第1巻 第12話 後悔なき選択
静かな月の下の怪物
第1巻 第12話 後悔なき選択
細い岩道が、ようやく終わりを迎えた。
レンとケイルは、さらに森の奥へと進み続けた。兵士たちが追ってきている可能性は、まだ十分にあった。二人は逃げてきた場所からかなり離れるまで、立ち止まるつもりはなかった。
レンの小さな足は、少しずつ疲れ始めていた。体に残された力もわずかだったが、彼の意識は別のことに向いていた。
レンは、通り過ぎてきた岩の方を振り返った。
ほんの少し前まで、道は完全に塞がれていた。それなのに突然、彼のエコーが反応し、重い岩を動かして二人のために道を切り開いたのだ。
レンは、自分の小さな前足を不思議そうに見つめた。
そっか……僕のエコー、本当に助けてくれたんだ!
胸の中に、小さな喜びが湧き上がった。
これまで、彼の不思議な力は疑問ばかりを生み出してきた。けれど今回は、困難な状況から抜け出すために役立ってくれたのだ。
次も、僕のエコーは助けてくれるのかな? 少しずつでも、この力を理解できるようになるんだろうか?
答えは分からなかった。それでも、今の彼の心には戸惑いだけでなく、かすかな希望もあった。
いつか、この不思議な力を理解し、自分の意思で扱えるようになるかもしれない。
ケイルが肩越しに振り返った。
「レン、どうした? 急に立ち止まって」
レンは前足を下ろし、慌てて彼の後を追った。
「なんでもないよ! ただ……僕のエコーも、そんなに役立たずじゃないのかもしれないって思ったんだ」
ケイルはレンを見つめ、かすかに微笑んだ。
「そうかもしれないな。だが、もっと理解できるようになるまでは、慎重に行動する必要がある」
レンは勢いよくうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと理解できるように頑張るよ!」
ケイルが再び歩き始める一方で、レンの心には新たな疑問が浮かんでいた。
今日、僕のエコーは道を切り開いてくれた。だったら、これから先は、ほかにどんなことができるんだろう?
今はまだ、その答えは分からない。
けれど、それでもよかった。
彼には、新しく目指すものができたのだから。
しばらく歩き続けると、二人は木々の間に隠れるように建つ古い石造りの避難小屋を見つけた。
かつては旅人たちが休息を取るために使っていたのかもしれない。壁には苔が生え、屋根の一部は崩れ落ちていたが、休むには十分な広さが残っていた。
ケイルは、まず周囲を確認した。
近くに誰かがいる気配はない。
「しばらくは、ここで休めそうだ」
そう言うと、レンは疲れ切った様子で石のそばに腰を下ろした。
しばらくの間、二人の間に会話はなかった。
外では風が枝葉の間を吹き抜け、遠くから夜行性の生き物たちの鳴き声が聞こえていた。
つい昨日まで、レンは村の子供たちと遊んでいた。
彼らはレンと一緒に笑い、翌日もまた遊ぼうと誘ってくれた。
それなのに今、彼は村から遠く離れた森の中で、身を隠している。
昨日までは、何もかも普通に思えたのに……。
レンは小さな尻尾をゆっくりと動かし、それから体のそばに引き寄せた。
彼の心には、もう一つ気掛かりなことがあった。
ケイルは、自分を守ってくれた。
兵士たちと対峙し、彼らの命令に背き、今では自分自身も追われる立場になってしまった。
レンは、ゆっくりとケイルの方を向いた。
「ケイル……」
「ん?」
「僕を守るために、あの兵士たちと戦ったよね。今度は、君まで追われることになった」
ケイルは黙って話を聞いていた。
「僕を彼らに引き渡すことだってできたはずだ。そうすれば、こんなふうに逃げる必要もなかった。僕と一緒に森に隠れることもなく、今までどおりに過ごせたんじゃないの?」
レンは少し言葉を切った。
「後悔していないの? 僕のせいで、君まで兵士たちから逃げなきゃいけなくなった。これから君がどうなってしまうのか、僕には分からない……」
その声には不安がにじんでいた。
けれど、それは自分自身の身を案じる不安ではなかった。
自分のせいでケイルが傷つくことを、レンは心配していたのだ。
ケイルはしばらく黙っていたが、やがてレンをまっすぐに見つめた。
「レン、お前に話しておかなければならないことがある」
レンは顔を上げた。
「以前、森で異常なエコー反応を調査していると言っただろう。あのとき、俺はすべてを話したわけじゃない」
レンは何も言わず、続きを待った。
「俺は自分の意思だけで、あそこに来たわけじゃない。異常なエコーの正体を突き止めるよう、国王から直接命令を受けていたんだ。その発生源が、国にとって脅威となる可能性のある存在だった場合、捕らえて王宮へ連れてくることも命じられていた」
