1話:Blind Drive 〜盲目なる衝動 〜
白と黒だけの世界で、その獅子だけが不気味な赤に燃え上がった。
夢を見ている。
頭の芯がひどく痺れている。
深い泥の底に沈んでいくような鈍い感覚だ。
視界には純白の円卓がある。
光をまったく反射しないマットな白だ。
円卓を挟んで二人の男が座っているまわりには周囲に壁や床はなく虚無が広がっていた。
向かい側に座る男の顔を見ようとする。
ノイズがかかったように輪郭がぼやけている。
目を細めても同じだ。 そこに人がいるという気配だけが存在している。
視線をもう一人の男に向ける。
こちらははっきりと見える。
白髪。 顔を真横に走る巨大な刃物傷。
どこかで見たことがある気がする。
記憶の底をあさる。
名前が出てこない。
和装の男の鋭い眼光が円卓の中心に注がれている。
二人の間にはチェス盤のようなものがあった。
白と黒の市松模様だけがこの空間で唯一の色彩だ。
盤上にはいくつもの駒が配置されている。
白髪の男がゆっくりと右手を伸ばす。
無骨な指先が一つの駒に触れる。
獅子を模した駒だ。
たてがみの一本一本までが精密に彫り込まれている。
指先が触れた瞬間だった。
獅子の駒が内側から赤く発光する。
紅だ。 光は脈打つように強さを増していく。
視界全体が赤い光に飲み込まれる。
熱線のような痛みが眼球を焼いた。
ーーーーーーーーーーーーー
けたたましい電子音が耳の奥を突き刺した。
高いピッチの警告音が、一定の間隔で室内に鳴り響いている。
その音の大きさに、意識が強制的に引きずり戻された。
まぶたが重い。 粘りつくような眠りを振り払い、ゆっくりと目を開けた。
視界の四隅が赤く点滅している。
目の前にあるのは、無数の発光ダイオードと、淡い緑色の光を放つ液晶モニターだった。
それらの光が、狭い空間を怪しく照らし出している。
自分がどこにいるのか、すぐには理解できなかった。
棺桶かとすら思った。
頭が割れるように痛い。
こめかみの奥で、太い血管が激しく脈打っている。
痛みの波が押し寄せるたびに、視界がぐにゃりと歪んだ。
同時に、首の正面にも鋭い痛みが走る。
喉仏のあたり、熱い痛みが皮膚に残っていた。
手を動かそうとしたが、指先が冷たくしびれている。
自分の意思がうまく伝わらない。
数回、グーパーを繰り返して感覚を確かめた。
指先が冷えた金属に触れる。 丸みを帯びたグリップのような形状のレバーが、両手の位置にあった。
誰だ。
その疑問が、頭の中で急速に巨大化していった。
自分は誰だ。
名前が出ない。
年齢も、職業も、今日が何月何日なのかすらも分からない。
これまで生きてきたはずの時間すべてが、完全に消え去っていた。
背中に冷たい汗が伝う。
心臓の鼓動が、警告音のテンポに合わせて跳ね上がった。
パニックになりかける心を、喉の渇きが辛うじて現実につなぎとめる。
鉄の匂いと、かすかなオゾンの臭いが鼻腔を突いた。
体を少し動かすと、シートの固い感触が背中を押し返してきた。
身体を固定しているのは、太いシートベルトだ。
そのベルトが、首の下から胸にかけてをきつく締め付けている。
周囲を見回す。
頭上は低く、左右の壁も肩が触れそうなほどに狭い。
正面のモニターには、英語と数字の羅列が高速でスクロールしている。
計器の文字や、画面の意味はなぜか自然と理解できた。
ここは戦闘用、あるいは作業用の大型人型機体のコックピットだ。
シートの下から、ゴトゴトという微弱な振動が伝わってきた。
エンジンが動いている振動ではない。 外側から揺らされているような、鈍い縦揺れだ。
この空間自体が、何か別の巨大な乗り物に積まれているのだと直感した。
壁の向こうから、低いロードノイズが聞こえる。
大型のタイヤが、ざらついた路面を噛んで進む音だ。
この機体は、走っているトラックのコンテナの中に格納されている。
その事実を、耳と肌の感覚が論理的に導き出していた。
電子音が、さらに一段と高くなった。
正面のメインモニターの中央に、黄色い文字が浮かび上がる。
SOS。
その3文字が、激しく明滅を繰り返している。
アラートの発信源を示すため、モニターの一部が切り替わった。
ノイズ混じりの簡易マップが表示される。
現在地を示す緑の光点のすぐ近く、距離にして数キロメートルほどの場所に、赤い光点が点滅していた。
画面の端には、受信したデータの詳細がテキストで表示されていた。
発信元の識別コードは、民間用の輸送車両を示している。
砂漠地帯の真ん中で、駆動系が完全に停止している状態のようだ。
周囲の環境温度は40度を超えているという警告も添えられていた。
コンソールにあるタッチパネルのボタンを、無意識に指が押していた。
ノイズにまみれた音声データが、スピーカーから流れ出す。
スピーカーの震えとともに、砂嵐のような雑音が室内に満ちた。
「.....ザザ.....だれか、聞こ.....ザザ.....すか」
雑音の隙間から、か細い声が漏れた。
それは、明らかに若い女性の声だった。
焦燥と疲弊が、その短い一言に凝縮されている。
「.....ザザ.....もちま.....ザザ.....せん。誰か、助けて」
音声はそこで途切れ、再び不快な電子音だけがコックピットを支配した。
画面に表示された救難信号のログは、今も現在進行形で発信され続けている。
砂漠の真ん中で立ち往生している、見知らぬ女性。
その情報だけが、記憶を失った自分の目の前に、唯一の現実として突きつけられていた。
ーーーーーーーーーーーーー
緑色の光に照らされた空間は、お世辞にも快適とは言えなかった。
頭上のフレームには溶接の跡が剥き出しのまま残っている。
太い配線やケーブルの束が、補強材に沿って無造作にバンドで固定されていた。
美的な配慮など一切ない、ただ動くことだけを目的とした無骨な鉄の箱だ。
コンソールに並ぶスイッチのいくつかは、塗装が剥げて地金の鈍い銀色が覗いている。
この機体が、かなり過酷な環境で使い込まれてきたことを物語っていた。
冷たい金属の感触が、指先から手のひらへと伝わってくる。
俺は小さく息を吐き、右手のグリップを握り直した。
なぜか、体が動かし方を覚えていた。
頭で考えるより先に、指先がキーボードの上を正確に滑っていく。
画面に表示された救難信号の座標データを指でなぞり、そのまま隣の画面へスライドさせた。
それは、この機体を乗せている輸送トラックのナビゲーションシステムへのアクセスだった。
画面のインジケーターが赤から緑へと切り替わる。
進行方向を示す矢印が、大きく左へと旋回を始めた。
直後、機体を包む空間全体が、ぐらりと大きく横に傾いた。
トラックが砂丘を避けるようにして、急激に進路を変えた証拠だった。
コンソールの一角から、不意にノイズ混じりの音声が聞こえた。
警告音とは違う、システム状況を知らせるアナウンスだ。
ターゲット、ロック。
進路を変更。
それは、合成された電子音声だった。
しかし、妙な違和感が耳に残った。
一般的なナビゲーションの、明瞭でハキハキとした声ではない。
まるで、内気な女性が無理をして、必死に声を張り上げているような響きだった。
どこか怯えているようにも聞こえるその声に、胸の奥がわずかにざわつく。
だが、その疑問を突き詰める時間は与えられなかった。
トラックの速度が上がり、シートから伝わる縦揺れが激しさを増したからだ。
外は相変わらず、見渡す限りの砂漠なのだろう。
車輪が砂地を弾くゴツゴツとした振動が、ダイレクトに背中を揺さぶる。
首の前の痛みが、振動のたびにピリピリと主張した。
俺は奥歯を噛み締め、正面のメインモニターを見つめ続けた。
赤い点滅までの距離が、画面上の数字で刻一刻と縮まっていく。
距離、残り500。 外部カメラの映像が、砂煙の向こうにある景色を捉え始めた。
陽炎が激しく立ち上る砂の海の真ん中に、一台の影が静止している。
それは、丸みを帯びた装甲を持つ中型の輸送トラックだった。
トラックは完全に沈黙していた。
下部に備え付けられた排気口からは、白い煙が勢いよく噴き出している。
通信で女性が言っていた通り、冷却系が完全に破壊されているのは間違いなかった。
ただの故障なら、まだ良かった。
問題は、そのトラックの周囲を跳ね回る影だった。
モニターの倍率を手動で引き上げる。
ざらついたデジタルズームの画面に、その異形の姿が鮮明に映し出された。
それは普通の生物ではなかった。
ぎちぎちと音を立てて動く、金属の四肢。
