そなたが天時を読みなさい、私が神に祈ります。
心穏やかに過ごしていたある日、御所より近習の倉橋のおじ様が、泰清を召す使者としてやってきた。
「すでに辞表は出しているが。」晴雄は困惑する。
「主上は、お受け取りにはなられません。」倉橋のおじ様は困り顔で答えた。
清子は主上の御前にでるのが恐ろしい。しかし、血は水よりも濃く、人脈尊重は貴族社会の不文律である。泰清子は、おじ様の顔を立てるため、辞表を受理してくれるようお願いしに参内することになった。
御常御殿
「泰清、待っていました。このほど狐の住処ができたのです。」
主上は泰清を見るなり、明るい声で言った。
主上は痩せて、もともと神経質そうな顔がますます険しくなっており、視線がせわしなく動く。
御所に狐が住み着いたと仰っているのだろうか。よくわからないが、主上の様子が恐ろしい。また逆鱗に触れないとも限らないので言葉選びに細心の注意を払う。「お喜びのご様子何よりでございます。」
「喜んでくれるか。そうか、ではいつ越してくる?引越に相応しい日を選日せよ。」血走った目が微笑む。
「・・・いつ越してくる?」わからない部分を反芻した。
「だ‐か‐らぁ、そなたに公卿門前の屋敷を与えると言っているのです。梅小路は遠い。木の葉も油揚げも必要なものは全部揃えさせた、あとはそなたが住むだけじゃ。」楽しそうに言う。
泰清は、お怒りを買て辞表を出したのだ。それなのに心変わりにもほどがある、主上はおかしい。
「当家は都の裏鬼門を守るのが御役目でございます。」
「敵は西からも来る。裏鬼門は陰陽頭、西の守りは泰清がせよ。」大真面目に言う。
征夷大将軍を欠き、関白を失い、中川宮を失い、守護職も政務から遠ざかった。主上は陰陽師を頼りたくなるほど苦境に立たされていた。そしてこんな状況になっても長州を変わらず敵とみなしている。
「・・・有難き仰せでございます。しかしながら、天時は人の思いが創るものでございます。私は天時を読むことはできますが、覆すことはできません。覆そうとなさるのでしたら、私の言葉は御心を不安にさせるばかりです。お側に置かない方がよほど宜しゅうございます。」泰清は平伏して申し上げる。
「・・・其方まで私を一人にするのか。
其方の筮は間違っていなかった。先だっては相済まぬことをした。」
泰清は、その怯えた声に驚き顔を上げるが、再度平伏し告白する。「私は卦を偽りました。正しい卦を申し上げれば、またお悩みになると思ったからです。天時に抗するお考えでしたら私にできるのはそのくらいのことしかございません。」
「私は至尊の身、神の末裔、私の願いは人の思いとやらよりも強く、神はお聞き届けくださるはずです。だから其方は今までどおり天時を読みなさい、私が神に祈ります。私と其方は祈る神は違うが、祭祀を司る者同士、最上の組み合わせであろう?
