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幕末京都の御伽噺  作者: 鏑木桃音
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将軍宣下

三郎は、義父の部屋に捨て置いた濃紺の房のついた鏡を見つめている。

―――「どうしても、やらないといけないことがあります。」

我が姫はそう言った。



朝廷は、徳川慶喜の将軍推戴を含む国政の重要事項を合議で決めるため、諸藩侯に上洛を求めていた。しかし集まった藩主等はたった七人。七人ではとても皆の総意で将軍になったとは言えない。


御常御殿

泰清は言上する。

「主上、いつまでも将軍空位では、国政を執り行っている幕府の立場が不安定でいけません。今年は各地で災害が相次ぎ、どの藩も財政的に苦しいのでございます。諸藩公が揃うのは、いつのことになるかわかりません。徳川様に将軍宣下の勅命をお与え下さい。」

 主上は、朝議により徳川慶喜に対する将軍宣下の勅命を降下させた。

 将軍宣下の勅使は陰陽頭が務めるのが通例である。そこで新将軍に撫物を渡して穢れを移し取り、それを邸に持ち帰って、天曺地府祭を行うのだ。天曺地府祭は、主上の即位のときと征夷大将軍就任のときにしか行われない治世の永続を祈る特別な祈祷である。

泰清は、主上に、その勅使を務めさせてくれるように願い出た。勅使であれば、たかが陰陽師とも向き合ってくれるのではないかと思う。


日の光が淡く差して、雪がふわふわと舞う日に、勅使門から、先払、雑色、傘持ち、武官、勅使、勅書持ち・・・勅使行列が二条城に向かう。泰清は正装をして馬上の人。

シャンシャンシャンシャンお馬が通る。


本来であれば幕府にとって最も重要な儀式であるのに、二条城に祝賀に集まったのは在京の大名旗本のみ。徳川家歴代中最も寂しく、しかし最も主上に望まれた将軍宣下であった。



二条城二の丸御殿大広間一の間

宣下は将軍と勅使と数人の補助役だけで厳かに執り行われる。

泰清が勅書を読み上げると、慶喜は「謹んでお請けいたします。」と礼をした。

それから泰清は、撫物の入っている木箱の蓋を開けて「新将軍の治世の永続を祈祷いたします。この撫物でご自分のお体を撫で、穢れを撫物に移して下さい。」と差し出した。

木箱が新将軍の前に運ばれる。しかし慶喜は、目の前に運ばれた撫物を見つめたまま動かない。

「どうなされましたか?」怪訝に思った泰清が尋ねる。

慶喜は顔をあげると、「大変有難いお心遣いではございますが、私は、幕府はもう駄目だと思っています。私の如き不才が天下を取ったところで、幕府を蘇らせることなどとてもできない。私の治世の永続など祈ったら、あなたの面目が潰れてしまいます。ですので撫物はご辞退い申し上げます。」と穏やかに言った。

「それでは何のために将軍職を引き受けるのですか?」泰清は苛立つ。主上が幕府存続に血道を上げているのに、大樹がこれでは報われない。滅びるに任せてくれていたほうが諦めもつくというものだ。

「幕府の求心力は既に無く、多数派の賛同を得なくては、天下は動かないことはわかっています。しかし、諸侯に参集を呼びかけたにもかかわらず上洛した者はごくわずか。これでは何も決まりません。私が天下を執るしかないのです。」

「なぜ出てこないのかを考えますと。政局が不安定で見通しが利かないからでしょう。公議公論を求める姿勢を見せ続けることは必要だと思いますが。」

「公議公論は、諸侯の招集に時間がかかります。そのくせ人が集まらなかったり、愚論が出れば収拾がつかなくなったりする。好い事ばかりではありません。」

「確かに、なんでもかんでもというわけにはいきません。公議公論についての約束事が必要です。その約束事も公議公論で決めるのがよいのでしょうが、暫定的な御定書を作って、主上と大樹の連名で公示なさるのがよいと思います。」

大樹公は、権力奪取に汲々としている公家とは随分違う。公家は口を開けば「朝廷の権威が」としかいわない。このように国家のことを考えている人が国政から排除されようとしているのはおかしい。

「私一人の思うところを申し上げます。これから申し上げることは絶対に秘密です。」泰清は口を人差し指で抑えた。

「結局、幕府を存続させられるかどうかは、国内政治を安定させられるかどうかということです。

そのために為すべきことは二つです。一つは公議公論体制を確立すること。もう一つは、主上を江戸へお移しすることです。お移しして煩い公家を捨て、主上と大樹の考えに齟齬が生じないようするのです。

主上は幕府の存続をお望みなのだから、大樹公が主上の手を離さなければ、きっと幕府は存続します。」

公議公論は攘夷に変わる倒幕の口実になっている。公家のうち倒幕を主張しているのは、従前であれば朝議に参加できなかった中下級公家である。これらの公家の強硬な主張が政令二途の原因となって国政を不安定にしてきた。遷都について行くにはそれなりの金が要る。貧しい公家は政争から脱落するはずだ。

「私には、まともな助言をしてくれる者がおりません。譜代、家門といった身内の大名ですらです。国家第一、これはもちろんですが、私は徳川家の当主でもあります。

それなのに、総てを捨てて一大名になれと言ったり、何も捨てるなと言ったり、現実的で受け入れ可能な案を誰も示してくれない。

幕府の事を思って意見をくださる人がいる。そのことが私は嬉しい。今日はとてもいい日になりました。」

大樹公は笑っている。泰清は、微笑んでもう一度撫物を勧める。

「私は、新将軍の治世の永続をお祈りしたい。ですから是非撫物をお使いください。」

新将軍は拝礼をして撫物を手に取った。




(ささや)き千里




シャンシャンはない。12月だから。清子、政争に嫌気がさして脱京都を企てる。

史実について

将軍宣下を促したのは前尾張藩主徳川慶勝です。

慶喜の将軍宣下の勅使を晴雄はしていません。天曺地府祭も行っていません。武家伝奏の飛鳥井雅典と野宮定功が勅使になっています。近所なのに陰陽頭にしたら格下げになってしまうので、当然といえば当然ですが、土御門家としては内心穏やかではなかったかもしれないですね。

主上の天曺地府祭は行っています。天曺地府祭は宣下後ただちに行うわけではなく、準備に時間が掛かります。天皇の天曺地府祭には120石貰ったそうです。土御門家の知行高177石6斗なので、すごいことなのでしょう。知行高が少なすぎなのかもしれませんが。天皇より将軍の方が派手で、実入りとしては美味しかったみたいですよ。(「近世陰陽道史の研究」遠藤克己著作より)。

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