ぎらつくセンサーの目を持ち、鋭い牙が並ぶ顎を駆動させている。
トカゲのような胴体に、カミソリのように鋭い金属の翼を備えた機械の塊だった。
小型の機械竜だ。
記憶にないはずの脳裏に自然と浮かび上がった。
数は全部で5匹。
それらが、獲物を貪る肉食獣のように、立ち往生したトラックに群がっていた。
一匹が、トラックのボンネットに鋭い爪を突き立てた。
バリバリと嫌な金属音がコックピットのスピーカーから響く。
装甲が引き裂かれ、内部の電子基板が派手な火花を散らした。
トラックが故障したのは、あいつらが容赦なく攻撃を加えたからだろう。
このままでは、中の人間が引きずり出されるのも時間の問題だった。
機械竜の爪が、今度は運転席の強化ガラスを激しく叩きつける。
ガラスの表面に、クモの巣のような白い亀裂が広がっていくのが見えた。
それを見た瞬間、俺の視界が急速にクリアになった。
頭痛も、首の痛みも、一瞬で意識の彼方へと吹き飛ぶ。
ドクン、と心臓が力強く脈打った。
恐怖はなかった。
あるのは、状況分析と、不思議な高揚感だった。
俺は左右の操縦桿を、力強く握り締めた。 足元のフットペダルへ、均等に体重をかける。
いける、と確信した。
この無骨なコックピットの先にある、巨大な鉄の肉体。
その出力を最大まで高め、あいつらの懐へと飛び込むイメージが、完全に脳内で完成していた。
自分の手には、あの化け物どもを容易く引き裂き、蹂躙するだけの力が眠っているように思えた。
自分自身の名前すら思い出せないのに。 この鉄の塊を動かして敵を殲滅する方法だけが、脳裏に焼き付いている。
システムが起動状態へ移行し、画面の赤い点滅が加速する。
俺の意志に呼応するように、機体の振動が力強く変わった。
油圧の駆動音がうなりを上げ、コックピットの温度が上昇していく。
熱い空気が頬を撫で、鉄とオイルの匂いが濃くなった。
助ける。
その思考だけが、真っ白な頭の中を支配していく。
操縦桿のトリガーに、俺は静かに人差し指をかけた。
ーーーーーーーーーーーーー
右壁に並ぶ、無骨なスイッチの列に指を掛けた。
指先に力を込め、一本ずつ物理レバーを跳ね上げていく。
カチリ、カチリと硬質な金属音が、狭い室内に響き渡る。
冷たい鉄の感触が、手袋越しに親指へと伝わった。
一番奥の大型スイッチを押し下げる。
ジジジ、と背後の隔壁から高圧電流が駆け巡る音が聞こえた。
コンソールのアナログメーターが、一斉に震えながら右へと振れる。
細いガラス管の中の赤い液体が、圧力を示す目盛りをぐんぐんと登っていった。
死んでいた鉄の箱に、じわじわと熱が通っていくのが分かる。
正面の計器盤のバックライトが点滅を始めた。
くすんだ緑色の光が、さらに濃い琥珀色の光へと切り替わる。
その光の波に押されるように、画面の端にかすれた文字が浮かび上がった。
アルファベットの羅列が、ノイズを伴いながら実を結ぶ。
そこには、「Ruber Zin」と刻まれていた。
ルベルジン。
その単語を目にした瞬間、胸の奥が激しく脈打った。
これが、この鉄の怪物の名前か。
脳が理解するよりも早く、耳の奥のスピーカーがかすかに震えた。
先ほどと同じ、内気な女性が無理をして張り上げているような電子音声だ。
Ruber Zin, activated.
Welcome home.
その声に呼応するかのように、シートの底から爆発的な振動が湧き上がった。
ドスン、と大きな衝撃が背中を突き上げる。
機体の心臓部である大型機関が、完全に目覚めたのだ。
排気口から漏れ出た油圧オイルの焦げる匂いが、換気孔を通じて室内に満ちていく。
喉の奥が、そのツンとした臭気で激しく痛んだ。
頭上から、鼓膜を震わせるすまずしい金属音が響いた。
ガガガガ、と鈍い摩擦音がコンテナ全体を揺らす。
天井の装甲板が左右に割れ、外の光が容赦なくコックピットへ流れ込んできた。
外部カメラのレンズが一瞬、強烈な直射日光で真っ白にハレーションを起こす。
自動遮光フィルターが作動し、すぐに砂漠の情景がモニターに復元された。
開いたハッチの隙間から、熱風が容赦なく吹き込んできた。
密閉されていたコックピット内の温度が、一気に数度跳ね上がる。
肌を焦がすような熱気と、乾燥した砂の匂いだ。
俺は両手のメインレバーを力強く握り締め、前方へと押し出した。
黒い鋼鉄の肉体が、ゆっくりと動き出す。
ギチギチ、と関節のサーボモーターが悲鳴のような重低音を上げた。
トラックの荷台に四肢を折りたたんでいた機体が、上体を起こしていく。
重力の負荷が、シートベルトを通じて俺の肩へと一気にかかった。
起き上がる動きに合わせて、モニターの視界がぐんぐんと高くなっていく。
右足のフットペダルを深く踏み込んだ。
重いバネの強力な反発が、靴の底を押し返してくる。
ルベルジンは太い脚部を駆動させ、トラックの荷台から熱砂の大地へと踏み出した。
ズシン。
地響きとともに、衝撃がコックピットの床から脳天へと突き抜けた。
輸送トラックの車体が軽くなり、サスペンションが大きく跳ね上がるのが見えた。
我が身は今、道なき砂漠の真ん中に完全に立ち上がっている。
機体の着地の衝撃で、周囲の茶色い砂塵が巨大なカーテンのように舞い上がった。
外部モニターの向こうで、異変が起きていた。
立ち往生したトラックに群がっていた5匹の機械竜が、一斉に動きを止める。
ギラギラと不気味に輝く赤いセンサーの目が、すべてこちらへと向けられた。
あいつらは獲物を引き裂く手を止め、新たな侵入者を警戒するように低く身を潜める。
キチキチ、と金属の歯車が激しく噛み合うような不快な音が、外部マイクから拾われてきた。
俺は左手側にある、レバーを手前に引き絞った。
ガチコン、と重厚なロック解除の音が背後から響く。
トラックの内側にマウントされていたウェポンラックが、油圧の音を立てて解放された。
それに合わせて、ルベルジンの右腕が自然な動作で背中へと伸びていく。
鋼鉄の指パーツが、そこに固定されていた武器の柄を正確に掴み取った。
ゆっくりと、その武器を引き抜く。
現れたのは、機体の全高に匹敵するほどに長大な剣だった。
その大剣は、極めて歪な配色をしていた。
手を握る柄や、拳を守る鍔、そして全体の骨格となるベース部分は、抜けるように美しい白だ。
しかし、鋭く研ぎ澄まされた両刃の刀身部分だけが、光を一切反射しない完全な漆黒に染まっている。
まるで太陽の光をすべて吸い込む、夜の闇そのものを削り出したかのような不気味な黒だった。
ルベルジンの両腕が、その白と黒の大剣をしっかりと保持する。
腕部の油圧シリンダーが、シュウと白い冷却蒸気を吐き出しながら力強く縮んだ。
剣の凄まじい重量感が、操縦桿を握る俺の両腕にも、確かな負荷として伝わってくる。
俺はレバーを微妙に操作し、その大剣を胸の高さへと持ち上げた。
よし、と俺は喉の奥で小さく呟いた。
言葉に呼応するように、コックピットの全モニターに赤い戦闘照準が展開される。
眼前の敵、5匹のすべてがターゲットとしてロックされた。
戦況が動き出す。 俺はフットペダルをさらに深く、床板に叩きつけるように蹴り込んだ。
じわり、と水平に、そしてゆっくりと大剣を構える。
刀身の漆黒が、砂漠の強烈な陽光の中で怪しく澱んでいた。
その黒い刃の先には、すでにこちらへ飛びかかろうと足を震わせている機械竜の姿がある。
俺の知らない俺の身体が、完全に戦うための構えを完成させていた。
ーーーーーーーーーーーー
私はユミィ。
ユミィ・ディアル。
いつか必ず、世界一のメカニックになる女だ。
だが今の私は、灼熱の鉄の箱に閉じ込められたただの無力な獲物だった。
ダッシュボードから、甘ったるい冷却水の匂いが漂ってくる。
焦げた配線の悪臭が鼻を突き刺した。
トラックのエアコンは完全に死んでいる。
閉め切った運転席の温度は、軽く四十度を超えていた。
額から流れ落ちた汗が、あごを伝って太ももに落ちる。
熱気で視界が白くぼやけ始めていた。
喉の渇きを通り越し、口の中は砂を噛んだようにザラザラしている。
シートに縛り付けられた私の体は、小刻みな震えを止めることができなかった。
ピコン。
乾いた電子音が、狭い車内に鳴り響いた。
霞む目を向けると、通信パネルに小さな緑色のランプが点滅している。
誰かが、私の流し続けたSOSアラートを受信したのだ。
助かるかもしれない。
その事実だけで、張り詰めていた心がふっと軽くなった。
