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第34話:手作り樽の「工期(プロジェクト)」 —— 51歳、道具に逃げる】

「……ポチ。……俺は今、猛烈に自分を恥じとる。……一ヶ月。一ヶ月やぞ? 51歳の商社マンが、納期管理もできずに『自然の摂理』とか抜かして泥遊びしとったんや。……これは、俺の輝かしいキャリアにおける『隠蔽工作なしの純粋な無能』の証明や」


第33話での衝撃的な「指先スキルの再発見」から数時間。田中は、全裸で岩塩の床に座り込み、虚空を見つめていた。

指先をパチンと鳴らせば、あの仕事帰りに赤提灯で飲んだ「安酒」が無限に出てくる。一ヶ月かけて作った渋い実のドブロクを鼻で笑うような高純度の酒精が、脳のスイッチ一つで生成できる。その事実に気づいた瞬間、彼がこれまで必死に積み上げてきた「醸造の日々」は、一瞬にして生産性ゼロの「空残業」へと成り下がったのだ。


しかし、ここで「あー、便利になった。ラッキー」と納得できないのが、日本の高度経済成長期を支えた社畜のごうであった。


「……だがな、ポチ。……ただ指から出したもんを、そのまま掌で受けて飲むなんてのは、……それはただの『給水所の行列』や。……俺が求めていたのは、そんな効率化やない。……『不純な隠居』には、……それに見合うだけの『器』が必要なんやわ!!」


田中は立ち上がった。その目は、記憶を取り戻したことで逆に「道具への執着」という新たな狂気を宿していた。

彼は谷底を歩き回り、樹齢数百年はあろうかという、香りの良い「香木」の巨木を選び出した。かつて接待で訪れた山崎の蒸留所、あるいはスコットランドの古い写真で見た「樫のカスク」。あの、酒に深い色と香りを与える「魔法の器」を、自らの手で再現しようというのだ。


「……ええか。……ここからは商社マン田中の『資材調達・加工部門』の本領発揮や。……指先の水圧を、……『高圧ウォーターカッターモード』に切り替える。……誤差は0.1ミリも許さんぞ」


田中は全裸のまま、右手の指先から超高圧の細い水流を噴射した。シュォォォッという鋭い音と共に、硬い巨木が豆腐のように正確な厚みの板へと切り出されていく。

「樽には釘は一本も使わん。……板のカーブ(側板)を絶妙に削り出し、……最後にタガで締め上げる。……すると木の膨らみだけで、……一滴の漏れもない『究極の密閉』が完成するんや。……これが、職人の仕事や……!」


丸三日。田中は寝食を忘れ、全裸で木工作業に没頭した。

指先の水圧でバリを取り、岩塩の魔力を使って木材を急速に「シーズニング(乾燥)」させ、板と板の合わせ面を鏡面のように磨き上げる。

さらに、板を円筒形に並べた後、谷底に自生する鉄のように強靭な「つる」を編み上げ、即席のタガ(輪)を作り出した。

「……仕上げや、ポチ。……この蔦に魔力120%の温水を浴びせて膨張させ、……その後に一気に乾燥させて熱収縮させる。……これで、釘なしでも岩盤のような強度で締まるんやわ。……見てみろポチ、これが現場のソリューションや」


ポチは、そんな主人の異常な熱量に引き気味になりながらも、時折「ウゥー」と鳴いて、板の並びのズレを指摘(監査)する。全裸の男が指先から水を出しながら巨大な樽を組み上げる光景は、もはや狂気の沙汰であったが、田中の集中力は凄まじかった。


そしてついに、岩穴の中に一台の、小ぶりながらも美しい「手作り樽」が鎮座した。


「……よし。……ここに、俺の記憶にある『一番安くて、一番懐かしい味』を注ぎ込む。……セレスの野郎に飲ませてたような『大吟醸』なんかいらん。……俺が求めてるのは、……あの、……土曜の昼下がりに競馬中継を見ながら飲んだ、……あの『安売りの紙パックの麦焼酎』や!!」


田中が指先を樽の口に突っ込み、念じる。

トトトト……と、心地よい音を立てて、樽の中が酒精で満たされていく。

木材の香ばしい匂いと、安焼酎特有のツンとしたアルコール臭が混ざり合い、岩穴の中は、一瞬にして「新橋の高架下」のような、哀愁漂う聖域へと変貌した。


「……これや。……指から出すだけなら『残業』やけど、……自分で作った樽で寝かせれば、……それは『趣味』になるんや。……ポチ、……俺は今、……本当の意味でこの異世界の『王』になった気がするわ……」


田中は完成した樽の横で、全裸のまま満足げに目を細めた。

谷底に漂うのは、強大な魔力でも古龍の気配でもない。ただただ、一人の男がこだわり抜いた「不純で懐かしい酒の匂い」だけが、岩塩の壁に反響していた。

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