目覚めは絶望の馬車の中で
ガタガタ、ゴトゴト。
どんよりとした天候の中、容赦のない激しい縦揺れが、車輪から私の腰へと直接響き渡る。クッションなどという気の利いたものは一切ない、硬く冷たい木の座席。すでに私の華奢な体は、あちこちが青痣だらけになっていた。
窓枠のない小さな四角い穴から吹き込んでくるのは、ひどく乾燥した土埃まじりの風。それは私の銀色の髪を無惨に乱し、かつては極上と称賛された肌から容赦なく水分を奪い去っていく。
「……っ、痛ぁ……」
大きく車体が跳ねた瞬間、頭を思い切り壁に打ち付けた。
その強烈な衝撃と痛みが引き金だったのか、あるいは、極限状態にあった私の精神が限界を迎えたのかはわからない。
突如として、私の脳裏に「まったく別の人生」の記憶が、濁流のように流れ込んできた。
眩いネオンの光。満員電車の息苦しさ。
深夜のワンルームマンションで、安売りされていた豚肉を丁寧に下処理しながら、スマートフォンで新作のデパコスのレビュー動画を眺めている自分。
週末には、学生時代からの古い友人たちと一緒に買い物したり、旅行したりして、平凡だけれどそれなりに楽しい日々を送っていた、ごく普通の会社員。
それが、「前世の私」だった。
そして同時に、今現在、自分が置かれている状況の「正体」を完全に理解してしまった。
「嘘、でしょ……。ここ、『あのゲーム』の世界じゃない……!」
私は、前世で暇つぶしにプレイしていた乙女ゲーム『星降る王都のラビリンス』の世界に転生していたのだ。
それも、プレイヤーの分身である愛らしいヒロインではなく、彼女を執拗にいびり抜く悪役令嬢、セレスティア・ヴァン・エルロンドとして
問題は、ここからだった。
前世の記憶が戻ったことで、私の脳内には「これまでにセレスティア(=私)がしでかしてきた悪行」の記憶もまた、鮮明な映像として蘇ってきたのだ。
(待って……嘘でしょ? 私、何やってるの……!?)
思い出した過去の自分の行いに、私は血の気が引くのを感じた。
ゲームのシナリオ通り? いや、そんな生ぬるいものではない。記憶の中の私は、ヒロインである男爵令嬢アリシアに対して、文字通り「壮絶な」いじめを働いていた。
教科書を切り裂くなんて序の口。
アリシアを古い校舎の地下室に丸三日間閉じ込め、水も食事も与えずに放置した。
彼女が大切にしていた母親の形見のペンダントを、肥溜めに投げ捨てて笑い物にした。
さらには、実家の権力をフルに活用して、彼女の実家である男爵家に務める騎士の父親を、破産寸前まで追い込み、挙句に、アリシアを奴隷として売り飛ばそうと画策し、お抱えの暗殺者を使って彼女の食事に本物の致死性の毒を盛った――。
どれもこれも、一発で死刑か終身刑になるレベルの、正真正銘の凶悪犯罪だ。
つい数日前に行われた、あの忌まわしい夜会での出来事が、鮮明に脳内に再生される。
シャンデリアのまばゆい光の下で、私は婚約者であった王太子をはじめとする、ゲームの攻略対象キャラクターたち全員に囲まれていた。彼らの中心で、恐怖にガタガタと震えていたアリシア。
『セレスティア! 君の度重なるアリシアへの悪逆非道な振る舞い、もはや看過することはできない!』
『君のような冷酷で残虐な魔女は、王太子妃どころか、この国の人間として生かしておくわけにはいかない!』
当然の糾弾だった。
向けられる、全貴族からの冷たい蔑みの視線。底知れぬ敵意。
学園のアイドルである騎士団長の子息も、天才と謳われる魔術師も、裏社会を牛耳る美しき商会の主も、皆一様に、激しい怒りと嫌悪を剥き出しにして「セレスティアを追放せよ」と口を揃えた。
それは、一ミリの異論も挟む余地のない、満場一致の追放決議だった。