目頭が熱くなり、視界がさらに滲む。
私は這いずるように身を乗り出し、通信機のマイクを強く握りしめた。
ひび割れた声で、現在地と状況を必死に叫ぶ。
だが、外の連中は私の希望など気にも留めなかった。
ガリガリと、運転席の窓ガラスを削る嫌な音が響く。
分厚い防弾ガラスの向こう側に、赤いセンサーの目がギラギラと光っていた。
無機質な金属の身体を持つ機械生物、アルヴィアだ。
小型竜型アルヴィアが五匹。
奴らは完全に私のトラックを包囲している。
装甲板を鋭い爪が引き裂く音が、耳を劈いた。
トラックの車体が大きく揺れ、私はシートベルトに胸を打ち付けられる。
小型竜アルヴィアは執拗だ。
一度狙い定めた獲物を、絶対に諦めない。
ひび割れたガラスの向こうで、金属の牙がカチカチと音を立てて噛み合っている。
放射状に広がる亀裂が、ガラスの限界が近いことを告げていた。
絶望が再び、じわじわと私の足元から這い上がってくる。
その時だった。 ズズズン。
アルヴィアの立てる金属音を塗りつぶすほどの、重く大きな地響きが聞こえた。
私は弾かれたように顔を上げる。
砂煙を激しく巻き上げて、一台のトラックが急停車するのが見えた。
救援に来てくれたのだ。
荷台のコンテナが開き、中から巨大な影がゆっくりと立ち上がる。
私は思わず息を呑んだ。
それは、アルヴィアとは全く違う、人型の巨大な機械だった。
ズシンと、重々しい音を立ててその機体が砂漠に降り立つ。
圧倒的な質量が、地面を激しく揺らした。
車内のシートがバウンドし、私の身体がふわりと浮き上がる。
五匹のアルヴィアが、一斉に私のトラックから飛び退いた。
赤いセンサーの目を、その巨大な侵入者へと向ける。
私にも、その機体の姿がはっきりと見えた。
全身を覆う重厚な装甲は、光沢を抑えた漆黒だ。
腹部や関節の隙間から、鮮やかな真紅のパーツが覗いている。
二本の鋭い角を備えた頭部は、昔の文献で見た東洋の戦士、侍の甲冑そのものだった。
装甲の下から伸びる腕は、対照的な純白に塗られている。
むき出しの駆動部から、シューッと白い蒸気が激しく噴き出した。
黒い侍は、ゆっくりと右腕を背中へ回す。
白い金属の指が、背面に固定されていた巨大な武器の柄を掴んだ。
そのまま静かに、滑らかな動作で引き抜く。
それは、機体の背丈ほどもある長大な剣だった。
奇妙な剣だ。
持ち手から峰にかけてのフレームは、抜けるように白い。
だが、陽の光を浴びた刃の部分だけが、すべてを飲み込むような完全な黒で塗りつぶされていた。
周囲の砂漠の明るさから、そこだけが切り取られたような異常な黒だ。
黒い侍が、白と黒の大剣をゆっくりと正面に構える。
その動作には、一切の迷いがない。
冷たい殺気が、分厚いガラス越しに私の肌を粟立たせた。
熱気でぼやける視界の中で、ただその漆黒の機体だけが、恐ろしいほど鮮明に私の目に焼き付いていた。
あの黒い装甲はなんだろう。
光沢を完全に抑えた表面処理は、ただの塗装じゃない。
熱線やレーザーを乱反射させる、特殊なコーティング鋼材の質感だ。
腹部や関節の隙間から覗く赤いパーツは、おそらく強制冷却用の大型ラジエーターユニットだろうか?
そこから装甲の下に伸びる腕部フレームだけが、なぜか不自然なほど純白に塗られている。
機体全体の重厚な装甲バランスを考えれば、あの細身の白い腕には相当な出力のモーターが積まれているはずだ。
そして、あの巨大な剣。
私のメカニックとしての直感が、あの武器の異常性に強く惹きつけられていた。
通常、あそこまで巨大な実体剣を造るなら、重心は刀身の中央に配置する。
金属の塊を均等に鍛え上げ、両刃のバランスを取るのが基本だ。
だが、あの剣はまったく違う。
持ち手から峰、つまり剣の背中側にあたる白いフレーム部分が、異常なほど頑丈に造られている。
まるで、あの白い骨格そのものが武器のメインデバイスであるかのような構造だ。
光を吸い込む漆黒の刃は、その白いフレームに後付けされたオプションパーツのように見える。
なぜあんな歪な構造にしているのか。
白い峰の部分に、超振動を発生させるジェネレーターでも内蔵しているのだろうか。
それとも、黒い刃が摩耗した時に補修するための、モジュール式カートリッジなのか。
もしそうだとしたら、あの白いフレームはどれほどの衝撃と負荷に耐えられる特殊素材でできているんだ。
ブレードとフレームを繋ぐジョイント部分の強度は、どうやって確保している。
知りたい。
触ってみたい。
あの装甲を引っぺがして、内部の駆動系と武装の接続回路を隅々まで調べ尽くしたい。
ガキン。
鋭い金属音が鼓膜を叩き、私の思考は強制的に現実へと引き戻された。
アルヴィアの一匹が、威嚇するように鋭い尻尾を砂漠の岩に打ち付けた音だ。
ビキッ、と運転席のひび割れた窓ガラスが、さらに大きく鳴った。
熱気で息が詰まりそうになる車内で、私は強く首を振った。
ペチン。
自身の頬を引っ叩いた。
今は、メカニック技術に興奮している場合じゃない。
私は今、この灼熱の鉄の箱の中で干からびかけている。
すぐ目の前には、私を生きたまま引き裂こうとする殺人機械が五匹も待ち構えているのだ。
背中に冷たい汗が伝う。
相手は、機動力と素早さに特化した小型の竜型アルヴィアだ。
それが五匹も連携して襲いかかってくる。
対して、あの黒い侍が構えているのは、極端に長く重そうな大剣が一つだけだ。
あんな巨大な質量兵器は、一撃の威力こそ絶大だが、小回りがまったく利かない。
大きく振りかぶって空振りでもすれば、機体の姿勢制御に致命的な隙ができる。
素早く飛び回る五匹の小型機械を、あの大剣一本でどうやって捌くというのか。
遠距離用の銃火器は見当たらない。
防御のための盾すら持っていない。
完全に接近戦特化で、しかも一撃必殺を狙うような極端な機体構成だ。
(うちにもそういう機体はあるが)メカニックの視点から冷静に計算すれば、
あの機体と小型アルヴィア群の相性は最悪だった。
一匹を叩き斬る間に、残りの四匹が黒い機体の死角に群がる。
装甲の薄い関節の隙間を牙で噛み砕かれ、白い腕の配線を引きちぎられる未来しか想像できなかった。
逃げて。 私を置いて、すぐに自分のトラックへ戻って。
そう叫ぼうと、砂を噛んだように乾ききった喉を動かした。
だが、ヒューと掠れた息が漏れるだけで、声にならない。
黒い侍は微動だにせず、ただ静かに白と黒の大剣を構え続けている。
兜の奥で赤く光るセンサーが、砂塵の向こうで身を低くするアルヴィアたちを、冷徹に見据えていた。
キィィィンという耳障りな駆動音が、熱された砂漠の空気を震わせた。
トラックを取り囲んでいた五匹のアルヴィアが、一斉に動いたのだ。
砂を激しく蹴り立て、弾丸のような速度で黒い侍へと殺到する。
前後左右、そして上空からの同時攻撃。
完全に連携のとれた、狩りの陣形だった。
対する黒い機体は、その圧倒的な質量ゆえに動きが遅い。
身を低く沈め、あの歪な白と黒の大剣を盾のように前面へ掲げた。
ガギィィン。
鼓膜が破れそうなほどの鋭い金属音が、分厚いガラス越しに叩きつけられる。
大剣の分厚い白い峰の部分に、アルヴィアの鋭い爪が激突していた。
すさまじい衝撃だ。
巨大な黒い装甲が、ズルリと後ろへ押し込まれる。
足元の砂が深く抉れ、茶色い波のように両脇へ盛り上がった。
完全に防戦一方だった。
私のメカニックとしての嫌な予想が、最悪の形で的中する。
あんな長大で重すぎる武器は、俊敏な小型機を相手にするには手数が足りなすぎるのだ。
一匹の飛びかかりを大剣で弾き返しても、反撃に転じる隙がない。
大剣の姿勢を戻す前に、別の二匹が死角から容赦なく襲いかかってくる。
黒い装甲に鋭い牙が食い込み、ガリガリと不快な摩擦音を立てた。
特殊コーティングされた表面から、青白い火花が派手に散る。
黒い侍は攻撃の糸口をまったく掴めないまま、ただ大剣の腹で致命傷を逸らし続けていた。
ダメだ。 このままでは、あの重厚な装甲もいつか限界を迎える。
関節の装甲が薄い部分や、あの白い腕の駆動部が露出した瞬間、間違いなくそこを食いちぎられる。
熱気でぐにゃりと歪む視界の中で、私は激しい自己嫌悪に襲われていた。
ダッシュボードの端に目をやる。
そこには、ナビゲーションの赤いエラーランプが今も点滅を続けている。
この絶望的な状況を招いた原因は、痛いほど分かっていた。
すべては私のミスだ。
この積荷を早く拠点へ持ち帰りたかった。
