枷
心に枷を幾重にも。
三郎は落胆する。そんなことで主上の不死への信仰を捨てさせられるはずがなかった。
恨めしく城を見つめる。手を伸ばせば届きそうなのに決して届くことはない。白壁が敢然と二人を分かつ。
三郎は鏡にそっと頬を寄せる。
――― 清、寂しくて死んでしまいそうだよ。
十日もしないうちに、幕府から将軍補佐官と朝廷から神祇省の大輔がやって来た。藩は何事かと大騒ぎになった。
二人は、まずは清子に恭しく挨拶をして、懐妊を寿ぎ、次に清子抜きで義武と対談をした。
「大巫女様を保護していただき、大変感謝いたします。また、ご懐妊及び御腹の御子を慈しんでいらっしゃるご様子、祝着至極にございます。」大輔は言った。
「敵の子なのに目出度いのですか?」義武はムッとする。
「これから話すことは他言せぬとお誓い下さい。」大輔はそういって血判状を差し出した。
この仰々しさは何だ!?
今どき印鑑でいいのではないかと思うが、朝廷はしきたりを重んじるので仕方ない。薬指の爪際を針で刺し血判する。
大輔は、清子の能力と公儀における役割を説明し、血統をつなぐ重要性を説明した。
その説明が終わると、今度は補佐官が、義武が朝廷に宛てた手紙を広げて、延々と駄目だしをした。二人は、清子が出産をして内侍所に戻るまで城に留まると言う。義武は、前任の大輔のように清子に取り込まれるのではないかと疑われていた。
義武は大いに困り、家老たちと対策会議をする。
「我等の忠義を尽くすべき相手は幕府です。土御門家も朝臣でございます。大巫女様も朝廷の命に従うべきです。」
「大巫女様は内侍所で大切にお世話されるのです。」
「そうだ、幸徳井真備殿に文を書きましょう。大巫女様も真備殿と一緒なら、喜んでとは言わないまでも諦めて御所にお戻りくださるのではありませんか。」
義武は清子の部屋の前で畏まって言った。「大巫女様、少しお話をさせていただいても宜しいですか。」
大巫女様・・・寂しすぎる。「どうぞ。」
近侍が襖を開けると、義武は清子の下座に座った。
「義武さん、私、その呼び方は好きではありません。今までどおりにして頂けませんか。」
そんなことを言われても義武は困る。
「・・・御所に戻ってはいただけませんか。」
「私は、戻りたくはありません。」俯く。
「真備殿とご一緒にお戻りになるのはどうですか。」
清子は顔を上げる。「何故真備なのですか!真備は身分社会を壊し、土地を宝とする古い価値観から、私たちを解放しようとしているのです。絶対そんなことはさせない。真備のためにも私は内侍所には戻れません。」
真備の名前を出したことは逆効果で、二人の間にある深い絆を知らされただけだった。
(大巫女様は敵の思想に染まっていらっしゃる。)
義武は対策会議に報告した。対策会議は佐幕で進んでいく。
大巫女様は主上の守り神である。御役目というのは本来辞職辞退ができるものである。主上ですらそうだ。しかし大巫女様にはそれが許されない。これはもう身分ではないか。だから敵と同じ考えに至ってしまうのだ。朝廷の権威を借りる幕府は、大巫女様を手中に収める必要があり、その力を使ってもらうには、その思想を変えてもらわなければならない。
公儀のしていることは義武的に美しくなかった。
しかし自分が忠義を尽くす相手は幕府である。義武はいつものように現実から目を背けた。
「殿、どこへ行くんですか!」
「ちょっと、気分転換。」背を向けて手を振った。館に帰って戻らない予定。
義武の部屋は端正な和室である。
床の間には藩祖の書が掛けられ、刀掛けがある。違い棚の上には異国の絵皿と瀬戸焼の絵皿が置かれている。襖絵には功徳天とその家族が優しい色合いで描かれている。隣の納戸には、不細工な仏像と、陶磁器、掛け軸、図案集、西洋絵画、西洋美術関係の洋書、写真集が所狭しと並んでいる。
一番に目が行くところだけは硬派で、本質をうまくカモフラージュしている義武らしい部屋である。
義武は納戸で一人美術観賞をして現実逃避をする。そのうち寂しくなって、不細工な仏像とスケッチブックを手に清子のところを訪ねた。
「姫様、遊びましょ。」
以前よりも、うんと甘えて、今までのすべてが無かったように振舞った。
清子は義武の苦しい立場を思い、思考停止の義武を受け入れた。
「姫様の絵を描いてもいいでしょうか。」明るく言って、スケッチブックを開く。
「義武さんは絵を描くのですか?」スケッチブックを覗く。義武は以前に描いた絵を見せる。柿の木、田圃にたたずむ鷺、川を下る舟、田植えの風景。
「とってもお上手ね。」清子は心から感心する。
「姫様を描きたいのです。」義武がとてもまじめな顔をしたので、清子は、はにかんで「ええどうぞ。」と答えた。
義武は、一目惚れした女の姿を心置きなく描き写していく。描きながらやっぱり美しいなぁと思う。
ちょっと化粧を施して、天色(明るい青)とか紅緋色とかはっきりした色を着せればとても映えるだろうな。
義武は、だいたいの時間を清子の絵を描いて過ごすようになった。
干し柿が食べ頃になれば、干し柿を持っていって一緒に食べた。
秋祭り。毎年、村々の子供が獅子を被ってお城にやってくる。
チリンチリンドンドンワッショイ!鈴と太鼓と掛け声のテンポよい繰り返しがだんだんと城に近づいて来た。義武は清子を玄関まで連れてくる。じきに二頭の獅子が館の門をくぐって現れた。チリンチリンドンドンワッショイ!
