8-聖女の声が、誰にも届かなくなる日
――――雨が降り続いていた。
王都の石畳は濡れ、人々は傘代わりの外套を翻しながら、噂を交わしていた。
「聖女様、また神託を……でも、こないだのってねぇ……」
「南の村が水に沈むとか言ってたけど、実際はただの小雨だったんだろ?」
「そうそう。神の怒りって言うから、畑も捨てたのに……何も起きなかったよ」
会話の端々に、ひそやかな嘲りが混じり始めていた。
かつて誰もがひれ伏した神の声は、今や的外れな口上として受け止められつつあった。
リアナは書庫の窓から、その様子を静かに見つめていた。
掌の上で揺れる紅茶の水面に、まるでミレーヌの顔が映るかのようだった。
「……時間の問題ね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
聖女ミレーヌ。
かつては天より選ばれし者と持て囃され、彼女の語る言葉ひとつで、貴族も兵も動いた。
けれど、予言は外れ、災厄は現れず、神託は実感を伴わない音となって散っていった。
それでも、彼女は語り続けた。
「神は告げました――北の峠にて、炎が走るでしょう」
「神は申しております――王宮の西塔に、疫が潜むと」
だが、どの神託にも確たる証はなく、事後には必ず神の慈悲で回避されたと、言い訳のような言葉が添えられた。
次第に、貴族たちは耳を貸さなくなった。
神官たちは、報告書に可能性の一端と脚注を添え始めた。
兵士たちは、「聖女様の命令」と言われても、首をかしげるようになった。
そして――王太子セドリックですら、徐々に口を閉ざし始めていた。
八月のある夜、リアナは神殿裏庭の回廊で、偶然セドリックとすれ違った。
ふと目が合い、彼は足を止める。
「……リアナ嬢。貴女は、彼女をどう見る?」
「彼女とは、ミレーヌ様のことですか?」
「そうだ。かつてのように、すべてを信じられるか……と、聞かれれば、私は……」
彼はそれ以上を言わなかった。
だが、リアナは分かっていた。
その沈黙こそが、セドリックという男の限界であり、転落の兆しだった。
そして、次の神託式典が開かれた日。
ミレーヌが白衣に身を包み、舞台に立ったとき、広場に集まった民衆の表情は、かつてのように輝いてはいなかった。
「神は、語りかけておられます……!」
張り上げられた声は、冷たい風に流された。
舞台下では、子供が退屈そうにあくびをし、老婆が「またか」と肩をすくめた。
リアナは最後列から、静かに見つめていた。
(その声が、誰にも届かなくなったとき――
聖女は、ただのひとりの女になる)
ミレーヌの唇が震える。視線が泳ぐ。
わかっているのだ。
かつてあれほど集まっていた信仰の眼差しが、今、自分を通り抜けていることを。
リアナはその様子を、何の感情もなく見つめていた。
すべては、自らが選んだ言葉で、自らを貶めてきた結果。
信仰とは、奪われるものではない。
――――信仰は、失わせるのだ。語る者自身の手で。