だから、安全な正規ルートを外れ、危険な未開拓の砂漠地帯を強引に突っ切ったのだ。
滅多にいないとはいえアルヴィアに襲われ、反撃虚しくこの灼熱の地獄で完全に立ち往生した。
私の油断のせいで、見ず知らずの誰かを死地へ引きずり込んでしまった。
ギリ、と奥歯を強く噛み締める。
自分の愚かさが心底呪わしかった。
ズドン、とひときわ大きな音が響いた。
アルヴィアの太い金属の尻尾が、黒い機体の左肩にクリーンヒットした音だ。
黒い侍の巨体が大きくよろめき、ドスンと片膝を熱砂に突く。
好機と見た五匹の赤いセンサーの目が、一斉に不気味な光を放った。
もういい。
これ以上、見ず知らずの他人に私の尻拭いをさせるわけにはいかない。
砂を噛んだように乾ききった唇を、無理やり舌で舐めて湿らせる。 喉の奥から、鉄錆のような血の味がした。
震える右手を伸ばし、通信パネルのマイクスイッチを強く押し込む。
浅くなった呼吸を無理やり整え、肺に残っていた熱い空気をすべて声帯にぶつけた。
「逃げて」
かすれた、惨めな自分の声が車内に響く。
「もういい。あんたは逃げて。これは私のミスなの。だから、早く」
目に溜まった涙と汗で、ガラスの向こうの景色がぼやける。
それでも、マイクの送信ボタンだけは絶対に指から離さなかった。
私がここで死ぬのは、完全に自業自得だ。
だが、あの名も知らぬ黒い機体とパイロットまで道連れにする権利は、私にはない。
返事はない。
外では、絶え間なく金属がぶつかり合う凄惨な音が鳴り響き続けていた。
ーーーーーーーーーーー
強烈な衝撃が、操縦桿を握る両腕を痺れさせた。
ルベルジンの分厚い装甲が、敵の突進を辛うじて受け止めている。
狭いコックピットに、警報音が絶え間なく鳴り響く。
モニターの光が赤く点滅し、俺の顔を照らし出していた。
俺は今、間違いなくこの鉄の巨体を操るパイロットとして、死地のど真ん中に立っている。
左のペダルを踏み込み、機体の姿勢を立て直す。
ズシンと重い駆動音が足元から伝わってきた。
その瞬間、脳の奥で奇妙な違和感が弾けた。
重い。
機体の反応が、俺の感覚より遅いのだ。
全身を覆う漆黒の装甲が、まるで足枷のようにルベルジンの動きを鈍らせている。
俺の知っている機体は、こんなに鈍重だったか。
記憶はない。
だが、肉体に染みついた操縦感覚が、今の機体バランスを明確に否定していた。
右手に握られた大剣の重さも異常な重さだった。
白と黒で構成された長大な剣。
敵の爪を弾き返すたびに、白い峰の部分からとてつもない反発力が手首に返ってくる。
これほど巨大で扱いにくい武器を、俺は本当にメインウェポンとして使っていたのか。
疑問が頭をかすめるが、考える時間は与えられない。
視界の端で、赤いセンサーの目が五つ動いた。
金属の竜どもが、砂埃に紛れて散開する。
前後左右からの同時攻撃だ。
あんな大剣を振り回していては、絶対に間に合わない。
俺は操縦桿を引き絞り、ルベルジンを防御姿勢に移行させた。
大剣の広い腹を盾の代わりにして、急所である関節部を隠す。
ガキン。
左肩の装甲に、敵の鋭い尻尾が叩きつけられた。
火花が散り、コックピット全体が激しく揺さぶられる。
歯を食いしばり、俺は機体のバランスを保った。
背後のトラックには、絶対に攻撃を届かせない。
ルベルジンの巨体を壁にして、あの女性を守り抜く。
だが、防戦一方ではいずれジリ貧になる。
敵は五匹。
こちらは機動力で完全に劣っている。
大剣の一撃を当てれば確実に粉砕できるが、当てるだけの隙がない。
打開策が必要だ。
モニターの数値を睨みつけ、機体のシステムログを高速で読み取る。
この重すぎる装甲、そして不自然なほど黒い腕。
何か、俺の知らない隠された機能があるはずだ。
システムのスキャンを走らせながら、俺は再び迫り来る敵影に備えた。
コンソールから、ノイズ混じりの声が響いた。
『もういい。あんたは逃げて。これは私のミスなの。だから、早く』
泣き出しそうな、それでいて必死に俺を気遣う女性の声だ。
俺は短く息を吐いた。
自分の名前も忘れた俺に、逃げる意味などあるものか。
操縦桿のグリップを、さらに強く握り込む。 操縦桿の冷たい感触が、俺の闘争心を静かに燃え上がらせた。
必ず、ここを突破する。
ーーーーーーーーーー
一匹が不用意に懐へ飛び込んできた。
モニターの赤い枠が、その動きを正確にトレースする。
大剣の峰を地面に突き立て、無理やり支点を作る。
機体の全重量を回転の遠心力に乗せた。
真っ黒な刃が、砂塵を切り裂いて横一文字に薙ぎ払われる。
ガギャッ。
大剣の質量が、小型竜の脆い装甲を紙切れのように叩き潰した。
火花が爆ぜ、オイルの雨がモニターを汚す。
粉々になった金属の残骸が、重力に従って熱砂の上へ転がった。
一匹排除。
だが、残る四匹は怯えるどころか、さらに鋭い牙を剥いて旋回する。
なぜあいつらは、執拗にこの場所を狙う。
ただの野生の肉食獣なら、もっと効率の悪い獲物は無視するはずだ。
俺の機体と、あの女性のトラック。 どちらも金属の塊に過ぎない。
それなのに、あいつらは周囲の岩場や他の残骸には目もくれず、一心不乱に俺たちを追い詰める。
カメラの焦点を、群れから少し外れた場所に合わせた。
一匹の小型竜が、先ほど破壊した仲間の残骸に頭を突っ込んでいる。
金属音を立てて、砕けたフレームをバリバリと咀嚼していた。
隣では、トラックから剥がれ落ちた防弾ガラスの破片を、別の個体が貪り食っている。
あいつらは金属を食べているのか。
戦うためではなく、エネルギーを補給するために、あえて構造物を破壊している。
この砂漠にある高強度の金属を、自分たちの身体に吸収し続けているのだ。
あいつらにとって、トラックや俺のルベルジンは、生き延びるための食糧に過ぎない。
ぞく、と背筋に冷たいものが走った。
ただの野生生物ではない。
この機体そのものが、奴らにとって最高級の栄養源として認識されている。
そう理解した瞬間、4匹が一斉に加速した。
俺の動きを封じるため、今度は連携して四方から同時に跳躍する。
正面の一匹を大剣で受け止め、同時に二匹が左右の腕に飛びつく。
装甲の隙間に鋭い牙が食い込み、油圧回路を食い破ろうと執拗に研がれる感触が、操縦桿を通じて脳に直結した。
機体の警告灯が、一段と激しく赤く点滅する。
このままでは、食い尽くされる。 俺はフットペダルを、限界まで蹴り込んだ。
コンソールの左側にあるサブモニターへ視線を向けた。
そこには、俺をここまで運んできた無人の輸送トラックのシステム画面が表示されている。
金属のトグルスイッチを三つ、下から上へ連続で弾き上げた。 カチ、カチ、カチと硬い音が鳴る。
続いて、黄色い枠で囲まれたオートパイロットの起動ボタンを親指で強く押し込んだ。
トラックの行き先を、一直線に広がる砂漠の奥へと設定する。
背後で、重低音のエンジンが唸りを上げた。
砂を巻き上げながら、俺の乗っていたトラックが猛スピードで走り出す。
巨大な金属の塊が、大きなロードノイズを立てて遠ざかっていく。
目論見は当たった。
ルベルジンに群がろうとしていた四匹の小型竜のうち、二匹がピタリと動きを止めた。
奴らの赤いセンサーの目が、逃げていくトラックの車体を捉える。
金属を喰うあいつらにとって、あれは新鮮で無防備な極上の餌だ。
二匹のアルヴィアが、俺を無視してトラックの方へ跳躍した。
残りの二匹は、すでにルベルジンの装甲に貼り付いている。
右腕と左脚に噛みつき、鋭い牙で漆黒の表面をガリガリと削っていた。
嫌な振動が操縦桿からダイレクトに伝わってくる。
だが、俺はそれを完全に無視した。
この鈍重なまでに分厚い装甲だ。
数秒噛まれた程度で、内部の回路まで届くはずがない。
俺は機体の防御力を信じ、両手の操縦桿を奥へと強く押し込んだ。
右足のフットペダルを、床板が軋むほど強烈に踏み抜く。
ルベルジンの脚部モーターが唸りを上げた。
凄まじい加速の重力が、俺の胸をシートに押し付ける。
装甲に貼り付いた二匹が振り落とされまいと爪を立て、青白い火花が視界を覆った。
鼓膜を破るような金属の摩擦音がコックピットに響き渡る。
構わず、俺は機体を囮のトラックの方向へ突進させた。
逃げるトラックの荷台に、ちょうど二匹のアルヴィアが飛び乗ったところだった。
鋭い爪を立て、金属のパネルを剥がそうと首を激しく振っている。
距離が急速に縮まる。
俺はシフトレバーの横にあるトリガーを引く。
両腕の油圧シリンダーが、シュウと白い蒸気を吹き出して限界まで膨張する。
