ変えなかった。
「もちろん、俺も廣坂もコンクールに出すために描いてんだから、面白く描いてるつもりだけど、それを評価するのは俺たちじゃない。」
「じゃあ、結局自信がないってこと?」少し間があいてまた茶々が入った。宮城は大きくため息をついた。
「自信があるなしじゃなくて、そもそも読んでもいないものを、自分たちで評価もせず、無責任に興味もない催しの山車に使われるのが気に食わないだけ。」その瞬間チャイムが鳴った。
「はい、みんな、席につけ。」大久保が暑苦しい声で、教室に入ってきた。どうやら、担当の先生が出張で、自習になりそうだった。
「お前ら、何の話をしてるんだ?」大久保は能天気に問い掛けた。だがしかし、誰もその問いかけに答えることはなかった。でも、友花莉は少し嬉しい気持ちだった。自分と同じようにあの作品を大事に思ってくれていると思うと、宮城と一緒に制作して良かったと思えた。




