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幕末京都の御伽噺  作者: 鏑木桃音
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梔子の花

三郎の一人反省会が始まった。

「あぁ、あれはない。」

「だって、清があんなこと言うから。」

「だからってあんな顔させてどうする。いつもみたいに軽く()なせばよかったじゃないか。」

「そう、そのとおり。で、どうする?」

「普通に思いつく選択肢としては、①清のお願いを聞く②お願いを聞けない理由をちゃんと説明して何か喜ぶ物を渡す、じゃない?」

「絶対②でしょ。清の喜ぶものって?」

「朧豆腐とかお菓子とか?」

「そんなので許してもらえるか?自分の罪を軽く見積もりすぎだ。」

「ごもっとも。でも清はこれといった物欲がない。清の欲しいものは家族とか、愛とかそういうの。」

「待て待て、それって結局①じゃない?」

「うっ、出口が見えない。」


一人反省会を延々と続けるうちに、日の向きが変わったことに気付く。これはいけないと思い、急いで薪を拾う。途中で梔子(くちなし)の花を見つけた。梔子は昔、清が使っていた香油だ。きっと好きな花に違いない。三郎は一枝手折って持ち帰ることにした。これでごまかせないかと淡い期待をして。


山を下ると、家の横を流れる川の中に妻がいるのが見えた。もしかして入水自殺?死が二人を分かつまでって約束したけど、もう終わりにしたいってこと?三郎は慌てて駆け寄る。

「清、何をしているんです、風邪をひきます、早く上がって下さい。」

清子は三郎に視線を向けて立ち上がった。襦袢が体に張り付き目のやりどころに困る。

「御心配には及びません。どうにも心が濁るので(みそぎ)をしているだけでございます。」寒そうな青い顔で言った。

負けました。完敗です。

「清、話があります。禊よりも心が平らかになる話です。」


囲炉裏の前で

「会計帳簿の書き方を陰陽師に教えるという話ですが、私の条件を受け入れてくれたら、清に教えてもいいです。」三郎が言うと、清子の耳がピクッと動いた。

「条件は三つです。①十五歳までの子供に限ること。②教える場所はここにすること。③勧誘は幸徳井家を通じてし、直接勧誘はしないこと。どうです、守れますか?」三郎のできる最大限の譲歩だ。

「守ります。」清子は明るい表情で答えた。

「それはよかった。あと、この花を清に。」そう言って梔子の花を差し出した。清子は花を見つめた。

清子は既に三郎から貰った。さらにくれるその意図を測りかねた。

「清、今朝は怖い思いをさせて申し訳ありませんでした。その・・・、私は清と子作りをしようとしたわけですが・・・。私には清に愛されて睦事をした大切な記憶があります。この記憶を塗り替えるのは、やはり幸せなものでありたい。ですから、清が私とあのようなことをしてもいいと思えるようになったら、言ってください。首を長くして待ってます。」三郎は、断腸の思いで、心の中で号泣しながら格好つけ痩せ我慢をして笑ってみせた。

清子は花から三郎に視線を移す。

この人は優しい。私はこの人の優しさに答えなければいけない。

「覚悟ができましたらそういたします。恐れ入りますが、もう少し時間を下さい。」俯いて小さな声で言った。

「覚悟とかそんな大それたものが必要なうちはまだまだです。ゆっくりでいいですから。」

格好つけやせ我慢。

清子はほっとした様子で頷いて、花を受け取った。

三郎は、真の夫婦になるためにスキンシップ多め作戦を採ることに決めた。


それから一カ月あまり、三郎先生は清子に最新式・複式簿記による会計帳簿の書き方を教えた。

会計帳簿と一口に言っても、仕訳帳、総勘定元帳、現金出納帳、仕入帳、売上帳、手形記入帳、商品有高帳、買掛金元帳、売掛金元帳とたくさんある。

「左が借方、右が貸方と言います。貸借対照表の借方が資産、貸方が負債・純資産。損益計算書の借方が費用で貸方が収益です。」

「えーと、先生。なんで貸借対照表では右が負債なのに損益計算書では右が収益なんですか。性質的には負債と費用は似ていると思うのですが。」

「そういうものです。費用と収益は儲けを計算するもので、資産と負債・純資産は財産を把握するものです。仕訳に於いて資産が増えたら借方に現金などの資産科目が来ます。その反対側貸方には増えた原因として収益科目の売上や負債科目の買掛金を書くのです。負債も収益も資産を増やすから左なのです。」

「なるほど。」

「大丈夫。基本的に、あらゆる勘定科目がこの五つのどれかに割り振られますので、その割り振りを暗記してしまえば仕訳はできますから。」

「あらゆる・・・。」

紙は貴重品なので地面に書いて教える。二人で頭を突き合わせて同じ地面を見つめるのも悪くない。三郎はそれなりに楽しんだ。

「これで伝授は終わりです。これで奉公しやすくなるでしょう。出替(でかわり)奉公(1年または半年の奉公)で、家事や雑用をするのもいいでしょうが、不安定で先が読めません。会計知識があればどこへ奉公するにしても長く重宝されるでしょう。とてもいいところに目をつけたと思いますよ。」よしよしと頭を撫でた。

自分もそろそろ働き口を探さなければ。それにしてもここは田舎すぎる。奈良の綿花の栽培は外国製品に押され既に滅んでいた。材木も遷都と政情不安定のせいでダブついている。

しかし妻を置いてはいけない。


「真備に生徒さんを集めてもらいましょう。きっと喜んでくれるはずです。」

真備が抱えている重荷を少しでも減らしてあげたい。その荷を本来持つべきなのは御家なのだから。

清子は嬉しそうにそう言うと、林造さんに伝言を頼んだ。


さりとて連れて行くこともできない。

とりあえず林造さん一家の経験を頼って農業をちゃんとしよう。今はそれしかない。


三郎はいくらお金を持っているか計算してみた。三郎は1年で本勤の与力になり、一人身で扶養家族もなく、使用人も通いのお婆さん一人いただけでした。すると140両くらいは持っていそうなんですよね。西山松之著作「江戸町人の研究」に大塩平八郎の家計簿が載っていてそれを参考に計算してみました。しかも解職後に貸家貸付業をしていました。武士は元服すると妻帯するのでしょうが、商人として半人前の内に転職し、転職した時には既に運命の女に出会っていたのでこのようにお金が貯まりました。

しばらく働かなくてもよくないかい、とも思うのですが、減っていく一方というのは不安なものです。

複式簿記は明治の初頭あたりに福沢諭吉先生により日本に本格的に紹介されました。

それまでは単式簿記です。時期的には今話より少し後くらいになりますが、もし、戊辰戦争がなかったら、ある分野では西洋化がより早く進むのではないかと思います。慶喜は新しいもの好きですから。それでいて無駄な西洋化はしないような気がします。本当は貨幣制度の転換とかしたいでしょうけど本作ではやりません。

三郎は大家さんだったので、複式簿記に出会い感動しました。

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