レンの目が、わずかに見開かれた。
「じゃあ……君は国王の命令で、あの森に来たの?」
「ああ」
ケイルは言い訳をすることなく答えた。
「俺の任務は、そのエコーを調査することだった。どこから発生しているのか、その性質は何なのか。そして、国に危険をもたらす可能性があるのか。それを確かめる必要があった」
「それで、君が見つけたのが……僕だったんだね」
「そうだ。俺が見つけたのは、自分の体のことさえよく分かっていない存在だった。お前は自分の力を理解しようとしていた。この世界のことも分からず、戸惑いながら、自分の居場所を探していたんだ」
ケイルは少し間を置いてから続けた。
「お前のエコーが未知のものだという事実は否定できない。だが、未知のものだからといって、必ずしも危険だとは限らない」
レンは自分の前足に視線を落とした。
ケイルの声が、少しずつ真剣なものになっていく。
「国王がお前をどう考えているのか、俺には分からない。お前の力を理解したいだけなのかもしれない。国を守るために、王宮で保護しようとしている可能性もある。だが、そこでお前がどんな扱いを受けるのかまでは分からない」
彼は一度、言葉を切った。
「もしお前の力が、本当にそれほど特異なものなら、自由に生きることを許されないかもしれない。常に監視されたり、能力を調べるための実験を受けたり、自分たちの目的のために利用されたりする可能性もある」
レンは口を挟まず、静かに聞いていた。
「もし、お前が生きた兵器として扱われたらどうする?」
ケイルは問いかけるように言った。
「お前自身の願いよりも、その力ばかりを重視されたら?」
彼は少し間を置き、再びレンを見た。
「国王が本当にそんなことをするとは限らない。だが、お前をどう扱うつもりなのか分からない以上、何も考えずに引き渡すわけにはいかなかった」
ケイルの表情には、確かな決意があった。
「エコーがほかの存在と違うというだけで、罪のない生き物を国王に引き渡すことはできなかった。レン、お前は物じゃない。お前には、お前自身の意思がある。自分がこれからどう扱われるのか、知る権利だってあるんだ」
レンは、その言葉を真剣に受け止めた。
それでも、心に残る疑問が一つあった。
「でも……僕を引き渡していれば、君は逃げなくて済んだんだよね」
「そうかもしれない」
ケイルは認めた。
「だが、お前が公平に扱われるかどうかも分からない場所へ、自分の手で送り届けることになる。お前がどうなるのか不安に思いながら、それを見て見ぬふりすることになるんだ」
彼は静かに息を吐いた。
「俺は、そんなことをしたくなかった」
レンはしばらく彼を見つめていた。
ケイルがこの決断をしたのは、ただ自分を守りたかったからではないのだと、少しずつ理解できるようになっていた。
彼は自分の判断と信念に従って行動したのだ。
相手が未知の存在だというだけで、危険だと決めつけることを拒んだのである。
それでも、レンの心配は消えなかった。
「じゃあ、これから君も犯罪者だと思われるの?」
ケイルは小さく息を吐いた。
「その可能性はある。俺は命令に背き、調査対象だった存在を連れて逃げたんだからな」
「それでも、後悔していないの?」
ケイルはすぐには答えなかった。
壊れた入口の向こうに広がる、暗い森を見つめていた。
「いや。少なくとも、今はな」
ようやくそう答えた。
レンは黙り込んだ。
しばらくの間、二人の間には木々を揺らす風の音だけが流れていた。
やがて、今度はケイルが問いかけた。
「レン、お前は自分の決断を後悔したことがあるか?」
レンは彼を見た。
「どういうこと?」
「人生を変えてしまうような決断だ。あのとき、別のことをしていればよかったと思うような瞬間はなかったか?」
その言葉を聞いた瞬間、レンの心の奥で何かが揺れた。
思考は、もう戻ることのできない世界へと向かっていった。
かつて暮らしていた世界。
道路。
小さな少女。
そして、自分の身を顧みることなく、彼女を助けると決めたあの瞬間。
その後に何が起きたのかも、彼は覚えていた。
自分の以前の人生は、そこで終わったのだ。
再び目を開けたとき、レンは見知らぬ世界にいた。自分でも見覚えのない体になって。
しばらくの間、レンは何も言わなかった。
ケイルは答えを急かさなかった。ただ静かに待っていた。
やがて、レンは口を開いた。
「僕のいた世界で……一度、小さな女の子を助けたことがあるんだ」
ケイルは注意深く彼を見つめた。
「その子は危険な状況にいた。助けに行けば、自分は助からないかもしれないって分かっていた。でも、あの子を一人きりで置いていくことなんてできなかった」
レンの声は、少しずつ小さくなっていった。
「僕は助けることを選んだ。そして……死んだんだ」