子供の獅子舞を見て、獅子の口にご祝儀を入れてあげるのが恒例だ。義武は、噛まれるのが怖いふりをして、何度か手を出したり引っ込めたりしてから獅子に祝儀袋を噛ませた。ワーっと鈴と太鼓がやかましく鳴った。義武は清子を振り返り、もう一頭の獅子に祝儀袋を渡すように促した。獅子は歯をカッカッと打ち鳴らして催促する。清子が恐る恐る差し出すと獅子がパックと喰いついた。鈴と太鼓が一斉に鳴って、子供たちは元気よく挨拶をして帰っていった。
冬至。清子が筮占をしようとするので、義武はなんだかんだと理由をつけて邪魔をした。
大晦日。除夜の鐘を一緒に数えた。清子は除夜の鐘を数えるうちに寝落ちした。
元旦。地元で有名な稲荷神社に出掛ける。夜明け前、義武は、寝ている清子の頬に、よく冷えた手を押し付ける。清子が小さな悲鳴を上げて目を覚ますと、義武は悪戯っぽく笑って、寝ぼけ眼の清子に打掛を着せて、初詣に誘いだした。
一の鳥居をくぐると参道の両脇に露店がずらりと並ぶ。清子の眠気は吹き飛んだ。清子は物珍しそうに一軒一軒見て歩く。義武は、清子が転ばないように守るようにして歩いた。二の鳥居をくぐる。義武は社務所でお供えの油揚げを買った。清子がどこで供えるのかと思っていると、本殿で、義武は油揚げを賽銭のように投げた。清子も真似をする。油揚げは上手く賽銭台の上に載った。
旧正月。地元の神社に左義長を見に行く。神社の本殿から階下の広場で行われる火祭りの様子を見る。男衆が、村ごとに造った竹神輿を掛け声をかけながら境内に担ぎ入れ、神輿に火を放つ。火炎は高く上がって本殿に届くのではないかと恐ろしくなるほどだ。
パーン!竹が弾ける音が大きく響いた。
「あっ!赤ちゃんがおなかを蹴りました。」清子が目を白黒させる。
「よしよし、いい子だ、怖くないからね。」義武は清子のおなかを優しく撫でた。
お揃いの長襦袢に白足袋姿の男衆が、「もっと燃えろ!もっと高く火よ上がれ!」燃えさかる炎の周りで叫んでいる。また竹が弾けて、火の粉がぱっと飛び散った。歓声がどっと上がった。
義武は、すべてを飲み込んで、清子と一緒に内侍所に入ろうと思うようになっていた。
清姫は嫌でも、一緒に内侍所に入ってもらって、自分がずっと傍にいて大切にしていれば、そのうち腹の子の父親のことを忘れて、自分だけを見るようになるのではないか。もしそうなってくれるなら、自分は忠義を果たしながら清姫を幸せにすることができるだろう。義武は清子にそれを望んだ。
文化系の優しい子に無理をして武士道を叩きこむときっとこうなる。義武さんがいなくなったらこの藩どうなるの?と思うかもしれませんが、養子をとるのです。やんごとなき家系はだいたいそんなもんです。
殿が稲荷神社は行かないでしょうが、ファンタジーなのであれもこれもします。おちょぼ稲荷と稲葉神社です。