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悪役令嬢は知っている

その光景は、誰の目から見ても「幸福な悲劇」であった。

 バルセーヌ王国の王宮大舞踏会。

 天井に並ぶ巨大なクリスタルシャンデリアは、まるで星屑を散りばめたかのような輝きを放ち、会場を満たすオーケストラの旋律は、優雅極まりない夜を彩っていた。

 その華やかな宴の中心で、一人の令嬢が冷酷な「宣告」を突きつけられていた。

「アメリア・フォン・アウグスト! 貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」

 大広間に響き渡ったのは、バルセーヌ王国の第二王子、レイナルドの声だった。

 燃えるような赤髪をこれみよがしに整え、金糸の刺繍が施された豪華な正装に身を包んだ青年は、勝ち誇ったような、そしてどこか陶酔したような笑みを浮かべていた。

 レイナルドに断罪されているのは、アメリア。

 漆黒の髪を完璧な夜会巻きに結い上げ、月の光を織り込んだような深い闇色のドレスをまとった公爵令嬢である。彼女は、婚約者の心ない暴言に対しても、ピクリとも眉を動かさなかった。その紫の瞳は、静水のように冷たく、どこまでも超然としていた。

「……婚約破棄、ですか。レイナルド殿下」

「そうだ! お前のような冷酷で、不気味な暗い女は、我が国の王妃にふさわしくない! お前のアウグスト公爵家が、代々『国の裏仕事』と称して不気味なオカルトや呪術に傾倒していることは知っている。お前も毎日、薄暗い部屋で呪いの藁人形でも弄っているのだろう? そんな『毒婦』の血を引く女など、僕の隣に置けるか!」

 レイナルドは肩をすくめ、あからさまな嫌悪感を口にした。

 周囲の貴族たちからも、ヒソヒソとささやき声が漏れる。

「やはり、呪術公爵家の娘は不気味ね……」

「第二王子殿下が、あんな『呪われた血筋』から解放されて良かったわ」

 アウグスト公爵家は、建国以来、国の表沙汰にできない「闇」を処理してきた一族だった。

 だが、平和な時代が長く続いた今、王族や貴族たちはその恩義をすっかり忘れ、彼らを「薄気味悪いオカルト狂い」と蔑むようになっていた。アメリアが王宮のあちこちに、人知れず「魔除けの結界」を張り巡らせ、這い寄る怪異をすべて裏で屠ってきたことなど、誰も知りもしない。

「それに比べて、マリアは実に可憐で、光に満ちた聖女だ。僕が愛するにふさわしいのは、この優しく温かい女性だけだ!」

 レイナルドが熱っぽくそう言って引き寄せたのは、ふわふわとしたピンクの髪を巻いた少女――マリアだった。

 彼女は、フリルだらけの純白のドレスを着込み、レイナルドの胸に頼りなげにしがみついていた。

「お、お姉様……ごめんなさいねぇ? でも、私、レイナルド殿下と愛し合ってしまったんですぅ……。お姉様が、毎日不気味なお札を王宮の壁に貼って、私を呪おうとしていたのも知っています。私、怖くて……夜も眠れなかったんですぅ……」

 マリアはうるんだ瞳でアメリアを見上げ、いかにも「怯える被害者」を熱演してみせた。

 大広間の貴族たちは「なんて健気な聖女様だ」「悪役令嬢め、実の妹(庶子)にそんな嫌がらせを!」と、一斉にアメリアへ冷ややかな視線を注いだ。

 ――だが。

 アメリアが冷徹な紫の瞳で見つめていたのは、レイナルドでも、マリアの顔でもなかった。

(……あら。本当に、視えていないのね)

 アメリアの視線は、マリアの「背後」に注がれていた。

 そこには、マリアのふわふわしたピンクの髪から、直接生えているかのように繋がった――**【悍ましい『ナニカ』】**がいた。

 人間の胴体に、無数の、細長くねじ切れた「白い腕」が何十本も生えている。

 その顔があるべき場所には、ぽっかりと黒い泥のような大穴が開き、そこから粘着質の黒い液体が、マリアの美しいドレスの肩口にポタポタと滴り落ちていた。

 その異形は、マリアの細い首に、細長く干からびた指先を蜘蛛のように絡みつかせ、耳元でギリギリと歯を鳴らしながら、アメリアに向かって「おねだり」をするように手を伸ばしていた。

 それは、人間の精神を狂わせ、生気を吸い尽くして最終的に肉体を破裂させる、最上級の怪異【千手泥せんじゅどろ】だった。

(あのマリアとかいう泥棒猫、私からレイナルド殿下を奪うために、あんな不気味な呪物を神殿の地下から持ち出して、自らに『憑依』させたのね。道理で、妙にあざといフェロモンが出ているわけだわ。本人は『便利な聖女の魔力』と勘違いしているのでしょうけれど……)

 マリアが放つ「聖なる光」の正体は、この怪異が放つ、人間の理性を狂わせる「精神汚染物質ガス」に過ぎない。

 レイナルドの瞳が、どこか濁って焦点が合っていないのも、その毒気に脳を完全にやられているからだ。

 普通なら、呪術の専門家として、アメリアがここでマリアを拘束し、除霊を行うべき場面だった。

 だが、アメリアの胸中に去来したのは、怒りではなく、底知れない「呆れ」と「解放感」だった。

(もう、どうでもいいわ)

