無防備な羊たち
アウグスト公爵令嬢アメリアが王宮を去ってから、わずか三日。
バルセーヌ王国の王宮は、どこか奇妙な「重苦しさ」に支配され始めていた。
外界から見れば、何も変わらない華やかな王宮である。白亜の壁は陽光を反射して輝き、美しく整えられた庭園には薔薇が咲き乱れている。
しかし、そこで働く使用人や、廊下を行き交う近衛兵たちの間には、説明のつかない不調が急速に広がっていた。
「……なぁ、最近、妙に体が重く感じないか?」
「ああ。特に、日が落ちてからの見回りが異常に冷えるんだ。まるで、背中に氷を押し当てられているような……」
「気のせいかと思っていたが、お前もか。実は昨日、東館の使われていない客室の廊下を歩いていたら、誰もいないはずの部屋の中から、カサカサと何かが這いずるような音が聞こえたんだよ」
そんな不気味な噂話が、給仕室や衛兵の詰め所でひそやかに交わされていた。
彼らは知らない。
これまで王宮の床下、天井裏、壁の隙間に潜んでいた無数の「怪異」や「怨念の滓」を、アメリアが毎日、結界と呪符で消滅させていたことを。
彼女が去る際、王宮全域に施されていた『大祓の結界』はすべて初期化され、ただの紙屑と化していた。現在、この王宮は、悪霊や祟りにとって「鍵のかかっていない、肉の詰まった冷蔵庫」も同然の状態だったのだ。
その頃、かつてアメリアが「調香兼呪術室」として使用していた、地下の私室。
「うふふ……。やっぱり、お姉様のお部屋はとっても広くて素敵ですぅ」
マリアは、薄暗い部屋の真ん中で嬉しそうにクルクルと回っていた。
アメリアが去った後、この部屋は「聖女マリアの祈りの間」として、第二王子レイナルドの権限でそのままマリアへと明け渡されていた。
アメリアが使っていた、机や実験器具はすべて撤去され、代わりにマリアが好むピンクのフリルや、安っぽい金ピカの聖像が並べられている。
マリアが動くたびに、彼女の背後に潜む【千手泥】の無数の白い腕が、歓喜するようにうねうねと蠢いていた。マリアの精神を蝕み、周囲の人間の脳を狂わせる精神汚染ガス(あざといフェロモン)は、この地下室の澱んだ空気の中で、さらに濃度を増している。
「これでお姉様の『呪いの道具』も全部なくなりましたわ。明日からは、ここでレイナルド殿下と二人きりで、いーっぱい甘いお祈りをするんですぅ」
マリアは、アメリアが「呪術の触媒」として机の引き出しに眠らせていた、深紅の魔石が埋め込まれたアンティークのブローチを勝手に身につけていた。
彼女にとっては、ただの「お姉様が隠し持っていた高価な宝石」に見えたのだろう。
だが、それはアメリアがかつて、王宮の地下霊脈に溜まった「人の嫉妬と憎悪の呪い」を封印して閉じ込めておいた、極めて危険な【呪核】だった。
素人が触れれば、精神を汚染されるどころでは済まない。
マリアの胸元で、深紅の魔石が、トクン、と生き物の心臓のように不気味に脈打った。
一方、王宮の執務室。
「う、うう……。頭が、割れるように痛い……」
第二王子レイナルドは、豪華なマホガニーの机に突っ伏し、こめかみを激しく押さえていた。
アメリアが去ってからというもの、彼はまともな睡眠をとることができていなかった。
目を閉じると、暗闇の向こうから、無数の「冷たい指先」が自分の顔や首筋を撫で回してくるような感覚に襲われるのだ。冷や汗をかいて飛び起きると、当然、部屋には誰もいない。だが、シーツの上には、泥のような黒い粘液がじっとりと付着している。
「殿下、レイナルド殿下。大丈夫でございますか?」
側近の貴族が心配そうに声をかけるが、その声すら、今のレイナルドの耳には「キチキチ」という虫の羽音のように不快に響いた。
「黙れ! 僕は、少し疲れているだけだ……。すべては、あの冷血女アメリアが、僕にかけた呪いのせいに違いない!あいつは去り際に、僕に何か不吉な術を仕掛けたんだ!」
