この胸のドキドキは
清子は、今を壊す八陵鏡を覗く。
「うーん、なんにも見えないよ、槐。」
「大分と時間が経っておるからな。でもあの被虐的な性格からして大丈夫だと思うんだが。ちょっと貸して。」
槐は畳の上に鏡を置いて呼びかける。
「おーい三郎、生きてるか?」
「三郎?」「そう、三郎。」
「おーい三郎、生きてるか?」
なんだか呪文みたい、過去を取り戻す呪文。
「「おーい三郎、生きてるか?」」「「おーい三郎、生きてるか?」」
「え?!鏡が。本当に?待って消えないで!」
鏡の向こう側から慌てふためく声がする。槐と清子は鏡から顔を上げて笑い合う。
「お姫さん!」三郎は叫んだ。
「・・・・・・誰?」
鏡は、髪の毛はボッサボサで無精ひげがモッサモサな、不衛生そうで不健康そうで不景気そうで不幸そうな男を映し出した。男は号泣しだす。清子は戸惑って槐を見る。槐がため息をつく。もう一度鏡に目を落とす。小汚いのが泣くとさらに見苦しい。
「ねぇ槐、どうしましょう?」
「うーん、役に立つと思ったんだけど。何しろお前様の夫だから・・・。」
「はっ?!おっ、夫ですか?」
くるん パタ 思わず鏡を裏返した。
「槐、もう一度聞くわよ。あれが私の夫だって言った?」
「そうじゃ。昔は、もうちょっとマシだったけど。」
そんなの嘘!
夫がいるってことも信じられないけど、それよりも・・・
貧乏とかそういう問題じゃないの、あれはどう見ても、生活を維持する能力も意欲も喪失した駄目人間よ!あれが夫だなんて、私悲惨すぎ!
お父上さんたらあんまりだわ。待って、お父上さんに限って打算のない結婚なんてするはずがないわ。もしかして何かあるのかも。
ドキドキ ドキドキ チラッ 鏡を表に返す。
号泣する駄目人間が映る。
くるん パタ
「駄目だわ、とても疲れました。・・・休みます。」
次の日、清子は仮病を使い部屋に閉じ籠って、鏡を前に正座する。
ドキドキ ドキドキ 怖いけど、やっぱり気になる自分の夫。
「ごきげんよう、三郎さん。」小さな声で呼んでみる。
するとすぐに「おはようございます、お姫さん!」と嬉しそうな声が返ってきた。
男は見違えるように小綺麗になっていた。誰だこれは!?
「えっと、私は土御門清子と申します。お名前を頂戴できますか。」
「はい。成田三郎と申します。」
「成田さん。えーと、私は内侍所で巫女をしております。成田さんの御職業は?」
「はい。以前は京都町奉行所の与力をしておりましたが、今はもっぱら貸家の家主をして生計を立てています。」つまりは毎日何もしていないと。
「私は御所内に住んでおりますが、成田さんはどちらにお住まいですか?」
「はい、東京の築地です。兄の店(東京支社)に籍だけ置かせてもらっています。」つまりは兄の厄介者。やっぱり駄目人間だわ。
「あのー、つかぬことをお尋ねしますが、私の夫だったって本当ですか?」
すると男の目にみるみる涙が溢れて、
「なんで過去形なんですか!私は離婚を承諾した覚えはありません!今もあなたの夫です!」
くるん パタ
ドキドキ ドキドキ こ、これは心臓に悪いわ。
立ち上がって部屋の中をグルグルしながら考える。
私は義武さんから結婚の申し込みをされている。これってどうなるのかしら。このままいくと・・・重婚!重婚は犯罪よ。これはどちらかを解消しないといけないわ。解消するならやっぱり駄目人間の方でしょう。
ドキドキ ドキドキ チラッ
「すみません、取り乱してしまって。」男は涙を拭いながら言った。
「あの・・・私、近々結婚する予定なのですが・・・」と言ってみる。
男はまたしても号泣して、
「忘れ去られて捨てられて、捨てられても諦められずにいるのに、結局は捨てられ、切り捨てられ」
くるん パタ
捨てられ、捨てられって、すごく怨んでらっしゃるわ。どうしましょう。
ドキドキ ドキドキ チラッ
「あんなに愛し合ったのに。」
な、何!? くるん パタ
落ち着くのよ、ちゃんと確認しましょう。
ドキドキ ドキドキ チラッ
「それはいったいどういう意味合いで?」
「勿論子作り」
な、何!?くるん パタン
全く身に覚えがないけど、覚えてないなんてクズ男のする言い訳だわ。こ、これは責任をとらないと。
ドキドキ ドキドキ チラッ
「もし宜しければ・・・内侍所で一緒に暮らしますか?」
「私は妻を取り戻そうとして所払いになった身です。江戸城になんて入れません。」
くるん パタ
罪人!?私のせいで!?こ、これは責任とらないと。
ドキドキ ドキドキ チラッ
座布団の上で槐が大きなあくびをした。ふわぁーぁ。
このように三郎と日々会話を交わすうちに、江戸城上空の大気は安定しだし、これにより関白は兵を解いた。
ある夜、布団の中で、
「ねぇ、槐。成田さんってどんな人だった?」
「あきれるほどお前様を愛していたよ。お前様のためならなんだってするだろう。あぁ見えてわりと使えるんだ。」
清子はにっこり笑う。
「そう。じゃぁ、私は成田さんのことをどう思っていたの?」
槐は笑って答える。
「深く信頼していたし、好いておった。」
そうか、信頼か。そうか、私の夫か。
清子は幸せな気持ちで眠りについた。
次の日、鏡越しに清子は言う。
「私との婚姻関係を継続するとなると、いろんな苦労が絶えないと思いますが、共に苦労をしてくださいますか?」
三郎は答える。
「私があなたを愛するように、あなたも私を愛してくださるのなら、いかなる苦労も苦ではありません。
死が二人を分かつまで、どこまでも添い遂げたいと思います。」
清子は心を決めた。