31.多分間違っていない
「──と、いうことです」
転任後のことを思い出した、と語り始めた和臣の話を聞いた槇は、寝転んでいた畳からがばりと起き上がった。
「いや、どういうこと?!」
和臣は何故か満足したように寝転がったまま腹の上で手を組んで微笑んでいる。
「ふふ……なんだか、すっきりしました……」
「ごめん、全然笑えない」
「いいんです。僕が馬鹿だったって話ですから」
「本当に結婚詐欺だったの?」
槇が聞くと、和臣は天に召されるような穏やかな顔で「はい」と清々しく答えた。
腹が立ったので頭をバシリと叩かせてもらう。
「あたっ。何するんですかぁ」
「イラッとした」
「でしょうね……ふがっ」
今度は鼻を摘んでやると、ようやく悟ったような顔をやめた和臣がばちりと目を開けた。
槇の顔を見て、ふにゃりと笑う。鼻を、つままれたままだが。
「笑って言うことじゃないでしょ」
「わらっていうことなんでふ」
鼻から手を離すと、和臣はもう一度言った。
「笑って言うことなんです」
「全財産むしり取られたのに?」
「マンション一括で買っただけですよ〜」
「実際には買ってなかったんでしょ。不動産屋との共謀で」
「へへ。はい」
なぜ照れるのかわからない。
和臣は寝転んだまま天井を見ている。
「彼女と付き合って三ヶ月で決めた僕が馬鹿なんです」
「うん。それは馬鹿だね」
槇は大きく頷いた。
転任先の学校に務めたあとに退職を決意したのは、結婚詐欺師に財産巻き上げられてすべてを失ったからだそうだ。
働き続ければ生きていけるが、もう全てどうでも良くなり、元々なかった熱意も枯れ果て、身辺整理をして旅に出ようと思った、と和臣は言う。
転任先で彼女ができてたった三ヶ月。濁流に飲み込まれたようだった、と。
「その彼女が結婚するなら家が欲しいと言い出して、先生は馬鹿みたいに〝そうですね〜〟って契約して、彼女が突然余命一ヶ月になったと」
「はい。病に冒される自分を見てほしくない、というので、病院の窓の下からそっと窓に赤べこが置かれているか毎日見に行くだけでした」
「……」
「それが彼女の」
「待って。なんで赤ベ?べこ」
槇の頭に、赤い牛がうおんうおんと首を振る。病院の窓から。
そしてその下で、和臣が目にうっすら涙を浮かべて赤べこを強く見つめる映像まで浮かんできた。
槇の問いに、和臣が懐かしむように目を閉じる。
「まだ生きてるっていう証だと……」
「シュールな合図だね」
「そして一ヶ月後……赤べこは窓辺から姿を消していました。僕は病院に駆け込んで、ナースステーションへ行くと、〝窓辺の赤べこはどうなりましたか〟と聞いたんです」
「さぞ困っただろうね」
「彼女たちに、落ち着いてください、と言われた僕が涙しているとき──やって来た先生が」
「とりあえず聞くわ」
「〝赤べこの方のお知り合いですか……?〟と」
「ノリが良い」
泣く童顔の男が「赤べこがあ」と言い、白衣の医師が「ああ……あの赤べこの」と通じ合うナースステーション前。きっと看護師たちの視線は冷たかったことだろう。
「そして担当医師から彼女の名前が──お亡くなりになりました、と」
気まずそうな看護師たち。ぽん、と和臣の手に方を置く医師。
槇の脳裏には見てきたかのような映像が流れていた。
けど、多分間違っていない。
「付き合って四ヶ月のできごとでした」
「実質三ヶ月ね」
「僕は失意の中、あのマンションを売ってしまおうと思ったんです。そしたら〝あんた買ってないよ〟的な雑なあしらいをされ……呆然としていると、派手なギャルの姿をした彼女が不動産屋の若手営業マンと腕を組んで歩いているじゃあありませんか」
「飛び蹴りしてやればよかったのに」
「僕はもう悟りました。彼女は、適当なことを言っていたのでしょう。窓の赤べこはどこの誰かわからない人だった──と。それからすべて身辺整理したんです。殆ど残ってなかったんですけどね」
自嘲気味に笑う和臣は、目をカッと開く。
「思いました──そうだ、旅に出よう! 治安の悪いクラスも、その保護者も、適当なことしか言わないくせに圧を出してくる同僚も、そんなもの僕には関係ない!」
「おお……開き直ったね……」
「はい。それでふらふらして、この世越間神社へ」
「ふうん?」
今にも死にそうに開き直った男が来たのでれば、七緒であれば迎え入れただろう。
もしかすると、どこにも行き場のない和臣に、七緒は暫定的に「ここで暮らしてみる?」とでも言ったのかもしれない。
彼女ならありえるし、だとすれば蓮一郎が黙っているのも頷ける。
槇は内心ほっとした。
七緒が和臣をここに引き止めてくれたことに──そして、
「覚えてるのはそのあたりくらい?」
「そうです……あとは」
「よかったあ」
槇は和臣の「あとは」を聞かずに盛大なため息を吐いた。
「よ、良かった、とは?」
何故か焦ったように和臣が聞く。
槇は「女子高生のコスプレしてるのに気づいてなくて安心したんだよ」などと言えなかった。
「ううん。別に」
「な、ななななんですかっ」
「いや、先生が思い出したら、大丈夫かなあってちょっと思っててさ」
嘘ではない。
聞かなかったのも、制服を着たままズルズル来たのも、怖かったのだ。変な記憶を引っ張って悲しい思いをさせるのではないか、と。
「心配させましたね」
和臣が優しい声色で呟く。
「心配したよ。そりゃあね」
ついでに、槇は言ってみることにした。
「和臣先生」
「はい」
「私、実は」
「?」
「そ……卒業するんだよね……」
「……」
「……」
「あ、はいはいはいはい。そうですね、はい。もうそんな時期ですかあ!」
和臣がしどろもどろ答えている間にも、槇は「とうとう言ったぞ」と心臓をバクバクさせているので、気付かない。和臣も心臓を抑えていることに。
「あ、あれですね。来月? くらいですか?!」
「え」
「えっ」
二人して顔を見合わせる。二人して、心臓を抑えたまま。
槇はややあってから「助かった」と言わんばかりに手を離した。
「そう。あともう二週間くらい」
「……縮めました?」
「休日抜いただけ」
嘘だ。抜いた。
これで制服コスプレから解放されると思うと、すぐにでも卒業してやりたかったからだ。
和臣は真剣な目で「わかりました」と言う。
「二週間ですね。僕には時間の感覚がわからないので、それがどれくらい長いのか想像もつきませんが。二週間ですね」
「そうだね。二週間くらいだね」
二人は何度も確認するように「二週間」を繰り返し、頷きあったのだった。