ルベルジンはトラックに追いつく勢いのまま、あの白と黒の大剣を大きく右肩に振りかぶった。
装甲に張り付く敵の重みごと、腕を強引に持ち上げる。
ターゲットは、トラックの上の二匹だ。
狙いを細かく定める必要すらなかった。 ただ、この圧倒的な質量をまとめて叩きつけるだけだ。
俺はペダルから足を離し、操縦桿をあいつらに向かって思い切り引き絞った。
漆黒の刃が、太陽の光を飲み込みながら空を斜めに切り裂く。
ズガァァァン。
爆発のような轟音が砂漠の空気を震わせた。
大剣の分厚い質量が、二匹の小型竜をトラックの荷台ごと完全に粉砕していた。
回避する間もなく、金属のフレームがひしゃげ、ひどくねじ曲がる。
真っ黒な刃が二匹の胴体をまとめて両断し、そのまま荷台の装甲板に深く食い込んでいた。
緑色の冷却液とどす黒いオイルが、噴水のように周囲へぶちまけられる。
焦げた油の強烈な臭いが、換気口からコックピットに流れ込んできた。
熱風が機体を包み込む。
モニター越しに見えるのは、完全に機能を停止し、原型をとどめていない二つの鉄屑だ。
残る敵は、俺の機体に必死に貼り付いている二匹だけ。
破壊した二匹の残骸とトラックの燃料が反応し、鼓膜を破るような轟音が鳴り響いた。
直後、猛烈な爆風とオレンジ色の炎がルベルジンの巨体を包み込む。
コックピットの温度計が一気に跳ね上がり、肌を焼くような熱気が分厚い装甲を透過して伝わってきた。
焦げたオイルの臭いが一段と濃くなり、息をするだけで喉の奥が焼けるように痛む。
右腕と左脚に貼り付いていた二匹の小型竜が、その爆炎に過剰な反応を示した。
ガリガリと装甲を削っていた鋭い爪の動きが、ピタリと止まる。
金属を喰らうあいつらも、煙や高熱は嫌うらしい。
モニター越しに、奴らの赤いセンサーの目が炎を避けるように激しく明滅するのが見えた。
ギチリ、と不快な金属音を立てて、奴らがルベルジンの装甲から爪を抜く。
熱から逃れるため、後方へ大きく跳躍して一時退避を図ろうとしたのだ。
その瞬間、右腕と左脚に掛かっていた不均衡な重みがフッと消えた。
機体のバランスが劇的に軽くなる感触が、操縦桿を握る両手にはっきりと伝わってくる。
この隙を逃す手はない。
俺は右手で操縦桿を力強く手前に引き、トラックの残骸に食い込んでいた大剣を乱暴に引き抜いた。
同時に左手の親指で、コンソール側面にある姿勢制御用のスラスターボタンを連続で弾く。
カチカチというスイッチの感触とともに、背部から短い噴射音が響いた。
フットペダルを浅く踏み込み、機体の重心をわずかに傾ける。
両腕のシリンダー圧力を示すメーターが、赤い限界領域へ飛び込んだ。
後退しようと宙に浮いた二匹の姿が、メインモニターの照準のど真ん中に重なる。
俺は全身の筋肉を硬直させ、操縦桿を左から右へ、円を描くように思い切り振り抜いた。
ルベルジンの重厚な上半身が激しく捻られ、白と黒の大剣が横薙ぎの軌道を描く。
光を吸い込む漆黒の刃が、炎の壁を真っ二つに切り裂いた。
空中に逃れようとしていた二匹の胴体を、その凶悪な質量が同時に捉える。
硬質な装甲を叩き割る鈍い感触が、手首の骨をビリビリと震わせた。
分厚い鋼鉄の刃は二匹を抵抗ごとねじ伏せ、完全に両断して砂漠の彼方へ弾き飛ばす。
真っ二つになった残骸が熱砂に叩きつけられた瞬間、内部の動力炉が連鎖的に臨界を迎えた。
先ほどと同じ巨大な爆発が起こる。
真っ白な閃光が外部カメラを焼き、直後に圧倒的な衝撃波がコックピットを激しく揺さぶった。
シートベルトが肩に深く食い込み、俺は歯を食いしばって強烈な縦揺れに耐える。
視界を埋め尽くしていたモニターのノイズが、少しずつ晴れていく。
赤と黒の業火が渦巻く大爆発のど真ん中に、俺の機体は立っていた。
周囲の酸素が燃え尽き、気圧の変化で耳の奥がキーンと鳴っている。
俺は左右のレバーをゆっくりと手前へ引き、姿勢を低くしていたルベルジンの上体を起こした。
ペダルに均等な力をかけ、足元の踏み込みを深くする。
油圧モーターの重低音がうなりを上げ、コックピットの床面が水平に戻っていく。
周囲はまだ、トラックと敵の残骸が激しく燃え盛っていた。
オレンジ色の炎が、ルベルジンの漆黒の装甲を不気味に照らし出している。
右手に握られた大剣の刃だけが、炎の光すら反射せずに暗い闇を保ち続けていた。
関節部の隙間から、赤い冷却光が明滅し、白い蒸気が激しく噴き出す。
熱風がうねる爆炎の中から、黒い巨体がゆっくりとその全貌を現した。
俺は油まみれの空気を深く吸い込む。
戦いの終わりを告げる静寂に耳を澄ませた。
ーーーーーーーーーーーーーー
私は生きていた。
ひび割れた窓ガラス越しに、赤々と燃え盛る炎を見つめている。
つい数分前まで死の恐怖に震えていたメカニックだ。
極度の緊張が解け、運転席のシートで荒い息を繰り返している。
凄まじい爆発だった。
襲い掛かってきた五匹のアルヴィアは、完全に鉄屑と化している。
私の網膜には、あの真っ白な閃光がまだ焼き付いていた。
熱砂の海に咲いた恐ろしくも美しい光を、私はきっと一生忘れない。
焦げたオイルの臭いが、ひしゃげたドアの隙間から入り込んでくる。
炎の向こう側で、真っ黒な巨体が静かに動きを止めた。
関節の隙間からシューッと白い蒸気を激しく吐き出す。
機体がゆっくりと膝を折り、砂漠の上に低い姿勢をとった。
胸部の分厚い装甲がスライドし、重い排気音とともにハッチが開く。 薄暗いコックピットの中から、一人の人影が姿を現した。
パイロットだ。
彼は機体のフレームに手を掛け、よろよろとした足取りで外へ出てくる。
装甲を伝って降りる動きは、ひどく重くぎこちない。
戦闘の衝撃で、彼自身も相当なダメージを負っているのは明らかだった。
砂の上に降り立った途端、ガクンと膝を揺らして倒れそうになっている。
私は慌ててシートベルトのバックルを叩き外した。
歪んだ運転席のドアを、肩から体当たりするようにして蹴り開ける。
肌を焼くような熱風が、全身を容赦なく包み込んだ。
それでも私は砂埃を蹴り立て、フラフラと歩き出した彼のもとへ駆け寄る。
間近で見たパイロットは、私とそう変わらない年齢の青年だった。
無造作な黒髪に、鮮やかな白いメッシュが入っている。
灼熱の砂漠には完全に不釣り合いな、分厚い真っ赤なマフラーを首に巻いていた。
黒いシャツの上から着ているのは、裾の長い真っ白な上着だ。
古い文献で見たことのある、東洋の羽織のようなゆったりとした形をしている。
赤いマフラーと、白い羽織。
あの黒い侍のような機体と同じくらい、ちぐはぐで強烈な印象を放つ姿だ。
彼は重い足を引きずりながら、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
炎の光を反射するその瞳は、透き通るような真紅の色をしている。 私は彼の手前で立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
「助けてくれて、ほんとありがとう!!」
砂を噛んだように、声がひどく掠れていた。
それでも、命を救ってくれた感謝だけは絶対に今すぐ伝えたかった。
彼は少し驚いたように赤い目を丸くし、小さく息を吐く。
私はカラカラに乾いた喉を鳴らし、自分の胸に手を当てた。
「私はユミィ。ユミィ・ディアル。あんた、本当にすごい無茶をするね」
相手の素性も分からないまま、私は無我夢中で言葉を投げかけていた。
世界一のメカニックを目指す私の直感が、目の前の青年に強い興味を抱いている。
赤い瞳が私をじっと見つめ返し、熱風が彼の白い羽織を大きく揺らした。
燃えるアルヴィアの残骸から、パチパチと火の粉が爆ぜる音が聞こえる。
赤い目をした青年は、口を少し開けたまま私をじっと見下ろしていた。
ぐうう、と情けない音が熱風に混ざって響いた。 彼の腹の虫が鳴いた音だ。
死闘の直後なのだから無理もない。 私は張り詰めていた肩の力を抜き、ふっと笑みをこぼした。
腰のツールポーチの小さなポケットを探る。
中から、ラップに包まれた携帯用の食糧を取り出した。 私の今日の昼ごはんになるはずだった、ただの塩おむすびだ。
砂がつかないように丁寧にラップを剥がし、彼に向かって差し出す。
「食べるよね。ほら」
彼は少し戸惑ったように、赤いマフラーの裾を揺らして私を見た。
それでも空腹には勝てなかったのか、ゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取る。