身分は完全に剥奪され、実家からも即座に義絶され、大陸の遥か彼方への永久追放。
死刑にならなかっただけ、王太子たちの、いや、ヒロインの慈悲だったのだ。
「……よりによって、すべてをやらかして、完全に詰んだ直後に前世の記憶を思い出すなんて。遅すぎるにも程があるわよ……!」
私は両手で顔を覆い、深い絶望のタメ息を吐き出した。
せめて学園に入学する前、いや、せめてアリシアに毒を盛る前なら、いくらでもやり直しようがあった。
だが、今の私は、前世の常識的なOLの精神を持ったまま、過去の自分がしでかした「狂気じみた犯罪」のツケを払わされている状態なのだ。自業自得。因果応報。愚行の極み。
客観的に見ても、このセレスティアという女は、今すぐ八つ裂きにされても文句は言えないレベルの悪女だった。シナリオ通りだけども。
私が向かっている追放先は、通称『名もなき森』
ゲーム内での設定を思い出し、私はさらに絶望のどん底へと叩き落とされた。
『名もなき森』
それは、ゲームの公式設定資料集にすら詳細が載っていない、超辺境の未開の地。
テキストでたった一行、『悪役令嬢は未開の地へと追放され、二度と歴史に名を残すことはなかった』とだけ書かれて処理される、いわば、プレイヤーの視界から完全に消去される「ゴミ捨て場」である。
どんな魔物が出るのか、どんな気候なのか、そもそも人が生きていける環境なのかすら、設定がない。公式の設定が「ない」ということは、救いも、イベントも、何も用意されていないということだ。
ただ、そこに放り出されて終わり。
「どうして……どうしてこんなことに。いや、私が悪いんだけど! 記憶が戻る前の私が全部悪いんだけど! でも、本当の私はあんな事してないし、絶対にしなかった……っ!」
ガタガタと震えるのは、決して馬車の揺れのせいだけではなかった。
未知への圧倒的な恐怖が、私の胸を激しく締め付ける。
せめて、この窮地を脱するような凄い魔法が使えないかと、私は自分の「才能」や「特技」について必死に考えてみた。
転生といえば、類まれな才能や能力。それでこの未開の地を大開拓……。
……しかし、私の脳内に浮かび上がったのは、戦闘には一切役に立たない絶望的な項目ばかりだった。
私の魔法適性は、極めて珍しいけれど極めて役に立たない『植物と話せること』。
ゲーム内では「悪役令嬢のくせに花と喋ってる」とプレイヤーからネタにされるだけの、単なるフレーバーテキストのような能力だ。王都の温室で、お高くとまったバラの愚痴を聞くくらいしか使い道がなかった。
他に私にできることといえば……前世の記憶から引き継いだ『メイクアップの知識』と『自炊(家庭料理)の技術』くらいである。
自分の顔の骨格に合わせたシェーディングの入れ方や、パーソナルカラーに合わせたリップの選び方には自信がある。冷蔵庫の余り物でパパッと美味しい肉じゃがやオムライスを作ることもできる。
「……サバイバルに、パーソナルカラーなんて関係ないじゃない……っ。オムライスを作ろうにも、フライパンも卵もないわよ……!」
こんなことなら、休日ごとに美容動画ばかり見ていないで、ディスカバリーチャンネルでサバイバル番組を穴が空くほど見ておけばよかった。
火の起こし方、食べられる野草の見分け方、罠の作り方。そういったものを身につけておけば良かったと、今更ながらに激しく後悔した。メイクの技術なんて、この荒野では泥を顔に塗ってカモフラージュするくらいにしか使えない。
「……見苦しいぞ。往生際が悪いな、罪人」
ふいに、馬車の外から低い声が掛けられた。
ビクッと肩を震わせて窓の外を見ると、並走する馬に跨った騎士が、冷ややかな視線を私に向けていた。