ケイルは口を挟まなかった。
「この世界で目を覚ましたとき、すべてが変わっていた。体も、周りの世界も……何もかも。もう、元の生活には戻れなかった。知っている人たちのところへ帰ることもできなかった」
レンは少し言葉を切った。
「あの瞬間を思い出すのがつらいこともある。あの出来事のあと、僕の以前の人生が終わってしまったのは事実だから。僕がいなくなったあと、あの世界で何が起きたのかも分からない」
その瞳には悲しみが浮かんでいた。
それでも、レンは話を続けた。
「でも、あの決断を後悔してはいないよ」
ケイルは彼を見つめた。
レンは顔を上げた。
「もし、あの瞬間に戻って、もう一度同じ選択をしなきゃいけないとしても……きっと、僕は同じことをすると思う。もう一度、あの子を助けようとするよ」
レンは小さな前足を、そっと握りしめた。
「命を失うことが簡単だったなんて言わない。僕だって、元の世界が恋しい。でも、少なくとも誰かの命を救うことはできたんだ。助けられるかもしれなかったのに、怖くて何もしなかった。そんなことが、自分の死の意味になってほしくないんだ」
避難小屋の中に、深い静寂が広がった。
ケイルはレンの言葉を真剣に受け止めていた。
「つまり、お前は決断の結果を悲しんでいる。だが、その決断自体を後悔しているわけではないんだな」
レンはゆっくりとうなずいた。
「うん。たぶん、そういうことなんだと思う」
ケイルは視線を落とした。その表情には、レンにはうまく理解できない何かが浮かんでいた。
「それを受け入れるのは、簡単なことじゃない。自分の決断がどれほど大きな代償をもたらしたのか分かっていながら、それでも自分の選択を否定しないというのはな」
「でも、もし僕があの子を助けようとしなかったら……」
レンは静かに答えた。
「助けられたかもしれないのに、何もしなかったって、きっとずっと考え続けていたと思う」
ケイルはゆっくりとうなずいた。
「そうかもしれないな」
少し間を置いてから、彼は再び口を開いた。
「俺にも、自分の決断がどこへつながるのかは分からない。国王に裏切り者だと思われるかもしれない。自分のしたことの代償を払うことになるかもしれない」
ケイルはレンをまっすぐに見つめた。
「だが、お前を兵士たちに引き渡さないと決めたとき、俺はそれが正しいと思った。そして今も、その決断を後悔してはいない」
レンは彼を見つめ続けた。
これまで、レンにとってケイルは、この見知らぬ世界を案内してくれる存在だった。
しかし今、彼はもう一つのことを理解し始めていた。
ケイルには、自分なりの信念がある。
そして、その信念を貫くためなら、自分の安全さえ危険にさらす覚悟があるのだ。
レンは静かに尋ねた。
「じゃあ……僕たちは二人とも、自分の決断と一緒に前へ進んでいくんだね?」
ケイルの顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「そういうことになりそうだな」
少ししてから、彼はレンを見て付け加えた。
「ただし、次からは自分の決断で森全体を敵に回すようなことは、できるだけ避けてくれ」
レンはすぐに彼の方を向いた。
「わざとやったわけじゃないよ!」
「分かっている」
ケイルの笑みが、ほんの少し深くなった。
「だからこそ、心配なんだ」
レンは怒ったような顔をしようとしたが、小さな体と疲れ切った様子のせいで、その表情を長く保つことはできなかった。
ほんの少しの間、二人の間に漂っていた緊張が和らいだ。
しかし、避難小屋の外にある危険が消えたわけではなかった。
国王の兵士たちは、今も二人を捜している。
王宮の役人は、なぜケイルが命令に従わなかったのかを説明しなければならないだろう。
そして、王都にいる国王はまだ何も知らなかった。
自分が命じた任務が果たされなかったことも、その任務を任せた調査者が、未知の存在を連れて逃げることを選んだことも。
レンは、避難小屋の外に広がる暗い森を見つめた。
この先、何が起きるのかは分からない。
自分の未知の力が、どこへ導いてくれるのかも分からない。
それでも、今の彼には一つだけ理解できたことがあった。
決断の結果は、いつも自分の思いどおりになるとは限らない。
時には痛みをもたらし、時には人生そのものを変えてしまうこともある。
だが、それが必ずしも、その決断自体が間違っていたことを意味するわけではない。
かつての世界で、レンは小さな少女を救うことを選んだ。
そして、この世界で、ケイルはレンを救うことを選んだ。
二人は今、それぞれの決断がもたらした結果と向き合っている。
それでも、どちらも自分の選択を後悔してはいなかった。
つづく……




