◆【幕間】敗者の景色
最初に狂ったのは音だった。
ゲルハルト・フェルゼンがこれまでの戦で聞いてきたのは剣の打ち合う音、焔の唸る音、兵の雄叫びだった。
だがその日、隘路に響いたのは――乾いた、鋭い、聞き慣れぬ破裂音だった。
何かが空気を裂いてまっすぐに飛ぶ音。
そしてその音のたびに彼の高位の魔法使いたちが倒れていった。
業火を練ろうと掌をかざした、その無防備な胴を見えざる何かが撃ち抜く。
豪奢な魔導師の装束が血に染まる。
焔を灯すことすらできぬまま。
――ゲルハルトは丘の上からその光景を見て、最初、何が起きているのか、まるで理解できなかった。
血に選ばれた高位の魔法使い。
1人で100人を薙ぎ払う絶対の力。
それが次々と無防備に崩れ落ちていく。
まるで的当ての人形のように。
「なに……を、されている……?」
彼の口から掠れた声が漏れた。
隘路の奥、岩陰。
そこに潜んでいたのは――みすぼらしい身なりの平民の若者たちだった。
その手には鉄の筒のようなものが握られている。
彼らがその筒を構え、引き金のようなものを引くたびにあの乾いた音が鳴り、彼の精鋭が討たれていく。
血の力もない名もなき平民が。
鉄の筒1つで。
血に選ばれた魔法使いを討っている。
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「馬鹿な」
ゲルハルトは呻いた。
「そんな、ことが……」
戦局はみるみる傾いていった。
切り札であるはずの高位魔法使いを失い、フェルゼンの軍に動揺が走る。
狭い隘路の中で500の数はもはや利ではなかった。
押し合い、同士討ちを生む枷へと変わっていた。
杭に足を止められ、丘の上から降り注ぐ爆ぜる火種盤の火に混乱させられ、整然としていたはずの隊列が内側から崩れていく。
血の力という彼の信じる"質"が。
地形と道具と数という平民の"仕組み"の前で押し戻されていた。
だがゲルハルトにはまだ、最後の切り札があった。
フェルゼン家、随一の大魔導士。
倒された者たちよりさらに格上の真の力の使い手。
彼はその大魔導士に命じた。
あの小賢しい隘路ごと辺境の悪あがきを焼き尽くせ、と。
大魔導士が両手を掲げる。
空気が軋み、これまでの業火とは比較にならぬ巨大な焔の渦が渦を巻き始めた。
あれが放たれれば隘路ごと敵の陣は蒸発する。
仕組みも道具も数も――すべて灰になる。
――これだ、とゲルハルトは思った。
これこそが血の力だ。
小賢しい仕掛けなど、真の力の前では意味を持たない。
その巨大な焔が放たれる、寸前だった。
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再びあの乾いた破裂音が幾つも重なった。
ゲルハルトの目が信じられぬものを見た。
無防備に業火を練っていた大魔導士のその胴を――鉄の筒の弾が盾の綻びを縫って、撃ち抜いたのだ。
渦巻いていた巨大な焔が放たれる寸前で、拠り所を失った。
制御を失い、四散し、暴発した膨大なマナが逆にフェルゼンの精鋭たちを呑み込んでいく。
大魔導士が崩れ落ちた。
その瞬間、ゲルハルト・フェルゼンの中で何かが音を立てて崩れた。
それは1人の魔導士の死ではなかった。
1つの戦の敗北でもなかった。
――彼が生まれてこのかた、疑ったことのないたった1つの真理。
血こそが力であり、その力は絶対であるという世界の"かたち"そのものが。
名もなき平民の鉄の筒1つによって砕かれた瞬間だった。
彼が生涯をかけて守ろうとしてきたその柱が。
目の前で、抜かれた。
「退け……退けぇっ!」
気づけば、ゲルハルトはそう叫んでいた。
誇りも大義もそのときはもう頭になかった。
あるのはただ、原初の恐怖だった。
彼は供回りに守られ、命からがら国境の彼方へと馬を駆った。
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敗走の道すがら、風が頬を切っていく。
ゲルハルトの胸を占めていたのは敗北の屈辱ではなかった。
もっと底の知れない冷たい恐怖だった。
――あれは何だったのか。
血の力を道具で肩代わりする。
血を持たぬ者に力を配る。
彼が隣領の芽のうちに焼き払おうとしたまさにその"異端の力"。
それは児戯などではなかった。
焼き払うどころか彼はその力に真正面から敗れたのだ。
血に選ばれた500の精鋭が名もなき平民の"仕組み"に。
そして恐怖の本質はそこではなかった。
もしあの力が1つの辺境で終わらぬとしたら。
もしあの鉄の筒があの仕組みが"再現できる"ものだとしたら――潰しても潰してもまた別の場所で生まれてくる。
焔と違い血のいらぬ力は教えられ、配られ、広がっていく。
今日、自分が敗れたのはその最初の一例にすぎないのではないか。
ゲルハルトは悟った。
自分は危うい芽を摘み取ろうとして――むしろ、その芽に"血統の力を破れる"という格好の証明の舞台を与えてしまったのではないか、と。
いずれこれは辺境の内輪の話では済まなくなる。
近隣へ。
国全体へ。
そしていつか――血の秩序を何より重んじる大陸の頂へも。
あの血統至上を掲げる北の帝国の足元へすらこの波は届くのかもしれない。
そのとき、この世界を治めてきた血の秩序はどうなる。
ゲルハルト・フェルゼンは遠ざかる辺境の空を一度だけ振り返った。
血の色の夕空の下、彼が"正しい世界"を守るために起こした戦は皮肉にもその世界の終わりの最初の狼煙を天高く上げてしまったのかもしれなかった。
――その報せはじきに王都へも届くだろう。
そして彼が感じたこの恐怖をいずれ、この国の中枢もまた味わうことになる。
血の秩序の守護者たちが。
血を何より重んじるあの帝国が。
彼にできたのはただ、馬を駆り、逃げることだけだった。
抜かれてしまった栓をもう、誰の手も元へは戻せない。
それだけは彼にもはっきりと分かっていた。
退却路の途中ゲルハルトは捨てられた盾を見た。
弾痕が1つ。
その小さな穴の向こうに500の軍を崩した新しい時代が覗いているようだった。
彼は盾を踏みつけ馬を進めた。
壊すべき異端だという確信は消えない。
ただ、その確信の底へ初めて恐怖が混じった。
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