・・・だから、どうか朕を一人にしないでおくれ。」
――― 私は、申し上げるべきことは申し上げました。
「御叡慮誠に恐れ入りましでございます。本日より狐御殿に引き移らせていただきます。」
選日など不要です。
お父上さん、申し訳ございません。
町奉行所
お奉行が大広間で職員一同に伝えた。
「一橋様の徳川宗家御相続が勅許されました。しかし征夷大将軍はご承継なされません。」
朝廷は征夷大将軍に大政を委任してきた。その征夷大将軍がいなくなったら、幕府は、町奉行所は、何の権限で京の町を取り締まっていくのか。これから我々はどうなるのだろう。一同騒めく。
動揺を鎮めるべく与力頭が皆を諭す。
「みんな、ちょっと落ち着きましょ。
今は将軍職は空位ですが、近いうちに徳川様がお就きになるのは間違いない。その他に誰がなると言うんですか。だから動揺はしないでよろし。我等は今まで通り職務を追行しましょ。町政を滞らせてはなりません。我々の多くはこの土地で生まれ育った人間です、それだけでもこの町の為に汗を流す価値はあるってものです。」
そう思って自らを支えるしかない。当たり前の世界が崩れようとしている。
所司代からの回達が届いた。
与力頭が読み上げる。
「えーと。公卿門前のお屋敷を、土御門家が拝領し、若殿様がお引き移りになったので、なった?既に?重点警戒場所に加えること。」
「?!聞いてない!」三郎は思わず叫んだ。
三郎は仕事が終わると、急いで泰清の新しい邸に行く。邸は公卿門の真ん前で、会津藩の警固が門外を固めていた。
案内役の式について行くと、庭の紅葉葉を眺めながら漫ろ歩く泰清を見つける。
何か鼻歌を歌っていて、その後ろを狐がひょこひょこついていく。
我が姫は逃れることができなかった。混迷を深める政局から、兄の身代わりから。
どんな気持ちで紅葉を眺めているのだろうか。三郎は、駆けつけたはいいものの、何と声をかけていいかわからなかった。
聞き覚えのある足音が近くで止まった。清子は振り返る。
狩衣姿の我が姫に、かつての従者の面影が重なる。
「あらお師匠さん、地獄耳ですこと。」独り言のように言った。
「・・・・・・これは避けられなかったことなのですか。」
「避けられなかったか、と言われれば、それは避けられたでしょう。公家というものは危険をかぎ分ける能力に長けておりますから。」ふふっと笑った。
「でしたら何故。」
「いくら私が公家中の公家とはいえ、主上が本当にお困りの時にお助けせずに何のための朝臣でしょうか。まして、私は主上に長州征討をお薦めしています。逃げ出すことは許されません。」
我が姫は変なところで真面目だ。変なところでもないか。いつも真面目な人だ。
だからと言って、覚悟を決めたなら仕方ないとはどうしても思えない。姫は姫だ、本来ここにいるべき人ではない。
三郎の心配を察した清子は明るく声音を変える。
「お師匠さん、西洋事情という本をご存知ですか?」
「ええ、福沢諭吉が書いた異国の政体を紹介する本で、今、巷で人気です。」
「お読みになりました?」
「いいえ、私には縁がないものかと思いまして。」
「縁のあるなしに関わらず、一度お読みになると宜しいですよ。大変面白いです。亜米利加の議会の在り方が我が国の幕藩体制になじみやすいと、皆が申しています。」
「ちょっと勉強不足で申し訳ありません。」突然何の話が始まったかと当惑する。
「いいえ、私も正親町三条様からの受け売りでございますよ。
・・・私は、英吉利の政体も我が国に応用できると思うのです。朝議を議会に拡大し。執行は幕府が行う。議会と幕府の上に主上。将軍は議会の推戴と主上の承認を得る。こう考えれば、朝廷も、幕府も公議公論もすべて丸く収まるではありませんか。
主上は幕府の存続をお望みです。真のお望みは古き良き時代に返ることですが、この期に及んで、それはさすがに無理でございましょう。ですが、このような方法で幕府を残すのであれば御許容可能ではないか思うのです。
既に徳川様は諸藩侯の招集を朝廷に願い出ています。
そうであれば、その体制に移行するまでの間、私が主上を騙し騙しお導きすることは、できそうではありませんか。ね、全く勝算のないお話ではございませんでしょう?
ですからご安心くださいませ。」
三郎は、わかったような、わからないような。とりあえず、我が姫は奈落の底にいるわけではないらしい。「少し安心しました。」
清子はそれを聞くと、にっこり笑って礼をし、再び歩き出した。
背中がこれ以上の話を拒んでいる。三郎は一人取り残された。
清子は今までのらりくらりと公家をしてきましたが、そうもいかない状況になりました。関白もおらず、まさに道鏡するにはうってつけの状況です。
守護職は長州出陣をドタキャンした慶喜にキレて幕政に口をださなくなりました。慶喜は守護職を頼ることができなくなり、これまた公議政体方向に舵をきる後押しになったと思います。
歴史は上手くできてます。