二人の騎士の過去
そっと穴に目を近づけ、外の様子を伺う。
「……あ」
外では、焚き火の明かりがぽつんと暗闇を照らしていた。
焚き火を挟むようにして、どこから運んできたのか、座るのにちょうどいい大きさに切りそろえられた『二つの丸太』が置かれていた。
その丸太の上に、それぞれガルム卿とリュカ卿が腰掛け、静かに作業をしていたのだ。
洗濯機で綺麗になった甲冑のインナーを着込み、髪を乾かした二人は、一見するとどこかのキャンプ場でくつろぐ旅人のようだった。
リュカは手元に小さな砥石を持ち、自分の剣の刃を静かに研いでいた。
シャー……シャー……と、規則正しい研磨音が夜の静寂に響く。
一方のガルムは、大きな厚革の布を手に取り、自分の胸甲(胸当て)を黙々と磨き上げていた。布でこするたびに、真鍮や鋼の鈍い光が焚き火の炎を反射して鈍く光る。
二人はしばらく無言で作業を続けていたが、やがてリュカが砥石を動かす手をピタリと止めた。
「……ガルム先輩」
静かな声だった。
リュカは焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと問いかけた。
「どうして……どうしてそこまで、セレスティア嬢のことを疑うのですか?」
ガルムの胸甲を磨く手が、ほんの一瞬だけ止まった。だが、すぐに彼は再び黙々と布を動かし始め、感情の読めない低い声で答えた。
「……疑って当然だろう。奴は悪名高き公爵令嬢だ」
「先ほど、僕の不意打ちに対しても、彼女はただ怯えて転ぶだけでした。魔女でないことは、もう明白のはずです。それなのに……なぜ先輩は、そこまで彼女の中に『悪』を見出そうとするのですか?」
ガルムはしばらく無言で胸甲を磨き続けていた。
夜風が二人の間を吹き抜け、焚き火のパチパチという音だけが響く。
やがて、ガルムは重い口を開いた。
「……誰にも言ったことはなかった」
その声は、普段の厳格な騎士のそれではなく、傷を抱えた一人の人間の苦しい掠れ声だった。焚き火の揺らめく光が、彼の刻まれた眉間のシワと、暗い瞳を陰惨に浮かび上がらせる。
「お前にも話したことはないな、リュカ。……だが、もうお前以外に話す相手もいないからな」
リュカは黙って、ガルムの言葉を待った。私も壁の穴に耳を近づけ、息を殺して耳を澄ませた。
「……俺がまだ剣を握り始めたばかりの、騎士見習いだった頃の話だ」
ガルムの目が、遠い昔の記憶を辿るように細められた。
「俺の故郷は、王都から遠く離れた小さな農村だった。貧しいが、とにかく平和で良いところで……父も母も、幼かった妹も、皆で慎ましく笑って暮らしていた。……ある日、その村に『魔女』が現れたんだ」
「魔女……」
「そうだ。漆黒の衣を纏い、常人には理解できん禍々しい魔術を操る女だ。奴は村を自分の実験場にしようとした。俺は……若い正義感から、村を守るために無謀にも剣を抜いて魔女に立ち向かった。……だが、叶うはずもなかった」
ガルムの手が、ギシ……と強く甲冑を握りしめた。
「魔女は、俺の無謀な反抗を嘲笑い……『見せしめ』として、俺の目の前で……父と、母と、幼い妹を……残虐な方法で殺した」
リュカが息を呑む音が聞こえた。
「俺は……恐怖のあまり身体が動かず、ただ泣き叫びながら、家族が殺されていく様を見ていることしかできなかった……! 魔女は血に染まった手で俺の顎をしゃくり上げ……恍惚とした恐ろしい笑顔を浮かべて俺を見下ろすと……『絶望の顔が一番綺麗ね』と言い残し、俺を殺さずに生かして去っていったのだ」
ガルムの腕が、激しく震えていた。
「今でも……今でも夜、目を閉じると、父と母の断末魔が……妹が俺に助けを求める悲鳴が夢に出てきて、うなされて目が覚める。俺の生きる意味は……あのトラウマと、魔女への憎悪だけなんだ」
重々しい静寂が、焚き火の周りを包み込んだ。
ガルムの壮絶すぎる過去。
彼がなぜこれほどまでに「魔女」という存在を憎み、セレスティア(私)の中に魔女の影を見出して過剰に攻撃的になっていたのか、その理由が痛いほど理解できた。
彼はセレスティア個人を憎んでいたのではない。家族を殺した「魔女」という概念そのものに恐怖し、トラウマに囚われ、二度と誰かを失わないために必死で心に鎧を巻き付けていたのだ。
リュカは深く息を吐き出し、静かに頷いた。
「……そうだったのですね。ガルム先輩」
リュカの声には、深い同情と、どこか吹っ切れたような諦念が混ざっていた。
「……話してくださって、ありがとうございます。それで……ようやく腑に落ちました」
「何がだ?」
