16.男はロマンチスト
翌朝起きると、芳がキッチンに立っていた。
朝の六時。
砂糖を煮詰めた甘い匂いが換気扇から逃げている。
「おはよ」
槇が声を掛けると、芳は鍋から目を離さずに「はよ」と返す。横に並べば、鍋で水と寒天を煮詰めている最中らしい。甘い匂いがふっと顔を撫でた。
「朝からご苦労さまだね。たまの休みなんだから寝てれば?」
「んー、習慣だな。これ渡せるの一週間後だし」
「ああ、乾燥するんだっけ」
「逢田和臣の調子は?」
昨日はからかっていたが、今日はそういう気はないようだ。
槇は鍋がふつふつと沸いているのを見ながら答える。
「ふつう。レンレンのサポートがあるし、あやかしにも愛されてるわ」
「神様をあだ名で……」
「対等じゃないと務まらないからね。そういうもんだよ」
「……そういうもんか。お、そろそろいいな。バット濡らしてくれるか」
「あいよ」
銀色のバットを水でさっとくぐらせて鍋の近くに置けば、芳がそれに鍋を傾けてとろりとした透明な液をそっと注いだ。
そばにおいてあったかき氷のシロップの赤と青を少し入れ、竹串でそうっと混ぜる。
「紫?」
「そ。紫陽花をイメージしてみました。なので今回は固まったら花の型で抜きまーす」
「細かい」
「芸が」
「芸が、細かい」
芳のが要求どおりに訂正すると、どこか懐かしそうに笑った。
芳は、槇が邪神になることの意味を理解するのが遅かった。妹として接してくれたからだろう。どちらかというと兄というより友人のように育ったが、生まれながらに邪神というものを本能的に理解する飛鳥とはやはり何かが違った。槇は、兄のその「普通」の感覚を身近で見てきたおかげで、学校で浮かなかったと言っても過言ではない。
「なに。笑ってるけど」
生真面目な顔で寒天液を混ぜてグラデーションを作る芳から聞かれ、槇は色を目で追いながら答える。
「いや、私と飛鳥の二人姉妹だったら、絶対私変な人間に育ってたなって思って」
「……」
「否定してよ」
「否定できないわ。そして父さんが不憫でしょうがない」
「言えてる」
きれいに紫陽花色に染まった銀色のバットを兄妹二人で見下ろす。
「芳」
「んー?」
「毎朝届けに来なくていいんだよ」
「無理。日課だし」
さらりと拒否された槇は、曖昧に頷いた。
槇が邪神になることの意味を理解した芳は、妙に罪悪感のようなものを持って育ってしまった。
なぜだろう、と思って、ふと理解できたような気がした。なぜ今その考えが降ってきたのかわからないが、そのままぽろりと言葉を漏らす。
「男の人って、邪神の立場を生贄みたいだって思ってるの?」
「は?」
「いや、なんか今そう思って」
「……」
「全然違うよ」
二人で粗熱が取れるまでじっと見守る奇妙な時間の中で、今度は芳が曖昧に頷いた。
「……いや、うん、まあ」
歯切れの悪い声に、槇はぽんっと手を叩く。
「男はロマンチスト?」
「……女は超リアリスト」
「そりゃ意見が一致しないね。仕方ない」
「だなー」
会話の終わりを察知した芳が身動ぎ、槇も離れる。
ふと、食卓の上にいつものように小分けされた琥珀糖の入った可愛らしい小袋が置いてあるのに気づく。
振り向いた槇は、キッチンに立つ兄に感謝を伝えた。
「英里ちゃんに、ありがとうって言っといて」
「おー」
「芳も。ありがとね」
「……おー」
きっと、寂しがってくれているのだろう。
妹が人でなくなることに。優しい人だから。
槇はキッチンに立つ後姿を目に焼き付けて、出ていこうとした。
「──槇」
呼び止められ、振り返る。
芳は唇を噛み、そして言いにくそうに口を開いた。
「槇、本当にさ」
「大丈夫だって。私が邪神になるから、安心して結婚し──」
「本当に逢田和臣と付き合ってない、の……か?!」
「じゃあね」
くるりと背を向けてキッチンを出ていく。
後ろで「照れなくていいんだぞ」と的はずれなことを叫んでいるが、無視させてもらう。
槇は呆れながら部屋に戻るとクローゼットを開けた。
制服を手に取りそうになり、ハッとしてクローゼットを殴る。
「あっぶな……もう無意識で制服着ようとしてる……」
そうして制服の隣りにある、黒いTシャツにジーンズを取り出した。
これが槇の休日スタイルだ。
天原家の朝食「各々好きにトーストにジャムを塗れ」とヨーグルトを食べ、身支度を整えて家を出ようとすると、何故か止められた。
ずっとそわそわコソコソしていた芳と飛鳥が、慌てたように玄関に押しかける。
「おい待て、それで行く気か」
「待て待て、おねえちゃん。こっち。こっち着ようよ」
「そうだ。飛鳥の言うようにこの清楚系ワンピースを」
「──芳、飛鳥に余計なこと言った?」
槇じろりと睨むと、二人してぴゃっと肩を竦めて逃げ出す。
玄関には、真っ白いワンピースがぐにゃりと形を変えて放り出されているが、無言のそれを見下ろした槇は、拾い上げて整えて畳むとそっと置き、家を出たのだった。
「おはよ、先生」
神社の階段を登り終えた槇は、境内を箒で掃いていた和臣を見つけ、声をかけた。
黒い長羽織がふわりと膨らむ。
「槇さん。おはようございます──ああ、今日はもしかしなくても休日ですか?」
「うん」
余計な情報は与えずに頷けは、和臣は暦など大して気にしていないというように「そうですかあ」と呑気に空を見た。
「いい天気ですもんね」
「そうだね」
天気と休日になんの関係があるのかはわからないが、和臣の横顔は穏やかだ。
それを見る槇の顔も穏やかだった。いつものように隣に並ぶ。
「ところで先生、柳の件だけど」
「会えたんですか?」
「うん。それで、まどかと見た全部そのまんま伝えて、あとは頑張るように言っておいたから」
「わあ……槇さんらしいですね?」
なんとも言えない顔で褒められる。
槇は失礼なと言わんばかりに腰に手を当てた。
「一応ちゃんとバックアップするよ。菫と……会って、それとなく様子見るつもりだし」
「それは……」
「何?」
「余計なことしやしないか心配ですね……あっ! 隙をついて手を握ろうとしないでください!!」
「観念して」
「いーやーでーすーぅ!!」
子供の喧嘩のような声が空に響く中、紫色の髪の男がどんよりした顔で二人を見下ろしている。




