第127話:損切りの境界線
リベルタの夜は、泥を煮詰めたような重苦しさに包まれていた。
閉店後の酒場――その店内に、サトウからのハト便という名の「死刑宣告」が舞い降りてから、三時間が経過していた。
カウンターに置かれた、クシャクシャに握りつぶされた一通の指令。
『――ハンスの配置転換を検討せよ。一週間以内に成果が改善されない場合、当該ユニットは損失確定(損切り)対象とする。期待しているよ、店長』
ガストンは、その紙を睨みつけながら、酒ではなく白濁したスープを飲み干した。その指先は怒りで震えている。
「……期待しているよ、だ? ふざけやがって、あの餓鬼……!!」
■ 現場の摩耗
翌日。店は開店と同時に、昨日以上の混沌に叩き込まれた。
サトウのマニュアルが指示する「高効率回転」を維持するためには、客への丁寧な接客は罪悪であり、滞在時間の超過は損失でしかなかった。
「おい、まだ飲み終わってねえぞ! なんだその皿の下げ方は!」
「……申し訳、ございません。次の方をお通しするために……」
ハンスの声は、前日の失敗以来、完全に生気を失っていた。客を「人間」ではなく「回転率という数値」として見るように強いられた十歳の少年の眼窩は、一晩で黒ずみ、視線は泳いでいる。
ハンスは、サトウが設計した「第三テーブル」へと近寄る。そこには、リベルタ守備隊のならず者たちが三人、下卑た笑い声を上げながら居座っていた。ハンスは、サトウに叩き込まれた『情報取得プロトコル』を呪文のように脳内で反芻した。
(……三杯目。ここで誘導質問を……。兵站の動きを……。……バリュー、出さなきゃ……)
「あの……守備隊の皆さん……最近、お忙しいんですか? 装備の補充とか、たくさん……」
■ 暴力の暴発
その瞬間、荒くれ者の一人がハンスの胸ぐらを掴み、カウンターへと叩きつけた。
「――ガキ。昨日からチョロチョロと、何を探ってやがる」
「あぐっ……!」
ハンスの背中が、サトウの設計した「角を削っていない安価なカウンター」に強打される。鈍い音が店内に響き渡った。
「お前、さっきから守備隊の『動き』だの『備蓄』だの、ガキが聞くような話じゃねえな。どこのスパイだ、ああん?」
男の拳が、ハンスの腹部にめり込む。ドォォン!! という、肺から空気が全て漏れ出すような残酷な音。ハンスは白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
「ハンス!!」
ガストンが厨房から飛び出す。だが、それよりも早く、客席の空気が「暴力」という共通言語によって爆発的に加熱された。
「おいおい、店長。このガキ、守備隊の情報を探ってたぜ。これは重罪だ。……この店、まるごと『検閲』が必要だな?」
■ ガストンの「非効率」な守護
「……ハンスに触るんじゃねえ」
ガストンの声が、地を這うような重低音で響く。彼はマニュアルを、経営者としての理性を、その瞬間に完全に「損切り」した。
ガストンは、男の腕を万力のような力で掴み、そのまま床へと叩き伏せた。ベキィッ!! という、骨が不自然な方向に曲がる音が、静まり返った店内に木霊する。
「ここは俺の店だ。俺の部下を傷つける奴は、客じゃねえ。……叩き出せ!!」
店は地獄絵図と化した。椅子が飛び、テーブルがひっくり返り、サトウが「一単位金貨三枚」と計算した時間が、怒号と血飛沫によって磨り潰されていく。
■ ソフィアの「0.8%の観測」
騒乱の中、ソフィアだけはカウンターの隅で、微動だにせずその光景を眺めていた。彼女は知っていた。サトウがなぜ「0.8%のズレ」を検知できるのか。かつて帳簿検査の際、数字のリズムの狂いだけで不正を暴いたあの男の横顔を、彼女は忘れていない。
(……派手にやったわね、店長。これで今日の売上はマイナス。ハンスは機能停止。……オーナー様の『理論』からすれば、ここはもう閉鎖一択ね)
ソフィアは騒乱のどさくさに紛れ、ハンスのポケットから「サトウ直伝の質問リスト」を抜き取り、火鉢に投げ入れた。証拠隠滅。それはハンスを守るためではなく、この場所が自身の利権を産む拠点であり続けるための「合理的な処置」だった。
■ 遠隔地のサトウ:サンプル数「1」の確定
数時間後。リベルタの門が開くと同時に、夜通し馬を飛ばし続けた一台の馬車が、滑り込むように酒場の前に停まった。
報告書にある「乱闘による店舗の損壊」「売上の消失」「ハンスの重傷」を、サトウは車内の薄暗がりですでに処理し終えていた。
(……想定を上回る『バグ』だな。ハンスのユニット特性:耐久性不足。秘匿性欠如。店長の行動特性:感情による資産の過保護。……サンプルの蓄積を待つまでもない。一週間の猶予を切り上げる合理的理由が成立した)
サトウは馬車の扉を開け、冷たいリベルタの空気に触れた。
■ 結末:砕かれた希望
リベルタの店内で、ハンスはガストンの膝の上で意識を取り戻した。その目は、もはや何も映していなかった。
「……ガストンさん。僕……出力、出せなかった……。コストに、見合わなかった、んだ……。僕……いらない、子だ……」
「そんなことねえ! お前は、俺の……!!」
家族だ、という言葉をガストンが吐き出す前に、店の入り口に氷よりも冷たい眼差しを湛えた男――サトウが立っていた。
サトウは店内の惨状を一瞥した。その視線は、血を流し震える少年を見ているのではない。ただ「壊れた資産」を冷徹に検品しているに過ぎなかった。
サトウは最初の一言を放った。
「店長。本日の損失は想定の3.2倍だ。清掃コストの請求書は、君の来月の給与から差し引いておく。……さて、その『不良品』をこちらへ渡せ。損切り(セカンダリー・マーケット)の手配は既に済んでいる」
ガストンの腕の中で、ハンスの身体が、絶望に凍りついたように動かなくなった。