「なぜ、僕たち二人が『セレスティア嬢の護送役』に選ばれたのか、ということです」
リュカは研ぎ終えた剣を膝の上に置き、自身の掌を見つめた。
「僕は最初、先輩が優秀で、その先輩が僕を選んでくれたのだと、勝手に思っていました。ですが……違ったのですね。僕たちはふたりとも……『魔女を強く憎む人生』を歩んできた人間だったから、選ばれたのですね」
ガルムは手を止め、静かにリュカへと視線を向けた。
「……リュカ、お前もなのか?」
「はい」
リュカは自嘲気味に微笑んだ。その笑顔は、普段の柔らかい彼からは想像もつかないほど、悲痛な色を帯びていた。
「僕がまだ、物心ついたばかりの幼い頃でした。僕の故郷の村も……ある日突然現れた『魔女』によって、一晩で焼き払われたのです」
リュカの澄んだ瞳に、揺らめく焚き火の炎が映り込む。
「僕の両親は、僕が生まれてすぐに隣国との戦争で亡くなっていました。だから僕は、村の小さな家で、優しい祖父と祖母の二人家族に育てられていたのです。……あの日、僕は隣町への配達の手伝いに駆り出されていて、たまたま村を離れていました。だから、無事だった」
リュカの拳が、ぎゅっと握りしめられた。
「町から戻ってきた時……僕の目に飛び込んできたのは、燃え盛る黒い炎と、全滅した村でした。生き残った数少ない村人たちと一緒に、恐る恐る村の中へ入っていったのですが……どの家も、木も、畑も……跡形もなく、黒い煤へと変わり果てていました」
「……」
「自宅の焼け跡の中には……逃げ遅れた祖父と祖母が……お互いをかばい合うようにして横たわる、黒焦げの遺体が残されていました。……あの光景と、焦げ付いた臭いを……僕は一生、忘れることができないんです」
リュカは静かに空を見上げた。一年中沈まない太陽を遮る、あの巨大なクジラ型植物の影を見つめながら。
「だから……セレスティア嬢が『悪の令嬢』として弾劾され、さらに『魔女の疑い』をかけられて追放が決まった時……僕は志願したのです。もし彼女が本当に魔女なら、この手で引導を渡してやろうとすら、最初は思っていました。……ですが、実際に会ってみたら……彼女は、僕たちが憎んできたあの恐ろしい魔女とは、あまりにもかけ離れた存在だった。根拠はなかったですが、出会った瞬間に、そう感じたんです」
リュカはぽつりと呟き、ガルムを見た。
「ガルム先輩。僕も……魔女が許せません。過去を思い出すたび、胸が張り裂けそうになります。ですが……セレスティア嬢は、本当に魔女なのでしょうか? 僕は、こうしたいま、とてもそうは思えないんです。
ガルムは何も答えなかった。
ただ黙って厚革の布を握りしめ、揺らめく炎をじっと見つめ続けていた。
壁の穴から二人の会話を聞いていた私は、ゆっくりと目を離し、穴を塞いだ。
暗い部屋の中で、私はその場にへたり込み、胸のあたりを強く手で押さえた。
「……っ」
胸が、痛いほどに苦しかった。
ただの偏屈な頑固騎士だと思っていたガルム卿。
ただの理解ある癒し系騎士だと思っていたリュカ卿。
二人には、そんな壮絶で、救いのない悲しい過去があったのだ。
二人にとって「魔女」という存在は、単なる悪者ではなく、人生を狂わせ、家族を奪い去った絶対的な絶望の象徴だったのだ。
だからこそ、彼らは「魔女の疑い」をかけられたセレスティア(私)をあれほどまでに過剰に警戒し、憎み、恐れていた。
万が一セレスティアが本物の魔女だった場合、憎しみに囚われた二人なら容赦なく殺処分してくれるだろうという、冷酷な計算があったに違いない。
(……なんてことなの)
私は壁にもたれかかり、暗闇の中でうつむいた。
前世の記憶を取り戻す前のセレスティアは、身勝手で高慢な悪女だった。
けれど……まさか自分の知らないところで、こんな傷を抱えた騎士たちが、魔女に対して憎しみと恐怖を向けていたなんて。
そして今の私は、前世の記憶を持つただの一般人だ。
魔女の力なんて持っていないし、誰かを傷つけるつもりもない。
けれど……二人の抱えるその深い傷とトラウマを知ってしまった以上、ただ「誤解よ」と笑って済ませることなんて、絶対にできなかった。
(二人とも……ずっと、苦しかったのね)
静まり返った室内で、私は自分の胸の上に手を当てた。
外からは、変わらずパチパチと焚き火がはぜる音と、夜の風の音が聞こえてくる。
この言葉の通じない、恐ろしくも美しい「名もなき森」で。
傷を抱えた二人の騎士と、追放された元・悪役令嬢。
私たちは明日から、一体どうやって向き合っていけばいいのだろうか。
暗闇の中で、私の心は重く、静かに沈んでいくのだった。