両手で大切そうに持ち、大きく口を開けてかぶりついた。
塩と米の素朴な匂いが、鼻を突く焦げたオイルの臭いを少しだけ中和してくれる。
よほどお腹が空いていたらしい。
あっという間に平らげていく彼を見ながら、私は本題を切り出した。
「それで、あなたの名前はなんていうの」
ごくりと喉を鳴らして米を飲み込み、彼は赤い目を伏せた。
しばらく沈黙したあと、小さな声で答える。
「分からない」
予想外の返答に、私は思わず首を傾げた。 聞き間違いだろうか。
「分からないって、自分の名前が」
「ああ。何も思い出せない。自分が誰なのかも」
彼の低く落ち着いた声は、冗談を言っているようには全く聞こえなかった。
記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。
何だそれは。
そんな危うい状態で、あんな命がけの戦闘をやっていたというのか。
「じゃあ、あの黒い機体のことは。あれも何なのか分からないの」
私は背後にそびえ立つ、熱を放ち続ける巨体を指さした。 青年は指の先に残った米粒を舐めとり、ゆっくりと機体を見上げる。
「ルベルジン」
ボソリと、彼が短く呟いた。
それが、あの機体の名前らしい。
ルベルジン。
私のメカニック知識のデータベースには、全く存在しない単語だった。
だが、その響きを聞いた瞬間、私の中の技術者としての血が激しく沸騰し始めた。
あの圧倒的な戦闘を思い出し、興奮が抑えきれなくなる。
「ルベルジンっていうのね。あれ、本当に信じられない機体だよ」
気がつけば、私は彼との距離を詰め、前のめりになって早口でまくしたてていた。
「あんな重装甲なのに、なんであんなに動けるの。関節部のシーリングはどうなってるの」
彼は少しだけ後ろにのけぞる。
構わず、私は言葉をぶつけ続けた。
「あの白と黒の大剣も異常だよ。あんな質量を振り回すなんて、普通なら腕のシリンダーが三秒で焼き切れる。でも、装甲がなくて白く露出してたあの腕は、完全に負荷を逃がしてた。」
息継ぎも忘れて、私は両手で大剣の形をジェスチャーしながら熱弁する。
私の声は砂漠の空気に吸い込まれ、青年の困惑した顔にぶつかっていく。
記憶がない相手にこんな専門的なことを聞いても無駄だと、頭の片隅では分かっている。
それでも、あの常識外れの機体を前にして、語らずにはいられなかった。
彼は赤い目を白黒させながら、ただ黙って私の勢いに圧倒されている。
炎を背にした白い羽織の青年と、興奮して喋り続ける私。
凄惨な戦場の跡地で、妙に間抜けで平和な時間が流れていた。
一気にまくしたてたせいで、ひどく息が切れた。
少しむせると、焦げたオイルの臭いが肺の奥まで入ってきて咳き込んでしまう。
目の前の青年は、空になったラップを握りしめたまま、ポカンと私を見ていた。
私は大きく深呼吸をして、熱くなりすぎた頭を冷やす。
「ごめん。命の恩人をいきなり質問攻めにしちゃった」
もう一度、私は彼に向かって深く頭を下げた。
「本当にありがとう。あなたが来てくれなかったら、私、絶対に死んでたよ」
顔を上げると、赤い瞳が静かに私を見つり返してくる。
それにしても、記憶がないというのは本当なのだろうか。
自分の名前すら思い出せないのに、あんな凄まじい動きで巨大な機体を操っていたのだ。
機体自体の異常な性能だけじゃない。
あの小型竜の群れを冷静に分断し、無人のトラックを囮に使って一網打尽にしたあの戦術。
実戦に慣れきった人間の動きだった。
どこかの激戦区を渡り歩いてきた、凄腕の傭兵だったりするのだろうか。
首に巻かれた赤いマフラーが、熱風でパタパタと乾いた音を立てて揺れている。
どう見ても、その辺にいる少し変わった服の青年にしか見えない。
私は少しだけ首を振って、再び彼に話しかけた。
「記憶がないってことは、さっき自分が戦った相手のことも分からないんだよね」
私は背後で真っ黒な煙を上げている残骸を指さした。 彼もつられたように、燃え盛る鉄屑へと視線を向ける。
「あれはアルヴィアっていうの」
私の言葉に、彼は不思議そうに目を細めた。
「鉄や機械を食べて生きている、機械の生命体だよ」
詳しい生態までは、私もよく知らない。
私が乗っていたトラックも、そしてあの黒い機体も、奴らにとってはただの美味しそうなご飯でしかなかったのだろう。
「あいつらは、あんたのルベルジンを食べようとして執拗に襲ってきたんだよ」
そう言うと、彼は自分の背後にしゃがみ込んでいる黒い巨体を振り返った。
分厚い漆黒の装甲には、アルヴィアの鋭い爪がつけた無数の引っかき傷が白く残っている。
彼はその傷跡をじっと見つめ、何かを考えるように押し黙った。
ーーーーーーーーーーーーー
遠くで黒い煙が空高く昇っている。
彼が私を助けるために囮に使った、トラックの成れの果てだ。
完全に原型を留めず、真っ黒な塊になっている。
あれがなければ、私は今頃あの小型竜たちの胃袋の中だった。
もう一度、自分のボロボロのトラックに目を向ける。
窓ガラスはひび割れ、フロント部分は爪痕だらけだ。
エンジンは完全に焼き切れている。
焦げた配線の臭いが、まだ鼻の奥にこびりついていた。
でも、私はメカニックだ。 応急処置で駆動系だけバイパスすれば、なんとか低速で動かすことはできる。
私は顔を上げ、白い羽織の青年を見た。
「あなたの足、なくなっちゃったね」
彼は遠くの煙を見つめたまま、小さく頷いた。
「私のトラック、なんとか直して動かすから。あんたの目的地まで送るよ」
感謝の気持ちを込めて、明るい声で提案する。
これくらいのお礼はさせてもらわないと気が済まない。
彼はゆっくりと私の方へ首を向けた。
赤い瞳が、困惑したように揺れている。
口が少し開いたまま、何も言葉が出てこないようだ。
その顔を見て、私は自分のミスに気がついた。
しまった。
私は思わず自分の額を叩きそうになった。
彼は記憶がないのだ。
自分の名前すら分からない人間が、行き先なんて覚えているわけがない。
彼はこの広大な熱砂の海で、完全に迷子なのだ。
過去も、帰る場所も、これから向かうべき目的地もない。
熱風に吹かれて赤いマフラーを揺らすその姿が、急にひどく孤独なものに見えた。
私は腰に当てていた手を下ろし、彼に向かって一歩踏み出した。
「ごめん、今のなし。あなた、行く当てなんてないよね」
彼は小さく息を吐き、静かに目を伏せた。 否定の言葉は返ってこない。
「決めた」
私は少しだけ声を大きくして宣言した。 彼が驚いたように顔を上げる。
「私の船においでよ」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「私の拠点。ちょっとした飛行艇を家にしてるんだ」
私は自分の胸をドンと叩いた。
「命の恩人を砂漠に放り出すなんて、私のプライドが許さない。記憶が戻るまで、私が面倒見てあげる」
もちろん、純粋な善意だけじゃない。
あのルベルジンという規格外の機体を、間近で徹底的に調べ尽くしたいという下心もたっぷりある。
でも、彼を一人にしておけないと思ったのは本当だ。
家族でも昔からの知り合いでもない、今日初めて会ったばかりの全くの赤の他人。
それでも、私たちはこの過酷な砂漠で、奇妙な縁で結ばれてしまったのだ。
彼は私と、背後で白い蒸気を吐き続ける自分の機体を交互に見比べた。
しばらくの間、乾いた風の音だけが私たちの間を通り抜ける。
やがて彼は、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「お世話になります」
見た目の印象とは裏腹に、とても丁寧で少し堅苦しい言葉だった。
私は吹き出しそうになるのを堪え、大きく頷き返した。
ーーーーーーーーーーーーー
ひしゃげたボンネットを素手で押し上げる。
焼け焦げた鉄の表面から、じりじりと熱が伝わってきた。
私は工具袋から太いレンチを引き抜き、焼け焦げた配線の奥にあるバイパス弁を思い切り叩く。
ガコンと鈍い音がして、死んでいたエンジンがゴボゴボと低い産声を上げた。
冷却システムは完全に死んでいる。
それでも、時速十キロで這うように進むだけなら、なんとか私の船までは持つはずだ。
私は油で黒く汚れた手の甲で、額に浮かんだ汗を拭い取った。
背後を振り返ると、赤いマフラーの青年が私の作業をじっと見つめている。
彼の視線を受け止めながら、私はこれからの予定を口にした。