 毎日、王宮のよどんだ霊脈を整え、誰も気づかない暗闇で、這い寄るおぞましい怪異を呪札で引き裂き、この無能な王子が怪死しないように裏で結界を張り続けていた。

 それだけの激務をこなしても、得られるのは「可愛げがない」「不気味な毒婦」という罵倒だけ。

「……分かりました。レイナルド殿下」

 アメリアは、すっと静かに一礼した。

「な……?」

 レイナルドが、拍子抜けしたように目を見開く。

「婚約破棄、しかと承りました。これより私は、アウグスト公爵家の者を引き連れ、アウグスト領へと帰還いたします。……もう二度と、私がこの王宮の敷居をまたぐことはございません」

「ふ、ふん! 物分かりが良いのは結構なことだ! お前のような薄暗いお荷物がいなくなれば、この王宮はマリアの『光』で満たされる。さっさと立ち去るがいい、不気味な悪役令嬢め!」

「ええ。皆様、どうぞお幸せに」

 アメリアは、上品な微笑みさえ浮かべて、踵を返した。

 その瞬間、アメリアの影が不自然に大きく揺れ、王宮のいたるところに貼られていた、目に見えない「防魔・除霊の呪符」が、一斉にハラハラと灰になって崩れ落ちていった。

 王宮を、魔と呪いから守っていた「絶対的な障壁」が、完全に消滅したのだ。

 マリアの背後に張り付いていた【千手泥】が、アメリアの気配が遠ざかるのを感じて、嬉しそうに黒い大口をさらに大きく裂いた。

 そして、その無数の腕の一本が、レイナルドの首筋に、そっと、冷たく這い寄った。

「ひゃ……っ!?」

 レイナルドが、突然自分の首を引っ掻くようにして短く悲鳴を上げた。

「ど、殿下ぁ? どうされましたぁ?」

「いや……何でもない。急に、首のあたりが、氷のように冷たくなった気がして……」

 レイナルドは、自分の首筋から「じっとりとした黒い粘液」が染み出していることにも気づかず、青ざめた顔で強がってみせた。

 マリアは「気のせいですわぁ」と微笑むが、彼女の顔の皮膚が、ほんの一瞬だけ、泥のようにドロリと歪んだのを、誰も気づくことはなかった。

「はぁ……。本当に、すっきりしたわ」

 王宮を出て、公爵家の頑丈な馬車に揺られながら、アメリアは深く溜め息をついた。

 馬車のシートに深く体を沈め、漆黒の髪を結んでいたピンを外す。サラリと流れる黒髪が、彼女の美しい横顔を優しく縁取った。

「お疲れ様でございました、アメリアお嬢様」

 御者台から、公爵家の忠実な老執事、ベネットが声をかけてくる。

「ええ、ベネット。これでようやく、私の『無償の労働』も終わりよ。あんな無能な王子と、頭に怪異を飼っている泥棒猫のために、毎日何十体もの悪霊を退治してあげる義理なんて、最初からなかったのよ」

「おっしゃる通りでございます。すでに王宮、ならびに王都に設置していたアウグスト公爵家製の『厄除けの呪具』は、すべて遠隔で初期化、撤去いたしました。……早ければ、今夜あたりから、王宮のあちこちで『不気味な音』や『隙間に這い寄る影』が見られ始めるでしょうな」

「ふふ、楽しみですこと。あんな平民の、除霊の『じ』の字も知らないマリア様が、どうやってあの千手泥や、王宮の地下に眠る『大霊』を鎮めるのか、見ものだわ」

 アメリアは、悪戯っぽく、しかし極めて冷徹な笑みを浮かべた。

 アウグスト公爵家が去るということは、王国のすべての「霊的防衛システム」が消失することを意味する。

 これまでアメリアが、呪札と結界で力ずくで押さえ込んでいた、数百年にわたる王国の「怨念」や「祟り」が、一気に、容赦なく、王宮の人間たちへと襲いかかるのだ。

「さて……まずは実家に戻って、お父様と領地の整理をしましょうか。その後は、隣国への『転職活動』ね」

 アメリアは、窓の外の夜空を見上げた。

 バルセーヌ王国のすぐ隣には、大陸最強を誇る超大国「バルドル帝国」が存在する。

 その帝国の若き皇帝は、他国から「死神」と恐れられ、強力な霊媒体質のせいで極度の不眠症に悩まされているという噂だった。

(死神皇帝、ジュリアス陛下……。もし、私の『呪術の力』が、そのお方の安眠をお助けできるのなら……)

 アメリアの紫の瞳に、新たな目的の火が灯る。

 自分を「不気味だ」と蔑んだバカ王子たちとは違い、本物の「闇」を知る帝国の皇帝であれば、自分の価値を真っ当に評価してくれるはずだ。

 馬車は、静かに闇夜を駆け抜けていく。

 その背後、バルセーヌ王国の王宮の窓からは、誰のものともつかない、悍ましい「くすくす」という笑い声が、夜風に乗って小さく響いていた。

(第2話へ続く)

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