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第1巻 第10話 王命に背いて

静かな月の下の怪物


第1巻 第10話 王命に背いて


夕暮れが森を包み込む頃、子供たちの遊びも終わりを迎えていた。


「レン、明日も一緒に遊ぼうね!」


小さな少女が笑顔で手を振った。


レンは小さな前足を上げ、不器用に振り返した。


「キュッ!」


言葉にはならなかったが、少女には伝わったらしい。彼女は嬉しそうに笑い、ほかの子供たちと一緒に村へ戻っていった。


その姿を見送りながら、レンは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


この世界に生まれ変わってから、まだそれほど時間は経っていない。


それでも、ようやく自分の居場所を見つけ始めていた。


「ずいぶん子供たちに気に入られたようだな」


隣に立つケイルが、からかうように言った。


レンはすぐに顔を上げ、抗議するように鳴いた。


「キュッ、キュッ!」


「ははっ、そう怒るな。悪いことじゃないだろう?」


ケイルは楽しそうに笑った。


だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。


森の奥から、複数の足音が聞こえてきたのだ。


ケイルの表情が一瞬で変わった。


「……誰か来る」


次の瞬間、木々の間から数人の兵士が姿を現した。


彼らの鎧には王国の紋章が刻まれていた。その先頭には、青い結晶を組み込んだ小さな装置を手にした男が立っていた。


男はケイルを見つけると、わずかに目を細めた。


「ケイル。やはりここにいたか」


「……王都の人間か。何の用だ?」


ケイルは警戒を隠さずに尋ねた。


男は答える代わりに、手にした装置を起動させた。


青い結晶が淡く輝き、レンのほうへ向かって光を放つ。


その瞬間、装置から機械的な音声が響いた。


【未知のエコー反応を検出。】


【過去の記録との照合:不完全。】


【脅威評価:分類不能。】


男の目つきが鋭くなった。


「間違いない。森で観測された異常なエコー反応は、この未知の生物から発せられている」


レンは思わず一歩後ずさった。


(な、なんだよ……。俺、何もしてないぞ?)


男はレンを見据えた。


「王命により、その未知の生物を王都へ連行する。抵抗しなければ、危害は加えない」


「断る」


ケイルは即座に答えた。


男の眉がぴくりと動いた。


「……何だと?」


「そいつは自分が何者なのかさえ分かっていない。危険だという証拠もない。そんな相手を無理やり連れていかせるわけにはいかない」


ケイルはレンをかばうように、一歩前へ出た。


男の表情から、わずかな余裕が消えた。


「ケイル。お前は王の命令を受け、この森で発生した異常なエコー反応を調査していたはずだ」


「そうだ」


「ならば、なぜ王命に従わない? 調査対象を発見したのなら、こちらへ引き渡すのが当然だろう」


ケイルは答えなかった。


ただ、レンを守るように立ち続けていた。


男はその態度を見て、怒りと疑念を深めた。


「……まさか、お前はその生物をかばうつもりか?」


「そうだと言ったら?」


「ならば、お前も連行する。兵士たち、二人を確保しろ!」


「了解!」


兵士たちが一斉に動いた。


二人が左右からケイルに迫り、別の兵士がレンを捕らえようと手を伸ばす。


「レン、下がれ!」


ケイルの足元から、青白い光が走った。


次の瞬間、衝撃波が地面を駆け抜け、迫っていた二人の兵士を後方へ吹き飛ばした。


「ぐあっ!」


「何だ、この力は!?」


だが、残りの兵士たちはすぐさま体勢を立て直した。


「逃がすな!」


一人が剣を抜き、別の兵士が回り込もうとする。


その一瞬の隙を、ケイルは見逃さなかった。


「レン、つかまれ!」


ケイルはレンを素早く抱き上げると、兵士たちの包囲が完成する前に森の奥へと駆け出した。


「追え! ケイルと未知の生物を逃がすな!」


男の怒号が森に響き渡る。


兵士たちは即座に二人の後を追った。


「ケイル! お前は王国の兵士を攻撃し、国王の命令にも背いた! 今この瞬間から、お前は犯罪者として扱われる!」


男の怒りに満ちた声が、暗くなり始めた森に響いた。


「必ず捕らえてやる! 逃がすな!」


しかし、ケイルは振り返らなかった。


彼は木々の間を縫うように走り、追っ手との距離を広げていった。


レンはケイルの腕の中で、何度も後ろを振り返った。


村の灯りが、木々の隙間に小さく見えていた。


ついさっきまで、あの場所で子供たちと笑っていた。


明日も一緒に遊ぼうと、約束までしたのに。


そのとき、ケイルが走りながら口を開いた。


「おい、抱えられていることに文句を言うなよ。今のお前の足の速さじゃ、朝になっても村を出られていなかっただろうな」


「キュッ! キュキュッ!」


レンは不満そうに鳴き、短い前足をばたつかせた。


「ははっ、元気があるじゃないか。なら、その調子でしっかりつかまっていろ!」


ケイルは軽く笑ったが、走る速度は少しも緩めなかった。


その軽口のおかげで、ほんの一瞬だけ緊張が和らいだ。


しかし、レンが村のほうへ目を向けると、その表情は再び曇った。


(昨日、あの子たちと笑っていたばかりなのに……)


