49.花火と葉書
音もなく池の隅々に咲く花火を、槇は目に焼き付けるように見つめた。
和臣もそうなのだろう。
ただ黙っている。
槇は、そっと手を伸ばした。
和臣の手を取る。
まるでわかっていたように、握り返された。
冷たい手だった。
「和臣先生」
隣を見る。
和臣は穏やかに微笑みながら、手を繋いでいない手の指先で、槇の頬にそっと触れた。
「楽しかったです。ありがとうございました」
「……私も。ありがとう。楽しかった」
「じゃあ、僕は行きますね」
「気をつけて」
何気なくそう言うと、和臣は嬉しそうに笑った。
その顔を、花火の光が柔らかに照らす。
「好きだよ、ずっと」
たまらなくなって言えば、やはり何も言わない彼は、しかし仕方なさそうに笑って、ゆっくりと顔を近づけ──額にキスを落とした。
その瞬間に、ふっと消えていく。
槇の手には何もない。
花火だけが延々と続く池の前で、槇は和臣がいた場所をじっと見つめていた。
その肩に、上から降ってきた黒い長羽織が慰めるようにそっと掛かる。
長い黒髪が、ゆっくりと顔に影を作った。
◯
「聞いて聞いて、さっきさあ、あいつ見たんだけど、信じらんねえことになってたわ」
槇は箒をサッと動かしながら、狐の足元を掃いた。
「いたっ」
「痛くないでしょう、宇良。ていうか何しに来てんのよ」
「えー、邪神に愚痴を言いに?」
「あやかしの対応はいたしかねます」
「ひどっ。ひどいじゃあん。長い付き合いだろー」
相変わらず若者の格好をしたがる化け狐の宇良を横目で見ながら、境内の掃除を続行する。
「で、誰を見たって?」
「狸」
「狸……今の頭領は佐渡だったっけ?」
「そうそう。狸の佐渡ね。そいつがさあ」
「うん」
「ホストクラブ経営してたわ……」
「なんで?」
槇がそう言う足元に、とてとてとて、と子鬼が走ってくる。
行き場のなくなった彼らを、最近は世越間神社の山の一部に彼ら用の空間を作って住まわせているのだ。時折、こうしてそこから出てきて、山全体の手入れをしてくれる。
「こんにちは、まきさまー」
「はい、こんにちは」
「東の崖の下をおそうじしてきます。どちらかの神様はいらっしゃいますか?」
「いや、さっき帰ったばかりだから、大丈夫。今日はもう誰も来ないと思うよ」
「では、なかまも出てきてもよろしいですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
槇が優しく言うと、乙木の後を継ぐ予定らしい子鬼代表の結由木がぺこりと頭を下げた。
「乙木の様子はどう?」
「お眠りになる時間がおおくなりましたが、おげんきです!」
「そう。よろしく伝えて」
「はい! では、ぼくはこれでしつれいします」
「気をつけてね」
天使のような見た目の子鬼が、ぱたぱたと掛けていき、突然ふっと消えた。
蓮一郎が作った空間へ戻ったのだろう。
「意外と子供に優しいじゃん」
「助かってるんだよ。もうここに人はあまり来ないしね」
「ふーん。さすが人間だな。槇が邪神になってから、安泰だ安泰だって、山の手入れもしなくなるとは」
「というか、私がいるから来れないんでしょ」
「ああ。神気やばいもんな」
けらけらと笑う狐は、ふわりと空に浮いた。くるんくるんと遊ぶように回る。
「あんたね……それでもここに来れてるってどういうことよ」
「無駄に付き合いが長くて慣れてるだけだし」
「さみしいんでしょ」
「別にー。どっかの天狗が女に懸想したって聞いときには驚いたけど、別にー」
「まだ言ってんの?」
槇は浮いた宇良を箒でつつく。
「あんまり来すぎちゃだめだよ。ただでさえ、あんたは乙木に次ぐ年長者になっちゃったんだから。神気でパワーアップとかやめてよね」
「へいへい、退散しますよーっと」
「じゃあね」
「またなー」
狐が空を掛けていく。
彼はとうとう最近あやかし連盟の理事長の座に無理やり就かされたという。
長年この世界で無事に生きてきたというだけだと本人は言うが、長年かけて乙木にしばかれたお陰で、随分とまともになっていた。
たまに人間の女の子と遊んでいるようだが、相手はよく吟味しているとのことだ。
結局あやかしも、ひとりではいられないのだろう。
「──狐は帰ったか」
家に戻ると、縁側に蓮一郎が寝転がっていた。
スーツ姿で「週間 井戸端会議」というどこが刊行しているのか全くわからない雑誌を手にしている。
障子には、池の水影がゆらゆらと映っていた。蓮一郎の足の影も一緒に揺れる。
「来てたんだ」
槇が和室に入っめ自分の座布団に座ると、蓮一郎はページを捲った。
「狐もマメだな」
「あちこちのあやかしの中で代替わりが起きる時期だしね、私の周りを警戒してくれてるんでしょ」
「おまえを喰らえる奴などおらぬがな」
「まあね。ただ、時間が経てば経つほど、畏怖って薄れるものだから」
「というかおまえの場合は、その格好だからじゃないのか」
蓮一郎が穏やかに苦笑する。
長い黒羽織の中は、セーラー制服だ。
「俺が着替えを持っていってやったのに」
「あんなじゃらじゃらした神様みたいな着物着れないよ」
「おまえ一応邪神だぞ」
「確かにね」
邪神になってすぐ、蓮一郎は「あれは飛鳥と俺で考えたネタだ。卒業式だ」とか言いながら槇に美しい装束を用意してくれたが、それは丁重に突き返させてもらった。どこか哀れんだ蓮一郎の視線を無視し、この制服のまま、もうずいぶん長い時を過ごしている。
「いいの。このままで」
「……そうか」
「うん」
槇はちゃぶ台の上においてある箱の蓋を開ける。
中には、葉書が入っていた。誰かさんの文字が控えめに書かれているそれを、大切そうに取り出した。
──槇さんへ。
これを見るのは、僕はもう役目を終えた頃でしょう。
あなたから強奪した〝邪神〟でしたが、僕もまた救われた気持ちで過ごしていました。
沢山の方々との出会いは、かけがえのないものです。
皆様に御礼の葉書を書いてあります。いらっしゃったときに渡していただけますか?
あなたには、僕がここにいることになった理由は言いませんでしたが、今頃は蓮一郎様から聞いているでしょう。
それ、嘘なので信じないでくださいね。
あなたと過ごした日々は、とても満たされたものでした。
邪神となったあなたが、さみしくないかだけが心配です。僕は──
「──僕はきっと、あなたがいなくてさみしいでしょう。さみしすぎて、いつかまたどんな形になろうともあなたに会いに行くような気がします──だって、あなたのことを、愛しているから……和臣より」
「そんな事書いていませんよねえ?!」
障子の向こうからバッと出てきた和臣の顔は、真っ赤だ。




