29.凪いだ水面の上で、花が咲くように
今すぐ交代するか──結婚を受け入れるか。
これをまどかが言ったというのなら、きっとその決断が必要なときなのだろう。
つまり、槇にとって最善の縁なのだ。
もしかすると、この先にこれ以上の縁には結べないという判断なのかもしれない。
確実に子に恵まれ、次の自邪神候補が生まれる。そういう縁。
「待ってください」
和臣の静かな声が場を打つ。
たつみの腕から逃れた和臣は、たつみをじっと見た。
「彼女に決断を迫らないでください」
「……必要だ」
「それは彼女が一番よくわかっています。自分で決められる。待てませんか」
尋ねているが、それはどう見ても「黙って待ってろ」と言っている。
先程まで子供のように騒いでいたのが嘘のように、たつみと対等だ。
「僕に言われずとも、あなた方は彼女の事をわかっていると思うのですが?」
「和臣」
「僕はまだ保ちます。蓮一郎様もご存知です」
「……」
「信じてください」
誰を。
それを言わない和臣に、たつみは笑った。
「それを言われてはどうにもできんな。蓮一郎様を信じていないとも取られかねない」
「……すみません」
和臣が悲しげに微笑む。
たつみは頭を掻くと、槇を見た。
「急に邪魔をして悪かった。俺達のような存在は、自然消滅もあり得るものだから、ついな」
「ごめん。時間はかけないから。まどかには心配かけるけど、その時は蓮の名前を出して。わかってくれると思う」
「……ああ。お前に縁が舞い込んだことは他には黙っておく」
「そうしてくれると助かる。みんな気にするから」
槇が苦笑すると、たつみも同じように笑った。
「ほむらも、みなもも、ふうかも、めぶきも──他の者達も、お前のことが好きだよ」
「ありがとう。知ってる」
「長い付き合いになることを期待している。では」
和臣に睨まれたたつみは、そのままふらりと後ろへと倒れた。
とぷん、と池の中に消え、次の瞬間には光の柱となって空へ登っていく。
二人が見送った空が、ゆっくりと紫色に変わっていく。
朝焼けのようでもあり、夕焼けのようでもある。
「槇さん。もうあちらは時間が遅いのでは?」
「……気づいてたんだ」
「はい。時間の感覚はありませんが、こうして空の色が変わるまでに、あなたが何度か〝おはよう〟と来てくれるので。ここはずいぶんゆっくりとしているんだなあ、と」
「大丈夫?」
「はい」
にこっと笑う和臣は、穏やかに空を見上げる。
「これが少し続くと、また朝が来ます。きれいですよ」
星も輝かない空を和臣は愛おしそうに見ると、和室の和室に戻ってきた。座る。
「大丈夫ですから。焦らずにあなたの心の向く方を選んでください」
「……あ、そう」
槇はゴロンと寝転がる。座布団を枕にして、畳に広がる和臣の羽織をそっと掴む。
「結婚してもいいんだ?」
「……まどかさんが、アレが縁だというのなら、僕はもう黙っています」
「ふうん。あんなに暴れてたのに?」
「あ、暴れてませんよぉ」
「ふふ。暴れてた」
「結婚するんですか」
和臣の硬質な声が槇の頭に降り注ぐ。
なんて雄弁なのだろう。それが嬉しくて笑えば、和臣が身じろいだ気配がした。
「先生。私が結婚すると、毎日は来られない。大原くんなら……まあ、快く送り出してくれるかもしれないけど、子供を授かったら来れない日だってあると思う」
「……」
「生まれたら、先生に合わせて、娘を次の邪神になれるように育てなきゃいけないし」
「……」
「いつか先生に、この子と変わってって言わなきゃいけないね」
「やめてください」
拒絶のはらんだ声は、痛みに耐えているようでもある。
「私が結婚するって、そういうことだよ」
「じゃあしなくていいです」
「何も言わないんじゃなかったの」
槇はくすくすと笑う。
和臣はややあってから、槇を呼んだ。
「槇さん」
「はあい」
「交代しましょうか」
「決断を迫らないんじゃなかったの」
「提案しただけです」
和臣は堂々と言う。
ああ、かわいいなあ、と思うが口にはしなかった。
代わりに、強く心に決めていることを話す。
「先生とは交代しない」
息を呑む気配に、槇はそっと目を開けた。
傷ついたような顔をした和臣が視線をふいと逸らす。
「結婚するんですね」
「ううん。しない」
「……え?」
「大原くんの人生を私で潰したくない。だからしない」
「あの」
「和臣先生とはまだ交代しない。私の気持ちにケリがつくまで、しない」
「……どういう意味ですか?」
「もう少し先生といたいってこと」
和臣の視線が戻ってくる。
「ここで、のんびりしよ」
槇が目を細めれば、どうしてか泣きそうな顔をした和臣はちゃぶ台に突っ伏した。
ゴン、と音が響く。
「痛そ」
「……痛いです」
「大丈夫?」
「……おでこが腫れたかもしれません」
「邪神なのに?」
ふ、と和臣が笑う。
くせ毛の髪が柔らかに揺れた。
触りたいな、と思うが届かないので、つまんだ羽織をくんと引く。
「散歩中の犬じゃありません」
「ほら、和臣先生もだらだらして」
「今は……いやです」
「そ?」
「ちょっと失礼」
和臣が羽織を脱ぐ。
そしてそれを、そっと槇に掛けた。
当然温もりなんて残っていないし、ひんやりとしている。それでも、あたたかかった。
「和臣先生のにおいがする」
「えっ、くさいですか」
「いいにおい」
黙った和臣から睨まれる。
「なに」
「いいえ。別に」
と言いながらも、羽織を引っ張って下げる。足まですっぽり入った槇は、寛ぐようにまた目を閉じた。
「なにか話して」
「おお……自ら残ったのに傍若無人ですね……」
「先生の声、落ち着くから──好き」
言葉にしてみると、ふと自分の中心がそっと落ち着く気配がした。
それは未知の感情だった。
地面から数ミリ浮いているような喜びと──足元のない不安感。強風のような奇妙な胸騒ぎ。
けれど認めてしまえばそれは地に足をつけてこちらへ笑いかけたのだ。凪いだ水面の上で、花が咲くように。
好き。
あなたが、好き。
「和臣先生が好き」