「私の家はね、砂漠を走る車じゃないんだ。空を飛ぶ飛行艇なの」
彼は少しだけ目を丸くした。
「そこで仲間と一緒に、傭兵みたいな何でも屋をやってるの。危険な護衛から、ジャンクパーツの回収まで、お金になることなら何でもやるチームだよ」
「チーム名は、アヴェントゥラ。異国の言葉で、冒険って意味なんだって」
よし、これで私の自己紹介と現状の説明は終わりだ。
工具をポーチにしまいながら、私はふと重要な問題に気がついた。
彼の名だ。
記憶がないのは仕方ないにしても、これから一緒に生活するのに名前がないのは致命的に不便すぎる。
「ねえ」
声をかけると、赤い瞳がまっすぐに私を捉えた。
「これから私の船に乗るのに、あなたとか、ねえとか呼ぶのは不便だよ。名前、私がつけてもいい?」
彼は小さく首を傾げたあと、ゆっくりと縦に振った。
拒否する理由は彼にもないのだろう。
私は腕を組み、うーんと唸りながら思考を巡らせる。 砂漠の熱風が吹き抜け、彼の白い羽織と赤いマフラーを大きく揺らした。
視界の端で、アルヴィアの残骸がまだ黒い煙を上げているのが見える。
その炎を見た瞬間、私の脳裏にあの絶望的な状況を打破した景色がフラッシュバックした。
死を覚悟した暗闇の中で、全てを吹き飛ばしたあの巨大な爆発。
太陽のように眩しく、そしてひどく暖かかった、あの真っ白な閃光。
「ヒカリ」
気がつけば、その言葉が口からこぼれていた。 彼は自分の顔を指さし、不思議そうに瞬きをする。
「あなたが私を助けてくれた時の、あの爆発の光がすごく目に焼き付いてるの。だから、名前はヒカリ」
響きも悪くない。 彼は口の中で、ヒカリ、と音の感触を確かめるように呟いた。
「次は苗字だね」
私は再び腕を組んで天を仰いだ。
過去を持たず、行く当てもなくこの砂漠に現れた青年。
まるで風に吹かれて漂う、放浪者のようだ。
放浪。 ほうろう。
ほろ。
「ホロロギ、なんてどうかな。放浪のホロをもじって、ちょっと発音しやすくしてみたんだけど」
少し安直だっただろうか。 私は彼の反応を窺うように顔を覗き込んだ。
彼は目を伏せ、何度か小さく唇を動かしている。
「ヒカリ・ホロロギ」
低く落ち着いた声が、熱風の中に溶けていく。
「いい名前だ」
彼は顔を上げ、私に向かって少しだけ口角を上げた。
初めて見る、彼の微かな笑みだった。
赤い瞳の奥に、確かな意志の光が宿っているのを感じる。 私もつられて、大きく笑い返した。
「よし、決まり。今日からあんたはヒカリ・ホロロギ。私のアヴェントゥラへようこそ、ヒカリ」
焦げ臭い風が吹き抜けるスクラップの山の前で。
記憶を失くした名もなきパイロットは、ここで新しく自分の名前を手に入れたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ユミィが工具袋のジッパーを引く甲高い音が、耳に届いた。
俺は自分の両手を開き、手のひらをじっと見つめ直す。
先ほどまで無意識のうちに、操縦桿を握り潰すほどの力で引いていた自分の手だ。
視界に映るのは、油と砂で汚れた自分の指先。
間違いなく、俺自身の感覚がここにある。 俺は自分の足でこの熱砂の上に立っているのだ。
じりじりと肌を焼く太陽の熱が、黒いシャツを通して直接伝わってくる。
俺の頭の中には、不気味なほどの空白しかなかった。
なぜ俺は、輸送トラックの機体の中で眠っていたのか。
あの黒い装甲のルベルジンは、一体誰が造り、なぜ俺が乗っていたのか。
疑問は次から次へと湧いてくる。
何より恐ろしいのは、自分の肉体に深く染み付いた記憶の矛盾だ。
俺は自分の名前すら思い出せない。
それなのに、機体を起動させる複雑な手順や、大剣を振るう重心の移動、敵を囮で誘導する戦術だけは、呼吸をするように自然に引き出すことができた。
頭は空っぽなのに、体だけが殺し合いの作法を完璧に覚えている。 自分の存在がひどく歪で、得体の知れない機械のように感じられていた。
でも、今は少しだけ違う。
胃袋の底には、さっきもらった塩むすびの確かな重みと温かさがある。
そして何より、俺には名前がある。
ヒカリ。 ホロロギ。
口の中で、音を出さずにその言葉の形を作ってみる。
舌の動きと唇の震えが、俺の脳に新しい情報をしっかりと刻み込んでいく。
ヒカリ・ホロロギ。
不思議な感覚だった。
つい数分前まで、俺はこの世界に繋ぎ止める杭を何一つ持っていなかった。
透明な幽霊のように、ただ砂漠の真ん中に放り出されただけの存在だったのだ。
それが今、たった一つの名前をもらっただけで、足の裏が力強く地面を踏みしめている感覚がある。
曖昧だった自分の輪郭が、くっきりと世界に浮き彫りになったような気がした。
胸の奥から、じんわりと熱いものが込み上げてくる。
嬉しい。 言葉にすればひどく単純だが、今の俺にはそれ以外の表現が見つからなかった。
応急処置を終えたユミィが、トラックのボンネットを力強く叩いた。
彼女は額の汗を手の甲で拭い、太陽を背にして俺に向かってニカッと笑いかける。
その顔には、車のエンジンから被った黒い煤がべったりと付いていた。
俺はルベルジンの大剣を振るい、群がる機械竜から彼女の命を守った。 それは事実だ。
でも、過去も未来もない絶対的な孤独の暗闇から引き上げられたのは、間違いなく俺の方だった。
帰る場所を与えられ、名前という確かな証明をもらったのだ。
助けたはずの俺が、彼女のその明るさに完全に救われている。
熱い風が吹き抜け、首に巻いた赤いマフラーがバタバタとはためく音がした。
俺は砂埃でかすむ空を見上げ、もう一度だけ、心の中で強く唱える。
ヒカリ。 それが、今日から始まる俺の全てだった。
ーーーーーーーーーー
ガタガタと悲鳴のような音を立てて、小さなトラックが砂漠を這い進んでいる。
俺はコックピットのモニター越しに、その痛々しい姿をじっと見下ろしていた。
本当なら、俺の乗るルベルジンはあのトラックの荷台で運ばれるはずだったのだ。
しかし、応急処置をしたばかりのトラックにそんな余力は残っていなかった。
俺がルベルジンを荷台に乗せようと片足を乗せた瞬間だった。
ミシミシと不吉な音が響き、トラックの車体が大きく傾いたのだ。
サスペンションが悲鳴を上げ、タイヤが熱砂に深く沈み込んでしまった。
このままでは荷台ごとフレームがへし折れてしまう。
ユミィが慌てて両手を振り回してストップをかけたため、俺は大人しく機体を砂の上へ戻した。
結局、トラックが先導し、俺のルベルジンがその後ろを歩いてついていくことになった。
モニターを拡大すると、運転席のユミィの姿がはっきりと見える。
エアコンのシステムが完全に死んでいるらしい。
彼女は窓を全開にして、首に巻いたタオルで何度も額の汗を拭っている。
灼熱の空気が直接車内に吹き込んでいるはずだ。
俺は操縦桿を軽く握り、足元のペダルをミリ単位で慎重に踏み込んだ。
人間の小走り程度の低速。
ルベルジンの圧倒的な出力を、これほどまでに殺して歩くのはひどく神経を使う。
少しでも油断してペダルを踏み込めば、巨大な足が猛烈な砂埃を巻き上げてしまう。
エアコンもなく窓を全開にしている彼女に、熱い砂を浴びせるわけにはいかない。
ズシン、ズシンと、重々しい足音が砂漠に響く。
機体が歩を進めるたびに、巨大な猛獣の首輪を無理やり引いているような奇妙な反発力が脚部から伝わってくる。
早く走らせろと、ルベルジンの内蔵システムが文句を言っているかのようだ。
俺は機体の振動をなだめるように、ゆっくりと均等なリズムでペダルを踏んだ。
やがて、網膜を焼くようだった太陽が、地平線の向こうへゆっくりと沈み始めた。
空の色が、オレンジから深い紫色へと劇的に変わっていく。
それと同時に、あれほど狂ったように高かった外気温が急激に下がり始めた。
装甲の表面温度を示すメーターの数値が、目に見えて落ちていく。 砂漠の夜は恐ろしいほど冷える。
トラックのテールランプが赤く光り、ゆっくりと停止した。
今日はここまでらしい。
俺もペダルから足を離し、ルベルジンの巨大な両足をその場に止めた。
エンジンの駆動をスリープ状態に切り替え、胸部のハッチを開く。
コックピットから外へ出た瞬間、凍りつくような冷たい風が全身を叩きつけた。
昼間の熱気が嘘のようだ。
俺は白い羽織の襟を合わせ、首元の赤いマフラーをきつく巻き直した。 装甲の段差を慎重に降りて、砂の上へ着地する。
トラックの陰では、すでに小さな焚き火がパチパチと赤い音を立てていた。