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


(それなのに今日は、まるで盗人みたいに逃げている……)


自分は何も悪いことをしていない。


ただ、この世界で生きようとしていただけだ。


ようやくできた友達と、明日も遊ぶ約束をしたばかりだった。


それなのに、何も言わずに村を離れなければならなかった。


レンは小さな前足をぎゅっと握りしめた。


そんな彼の様子に気づいたのか、ケイルは少しだけ声を落とした。


「……気にするな。お前は何も悪くない」


レンは顔を上げた。


「俺があいつらにお前を渡さなかったのは、お前が罪を犯したからじゃない。お前を守るためだ」


ケイルの声には、迷いがなかった。


「お前が何者なのかは、まだ分からない。だが、それを知るために無理やり連れ去られる必要はない」


レンは何も言えなかった。


ただ、ケイルの腕の中で、小さくうなずいた。


やがて村の灯りは木々の向こうへ消えていった。


レンがこの世界で初めて見つけた、小さな居場所。


その灯りが見えなくなったとき、レンはようやく、自分がそこを離れてしまったのだと実感した。


---


一方、その頃。


兵士たちの追跡を指揮していた男は、森の中で足を止めていた。


「……見失ったか」


部下の一人が悔しそうに報告する。


「申し訳ありません。ケイルの移動速度が予想以上で、暗闇の中では追跡が困難です」


男は苛立たしげに舌打ちした。


「捜索を続けろ。あの二人を見つけ次第、必ず報告しろ。勝手に判断して手を出すな。ケイルの実力を甘く見るなよ」


「はっ!」


兵士たちは再び森へ散っていった。


男はその場に残り、腰に下げた剣の柄に手を置いた。


怒りで指先に力がこもる。


ケイルは、王の命令を受けてこの森の異常なエコー反応を調査していた。


そのケイルが、調査対象を見つけた途端、王の命令に背いたのだ。


しかも、王国の兵士に攻撃を仕掛けてまで、あの未知の生物を逃がした。


「……なぜだ、ケイル?」


男は低くつぶやいた。


「王命に背いてまで、あの生物を守る理由がどこにある?」


ケイルは王国に仕える者として、任務の意味を十分に理解しているはずだった。


それなのに、今回だけは明らかに違う。


単なる同情か。


それとも、あの生物が持つエコーに何かを感じ取ったのか。


男は手にした装置へ視線を落とした。


青い結晶は、すでに輝きを失っていた。


【未知のエコー反応を検出。】


【過去の記録との照合:不完全。】


その表示が、頭の中で何度も繰り返される。


過去の記録との不完全な一致。


分類不能の脅威評価。


そして、王命に背いてまで未知の生物を守ろうとしたケイル。


「まさか……ケイルは、あの生物について何かを発見したのか?」


男の目が細くなった。


「そして、その情報を王宮に隠そうとしている……?」


考えれば考えるほど、疑念は深まっていった。


もちろん、まだ証拠はない。


だが、ケイルの行動には、ただの気まぐれでは説明できない何かがあった。


男は剣の柄を強く握りしめた。


「この件は、陛下に直接報告する必要がある」


怒りと疑念、そして未知のものに対する抑えきれない好奇心。


それらが、男の胸の中で渦巻いていた。


「ケイル……。お前が何を知っているのか、必ず突き止めてやる」


彼は暗い森の奥を見つめた。


しかし、そこには何も見えなかった。


「夜明けとともに王都へ戻る。陛下にすべてを報告しろ。それまで、捜索を続けるんだ!」


「はっ!」


男の命令を受け、兵士たちは再び動き始めた。


夜の森は、彼らの足音を静かに飲み込んでいった。


---


その頃、森のさらに奥では、ケイルがようやく足を止めていた。


レンを地面に下ろすと、周囲を警戒しながら息を整える。


「ここまで来れば、しばらくは大丈夫だろう」


レンは村があった方向を振り返った。


もう、灯りは見えなかった。


「……キュゥ……」


小さな鳴き声が、静かな森に溶けていく。


ケイルはレンの隣に腰を下ろした。


「今は休め。これからどうするかは、明日考えよう」


レンはしばらく黙っていた。


やがて、ケイルを見上げる。


(俺は……この先、どうなっちまうんだ?)


王都に連れていかれそうになった理由も、自分のエコーが何なのかも、まだ分からない。


なぜ「アークライト」という名前が、この世界の過去と結びついているのかも分からなかった。


何一つ、答えは出ていなかった。


それでも、ひとつだけ分かったことがある。


この世界で生きていくのなら、いつまでも誰かに守られているだけではいられない。


いつか、自分の足で立ち、自分の意思で選べるようにならなければならない。


レンは小さな前足を見つめた。


その奥で、かすかな青い光が一瞬だけ揺らめいた。


しかし、その意味を知る者はまだ誰もいなかった。


静かな月の下で、古い謎は少しずつ動き始めていた。


そしてレンの逃亡は、新たな運命の始まりとなる。


つづく……

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