レイナルドの瞳は、過労と不眠、そしてマリアの【千手泥】が放つ毒気によって、どす黒く濁っていた。彼はすべての責任をアメリアに転嫁し、狂ったように机を叩く。
「そうだ……!あの女が、我が王家に無断で持ち出した『アウグスト公爵家の資産』、そして結界の術式を記した魔導書を返還させれば、僕のこの不調も治るはずだ!今すぐアウグスト領に使者を送り、アメリアの身柄と資産を王宮へ引き渡すよう、公爵に命令しろ!」
「は、はぁ……。しかし、アウグスト公爵家は建国の功臣。正当な理由もなく、令嬢の身柄を要求するのは、法的に無理がございます……」
「うるさい!王太子である僕の言葉は、この国の法だ!あの女は、我が国の『聖女』であるマリアを呪おうとした大罪人だぞ!国家反逆罪で処刑しても良いくらいだ!」
レイナルドの脳は、すでに正常な思考能力を失いつつあった。
彼がどれだけ喚き散らそうとも、彼を守る防壁はもうどこにもない。
その日の深夜。
王宮の廊下は、いつも以上に静まり返っていた。
巡回を行っていた近衛兵の青年、トーマスは、ランタンの灯りを頼りに、薄暗い西館の廊下を歩いていた。
「……寒いな、本当に」
トーマスは自分の腕をさすった。
五月という、本来なら穏やかで温かい季節であるにもかかわらず、廊下の空気はまるで真冬の墓地のように凍てついている。白い息が、ランタンの熱でうっすらと揺れた。
コト……。
突然、廊下の角の向こうから、小さな音が響いた。
「誰だ!」
トーマスは瞬時に腰の剣の柄に手をかけ、ランタンを前方にかざした。
「夜間の無断立ち入りは禁じられている!姿を見せろ!」
しかし、返事はない。
ただ、暗闇の奥から、ズズ……、ズズ……という、何か重く湿った布を引きずるような不気味な音が、ゆっくりと近づいてくる。
ランタンの光が、廊下の床を照らし出した。
そこには、べっとりと濡れた「泥の足跡」が、点々とこちらに向かって伸びていた。
足跡は、人間のものにしては、あまりにも「細長く」、そして指が何本もあるように見えた。
ゾワッ、とトーマスの全身に鳥肌が立つ。
彼が本能的な恐怖に駆られ、後ずさりしようとした、その瞬間。
――ピチャ。
冷たい液体が、天井からトーマスの「首筋」に落ちてきた。
「え……?」
ゆっくりと、錆びた歯車が回るような恐ろしさで、トーマスは天井を見上げた。
そこには。
天井の隅の、ほんのわずかな「影の隙間」から、ぐにゃりと首を真横に折った、**【顔のない女の怪異】**がぶら下がっていた。
女の着ている服は、かつて王宮で不審死したと言われる、数十年前のメイドの制服だった。
女の「顔」があるべき場所には、ぽっかりと裂けた大きな口だけがあり、そこから黒い泥のような唾液が、糸を引いてトーマスの顔へと滴り落ちていた。
「あ、あ、あ……」
喉が張り付き、声が出ない。
トーマスが悲鳴を上げるよりも早く、天井の女から、細長く干からびた「無数の白い腕」が、蜘蛛の脚のようにもの凄い速度で伸びてきた。
「キチキチキチキチキチキチッ!!!」
耳を突き刺すような、不快な羽音が大気を震わせる。
トーマスは剣を抜くことすらできず、その無数の腕に首をがっしりと掴まれ、天井の「暗闇の隙間」へと、音もなく引きずり込まれていった。
床に落ちたランタンが、ガシャリと割れて火が消える。
後に残されたのは、じっとりと濡れた黒い泥の足跡と、誰もいない、どこまでも深い無音の闇だけだった。
翌朝。
近衛兵トーマスが、夜勤の交代時間になっても現れず、行方不明になったという報告がなされた。
しかし、王宮の憲兵隊は「ただの無断欠勤か、女の家にでも転がり込んだのだろう」と、まともに調査をしようとはしなかった。
王宮の地下霊脈から、静かに、しかし確実に溢れ出し始めた「怪異」の群れ。
結界という名の「檻」を失った無防備な羊たちは、自らがどれほど絶望的な状況に置かれているかも知らず、ただ迫り来る常闇の足音に、怯えることしかできなくなっていく。
(第3話へ続く)




