41.本当に甘い
和臣と楽しく喋り尽くしたみなもは、満足したように帰っていった。
愚痴ではなかったせいか、和臣が毛むくじゃらになる気配はない。
「──槇さん」
呼ばれ、縁側へ向かう。
和臣は空を指さしていた。
水色の光と黄緑色の光がくるくると旋回している。
「ふうか?」
「ええ。槇さんに挨拶をしているのでは?」
和臣が手を振るので、槇もそろって振ってみる。
すると、光は一層強く輝き、消えた。
「ほら、ね?」
「律儀だなあ……。先生、大丈夫そう?」
念のため確認すると、和臣は柔らかな笑みで頷いた。
「はい。そういう槇さんはどうですか? お腹すいたりしてません?」
「してないね。前からだけど、ここに来ると人間スイッチオフになるのかもね」
「ほう……そういうものなんですか」
「眠くはなるんだけど」
槇はあくびを噛み殺す。
きっと、もう丸一日は経っている頃だろう。下手したら二日は経過しているかもしれない。三日かもしれないし──一ヶ月くらい経っているかもしれない。
「眠いですか?」
「……ん」
「休んでください。良ければ羽織を──」
「ありがとう。お邪魔します」
槇はそう言いながら、和臣の膝に頭を乗せた。
「!」
「先生、正座崩して。高くて寝にくい」
「わ、わがままですね?!」
そんな事を言っているが、槇が頭を上げるとあぐらに変えてくれるのだから、なんというか本当に甘い。
「ありがと」
「少しだけですからね」
「うん。後で先生にもしてあげるね」
「え」
和臣の間抜けな「え」を聞きながら、槇は睡魔に身を委ねた。
顔を両手で覆う和臣のことなど気づかずに。
「それにしてもよく寝ているな」
「静かにお願いします、蓮さん」
「おお。怖い顔をするんじゃない」
「していません」
「和臣、おまえ、開き直ったのか?」
「……僕ではなく、彼女が」
「槇が?」
「ええ。僕のために、僕の望む〝思い出作り〟を始めてくれましたから……多分、適当に書いたんだと思うんですけどね?」
「だろうなあ」
ふふ、と二人の男が笑う声を、槇は夢現の中で聞く。
なんと穏やかな声なのだろう。
「槇の様子は」
「さすがというか……全く持って普通です。こういうものなんですか?」
「いや。普通は、交代もしていないのにここにいるのは無理だろうな。さすが満票の娘だ」
「ま……? なんですかそれ」
「オーディション結果だそうだ」
「へえ……」
一瞬の沈黙。
男の会話って、変だなあ、と槇は思う。
「それで、おまえはその〝思い出づくり〟に協力するんだな」
「はい。あとどれくらいの時間があると思いますか?」
「ふむ。全然余裕だぞ、おまえは」
「だといいんですけど……せめてちゃんと彼女の望みを叶えてからにしたいものですが、保たないときは──」
「万が一のときは俺が介入する。安心しろ」
「心強いです。僕は消えてもいいので、お願いしますね」
槇の眠りに沈んだ感情が、少しだけ波立つ。
そのまま涙にならないように、上からそっと撫で続けた。
「槇の気持ちに応えてはやらぬのか」
「……なんのことでしょう」
「知っておるぞ。おまえのような男を、ズルい男というのだ。そういう歌もあるんだぞ」
「それ女の方です」
槇の涙になりそうだった感情が、ひゅんっと引っ込む。
「男じゃなかったか?」
「違いますよ。反対です。女です」
「いやいや〝さよなら、サンキュ〜〟って」
神様が歌い出す。
何故か和臣も歌い出す。
「それも反対です。英語と日本語のところ、逆です。こうですよ──」
「──おお! しっくりくるな!」
「でしょう」
なぜ自慢げなのかわからない。
槇はほぼ夢の中で、涙になりそうだった感情の波がすーっと引いていくのを感じた。
一人で浸りそうになっていたことが馬鹿馬鹿しくなって、身体を投げ出すように思考を泳がせる。
「お前の想いも言ってやったら、これは相当喜ぶと思うぞ?」
「……そうですかね?」
「またあれか、遊んでるというのか」
「はい」
和臣がクスクスと笑う声が心地良い。
「言いたいことがあっても、知ってることがあっても、知らぬ存ぜぬふりで、お互いに遊ぶんです」
「面白いことをするな、おまえたちは」
「彼女だからですよ」
和臣の手が、そっと槇の頭を撫でる。
意識はもう、深い眠りにつこうとしていた。
「どうしてなんだ?」
「……さあ、どうしてなんでしょう。ただ、初めて彼女の心を見たときに──そういう話ができたときに……ああ、僕はこの人のすべてを許したいし、この人にすべてを許してもらえるんだな、って思ったんです。だから、彼女と話すのが楽しくて」
「……」
「恋だとは、思っていませんでしたけど」
「愛だろうな。それは」
「蓮さんが、そう言ってくれるのなら、そうなんでしょうね」
「……寂しくはないか」
「はい。たとえ僕が消えても、この時間は今ここにちゃんと存在していますから」
「そうか」
「一つだけ、お願いできることがあるのなら」
「……なんだ」
「彼女がいつも笑っていられるように蓮一郎様が見守ってくれる、と僕と約束してくださいませんか?」
「おまえ。どこがお願いだ。その顔はほぼ脅迫だぞ」
「お願いします」
「当たり前だろうが。心配無用。それが俺の務めだ」
「ありがとうございます」
「ふむ……接吻の一つくらいしてから別れたらどうだ?」
「!」
「? きすのことだ。知らないのか?」
「しししし、知ってますよ!」
何言ってるんですかあ! と声を張り上げる和臣の声は、しっかり眠っていた槇を引っ張り上げた。
「やめてください!! 絶対彼女に言わないでくださいね?!」
「ほほう。では忘れぬように〝思い出リスト〟とやらに俺が書いておいてやろう」
「だめですーーー!!」
「──うるっさいんだけど」
槇が低く言えば、和臣が「ひいっ!」と奇妙な声を出した。
「起きてたんですか?!」
「先生の絶叫で起きた……」
「なにか聞きました?!」
「覚えてない」
槇は頭を振るが、和室に入って筆を持ってこちらを見る蓮一郎の顔は──にやついている。
和臣だけが「よかった……!」と乙女のように胸を撫で下ろしていた。