ユミィが木箱の破片を、火の中に放り込んでいる。
その火のすぐ横で、煤で真っ黒に汚れた小さな金属のポットが湯気を上げていた。
彼女は俺の足音に気づくと、パッと顔を上げて笑いかけた。
「お疲れ様、ヒカリ。歩きにくかったでしょ」
俺は小さく首を横に振りながら、焚き火のそばに腰を下ろした。
火の温もりが、冷え切ったズボン越しにじんわりと伝わってくる。
ユミィはポットの取っ手を布で掴み、凹みだらけのブリキのカップに黒い液体を注いだ。
湯気と一緒に、ひどく香ばしくて苦い匂いが鼻腔をくすぐる。
「はい、これ。今日の夕食にはちょっと早いけど」
彼女からブリキのカップを受け取る。
金属越しに伝わる熱さが、かじかんだ指先を心地よく溶かしていった。
カップの中の黒い水面には、焚き火の赤い光が揺れている。
俺は少しだけ息を吹きかけて熱を冷まし、ゆっくりと口をつけて傾けた。
甘い。 舌に触れた瞬間、暴力的なまでの強烈な甘さが口内を満たした。
ドロリとしているのではないかと錯覚するほどだ。
だが、その甘さの奥に、鼻を抜ける心地よい苦味と深いコクがある。
ゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、熱い液体が胃袋に落ちていく感覚がはっきりと分かった。
次の瞬間、戦いと歩行で完全に疲弊しきっていた脳の細胞が、バチバチと音を立てて覚醒していくのを感じた。
体の芯から熱が湧き上がり、指の先まで一気に血が巡る。
空っぽの記憶を抱えた不安も、全身の筋肉の強張りも、この一口がすべて吹き飛ばしてしまった。
俺は目を見開き、手の中のカップをまじまじと見つめた。 こんな飲み物があるのか。
俺がカップを見つめて固まっているのを見て、ユミィがクスクスと笑い声を上げた。
「どう、美味しい? ただの安いインスタントのコーヒーだけどね」
「疲れた時はこれに限るんだ。砂糖、親の仇みたいにたっぷり入れておいたからね」
彼女は自分のカップを両手で持ちながら、嬉しそうに目を細めた。
親の仇みたいに。 その表現の意味はよく分からなかったが、彼女の気遣いであることは痛いほど伝わってきた。
「ありがとう。すごく、うまい」
俺はもう一度カップに口をつけ、火傷しそうなほど熱いコーヒーをゆっくりと飲み込んだ。
過去の記憶は相変わらず闇の中だ。
自分が今まで何を食べて生きてきたのかすら、まったく思い出せない。
だが、この甘くて温かい味だけは、これから先ずっと忘れない気がした。
パチパチと薪が爆ぜる乾いた音が、静まり返った砂漠の闇に溶けていく。
ブリキのカップを両手で包み込んでいるが、中のコーヒーはすっかり冷めていた。
それでも、口の中に残る暴力的なまでの甘さが、張り詰めていた神経を心地よく解きほぐしてくれる。
俺は焚き火の赤い炎をじっと見つめ、その熱を白い羽織越しに受け止めていた。
昼間のうだるような熱気が嘘のように、夜の空気は冷たく肌を刺す。
砂漠の夜は、すべてを拒絶するように冷酷に冷え込んでいく。
少し離れた暗闇の中に、ルベルジンが静かに佇んでいた。
焚き火の微かな明かりが、その漆黒の重装甲を不気味に浮かび上がらせている。
ユミィは膝の上に小さな端末を広げ、熱心に画面を指でなぞっていた。
昼間のうちに彼女が機体を外側からスキャンして集めた、詳細な外観データが表示されている。
光る画面を見つめる彼女の瞳には、昼間の戦闘時と同じくらい強烈な輝きが宿っていた。
「やっぱりこのルベルジン、どう考えても違和感あるんだよねぇ」
ユミィが画面を俺の方へ向けながら、グイと身を乗り出してきた。
彼女の細い指が、画面に映る黒い巨体の頭部を激しく叩く。
「見てよ、この頭部にある二本の大きな角みたいなパーツ。
古い文献にある侍の兜の意匠にそっくりなの。それに赤いセンサー。今は眠ってるみたいに消灯してるけど、起動したときの輝度が普通じゃない。
あんなの完全に敵を威圧して恐怖を植え付けるための、過剰な設計」
彼女は息を荒くしながら、さらに画面をスクロールさせていく。
言葉の端々に、メカニックとしての純粋な知的好奇心と興奮が混ざり合っていた。
「全身をこれだけ分厚い黒い装甲でガチガチに固めてるのに、肩の下の二の腕とか、太ももの内側のフレームだけが、不自然なほど真っ白で剥き出しになってる。
普通、こういう関節の隙間っていうのは、一番守らなきゃいけない弱点じゃない。なのに、あえて白い部分を外に晒してる」
ユミィはそこで一度言葉を切り、焚き火の向こうにある実物のルベルジンを見つめた。 火の粉が舞い上がり、黒い装甲に当たって消える。
彼女は小さな顎に手を当てて、うーんと深く唸った。 パチパチと火が鳴る中で、彼女の呟きが少しトーンを落とす。
「もしかして、この黒い装甲って拘束具か、あるいは、まだ開発途中で未完成のまま、無理やりこの黒い鉄板を貼り付けた状態。そんな違和感があるんだよね。」
未完成。
ユミィのその言葉が、俺の耳の奥に不思議な響きを持って残った。
記憶を失くし、中身が空っぽのまま、この砂漠に放り出された俺。
そして、白い体を、無骨な黒い装甲で不格好に覆い隠したルベルジン。
俺たちはどこか似ているのかもしれないと、冷えたコーヒーを口に含みながら思った。
「それに、あの白と黒の大剣も異常だよ」
ユミィの細い指が、再び画面のデータを激しくスライドさせる。 彼女の持論展開は、夜が深まるにつれてさらに熱を帯びていった。
彼女は興奮のあまり、両手を大きく広げて大剣の軌道をなぞるような動作をしてみせた。
その声は、広大な砂漠の夜空へとどこまでも吸い込まれていく。
俺はただ、黙って彼女の横顔を見ていた。
トルクがどうとか、シリンダーの圧力比がどうとか、彼女の口から出る専門的なロボット論の半分も理解できていない。
知識のない俺にとって、それはただの難解な呪文のようなものだった。
けれど、嫌な気分では全くなかった。
自分の正体も分からず、得体の知れないバケモノのような機体を操っていた自分。
そんな俺の心の中にある恐怖や不安を、彼女は技術者としての視点から、一つの素晴らしい芸術品として解き明かしてくれているようだった。
彼女が熱く語れば語るほど、俺の中の得体の知れない輪郭が、少しずつ肯定されていくような気がした。
冷たい夜風が吹き抜け、俺の首元に巻かれた赤いマフラーを優しく揺らした。
焚き火の温もりが、白い羽織を通して全身をじんわりと包み込んでいる。 ユミィの早口な声が、少しずつ耳の奥で心地よいリズムへと変わっていった。
彼女の声の抑揚が、パチパチと鳴る薪の音と完全に重なり合っていく。
それはまるで、遠い昔にどこかで聞いたことがあるような、ないような、ひどく穏やかな子守唄のようだった。
昼間の死闘での緊張と、ルベルジンを微速で歩かせ続けた疲労が、一気に身体の奥底から押し寄せてくる。
急激な眠気が脳を支配し、手の中のブリキのカップがわずかに傾きそうになった。
俺は必死に意識を保とうと、何度か強く瞬きを繰り返す。
だが、重くなった瞼は重力に逆らうことができない。
炎の向こう側で身振り手振りを交えて喋るユミィの姿が、ゆっくりと霞んでいく。
俺の頭が、コクンと小さく前に揺れた。
「あ、ごめん。疲れ果ててる人に、私ったら何熱くなって喋り続けてるんだろ」
ユミィの声が、急にトーンを落として柔らかくなった。
彼女はバツが悪そうに苦笑いしながら、携帯端末の画面をパッと消した。
辺りの視界が、一瞬で焚き火の赤い光だけになる。
彼女は俺の手から、冷え切ったカップをそっと取り上げた。
その時に触れた彼女の指先が、驚くほど温かかったのを覚えている。
ユミィはカップを地面に置くと、少しだけ真面目な、けれどひどく優しい顔をして俺を見つめた。
「本当に、ありがとね。ヒカリ」
その呟きは、夜風の音にかき消されそうなほど小さかった。
でも、俺の耳にははっきりと届いた。
そして、焚き火のすぐ横の熱砂の上に、ゆっくりと身体を横たえた。
砂が擦れるサラサラとした音が、静寂の中に響く。
彼女は小さく丸くなって目を閉じ、規則正しい、穏やかな寝息を立て始めた。
俺もそれを見届けるようにして、自分の身体を砂の上へと預けた。
背中に伝わる砂の感触は、冷たくもあり、どこか包み込んでくれるような確かな安心感があった。
暗闇の奥で、ルベルジンの機体各所から漏れていた微かな電子音が完全に消える。
俺は深い眠りの底へと、ゆっくりと落ちていった。




