第022話 血統魔法 vs 数
フェルゼンの軍勢は俺の描いた通り、隘路へと吸い込まれてきた。
数を頼んだ正面からの力押し。
500の兵が狭い道に雪崩れ込む。
だがその入り口で仕込んでおいた杭と絡み縄が先頭の足を止めた。
列が詰まる。
押し合いになる。
……ここまでは図の通りだ。
最初の火種盤で倒れた兵はほとんどいない。
それでも効果は数字以上だった。
先頭は白い閃光に目を塞がれ、後列は何が起きたか見えない。
前へ進めという命令と下がれという叫びが重なる。
フェルゼン軍の盾兵は訓練されていた。
30呼吸ほどで隊列を組み直し、短杭を盾で押さえ、絡み縄を剣で切る。
「止まりません!」
伝令が叫ぶ。
「止め続ける必要はない。次へ」
ルクスが黄旗を上げる。
北丘で縄が切られ、濡れた斜面を石が走った。
鎧を砕くほど大きな岩ではない。
だが足場の悪いところへ拳大の石が何十も落ちれば、盾列は頭上を守るため止まる。
その瞬間、南丘から2群目の火種盤。
音が反響し、馬が暴れる。
前の馬が横倒しになり、後ろの荷車を塞ぐ。
500という数が持つ重さが狭い道で自分たちを押し潰し始めた。
ゲルハルトの副官はすぐに対応した。
「弓兵、丘上へ斉射! 工兵は障害を除け! 後列は隘路外で待機!」
命令が旗で伝わる。
混乱の中でも敵は学ぶ。
3度目の火種盤が来る前に弓が丘へ降った。
村人たちは掘った窪地へ伏せる。
1人が間に合わず、肩へ矢を受けた。
「赤札!」
隣の者が叫ぶ。
救護班はすぐには出ない。
矢が止み、退避の角笛が鳴ってから2人1組で運ぶ。
助けたい気持ちより決めた時刻を優先する。
そうしなければ、救護者まで倒れる。
ラルフは投石班の縄を切り終え、負傷者の盾になるよう土嚢を立てた。
「次の石はない!」
「予定通り、槍班へ合流!」
班長の命令で、農夫たちは西小道へ下がる。
勝ったから退くのではない。
役割を終えたから退く。
敵弓兵が空になった丘へさらに2射を費やした。
その間に槍班が隘路奥で列を作る。
1つの仕掛けが敵を倒し切らなくても敵の時間と矢を奪い、次の班を生かす。
ルクスは地図の駒を動かす。
火種盤、残り32。
投石、北は終了。
南は1回。
魔導銃、未使用。
負傷、確認7。
死亡、不明。
数字を読む声が震えそうになる。
7人には名前がある。
それでも今、名前を思い浮かべれば命令が遅れる。
ルクスは歯を食いしばった。
数にするのは忘れるためではない。
全員を同時に救えない場所で、次に失う人数を減らすためだ。
「今だ! 爆ぜる火種盤!」
丘の斜面に伏せていた村人たちが一斉に爆ぜる火種盤を投げ落とす。
破裂音と閃光と火の粉が隘路に降り注いだ。
混乱するフェルゼンの兵。
悲鳴。
怒号。
狭い道の中で500の数は利ではなく、むしろ同士討ちを生む枷に変わっていた。
「効いてる……! ルクス様、効いてます!」
テオが興奮した声を上げる。
「まだだ。ここからが本番だ」
俺は地平を見据えたまま言った。
「敵の本当の力は――こんな、雑兵じゃない」
案の定だった。
混乱する自軍を押しのけるように隘路の奥から数人の男が進み出た。
豪奢な魔導師の装束。
フェルゼン家の高位魔法使いたちだ。
彼らが掌をかざすと――巨大な焔の塊が幾つも生まれた。
ディークの焔など、比較にならない。
1つ1つが家1軒を焼き払えるほどの業火。
それが丘の斜面へと放たれた。
「――伏せろ! 退避! 第三の合図!」
俺の指示が狼煙で伝わる。
村人たちがあらかじめ掘っておいた退避の窪みへと飛び込む。
業火が斜面を舐めた。
何人かは逃げ遅れ、火傷を負った。
悲鳴が上がる。
……これが血統魔法の力だった。
1人が数十人を焼き払う。
個の圧倒的な暴力。
俺の"数"は――その圧倒的な"質"の前にぐらりと揺らいだ。
高位魔術師は6人、前へ出た。
彼らは1列に並ばない。
2人が術式を練り、2人が防壁を張り、残りが交代する。
初戦でディークを破った時と同じ、組織された魔法。
血統の才だけではない。
才を隊として運用する仕組みを敵も持っている。
最初の業火が北丘へ走った。
窪地へ伏せた者の頭上を熱が舐める。
油布が燃え、残っていた火種盤の箱へ火が移りかける。
ティナが土を蹴り込み、蓋を閉めた。
2射目は南丘。
こちらは水路から引いた泥壁で受ける。
蒸気が一気に上がり、視界が白く消えた。
「南の合図が見えません!」
「角笛へ切り替え!」
1回、退避。
2回、待機。
煙で旗が消えることは前夜に決めた。
だが音も爆発と怒号の中では細い。
伝令が走る。
少年ではない。
戦闘区域用に選んだ騎士が盾を背負って南へ下る。
3射目。
業火は伝令の前を塞いだ。
彼は飛び退き、別の小道へ回る。
命令が届くまでの25呼吸が40、50へ延びる。
ルクスの仕組みは魔法で壊されている。
完全には壊れない。
旗が消えれば角笛。
角笛が届かなければ伝令。
1本目が塞がれば2本目の道。
冗長に見えた準備が炎の中で意味を持つ。
しかし代替手段を使うたび、時間は失われる。
北丘で1人が立ち上がった。
仲間の背へ火が移り、消そうとしたのだ。
次の火が彼を捉える。
ラルフが体当たりし、2人で窪地へ転がった。
ラルフの袖が燃える。
土へ腕を押しつけ、火を消す。
「俺は黄! まだ動ける!」
自分で分類を叫ぶ。
救護班は頷き、より重い者を先に運ぶ。
ルクスの胸が痛んだ。
人が仕組み通り動くことは冷たい光景ではない。
怖さと痛みの中で、自分より危険な者を先へ送る意志の集積だった。
魔術師の4射目が槍班の前へ落ちた。
土嚢が裂け、3人が吹き飛ぶ。
隊列が後ずさる。
「下がるな!」
騎士が叫ぶ。
ルクスは反対の命令を出した。
「槍班、第二線まで退け!」
「ここを渡します!」
「渡せ。敵を奥へ入れる」
第一線へ固執すれば、業火の的になる。
20歩下がれば、両側の岩がさらに狭くなり、一度に進める敵は6人。
そこが本当の槍線だ。
撤退の角笛。
兵たちは訓練通り、負傷者を2人で引き、盾を交互に後ろへ向けて下がる。
敵が歓声を上げた。
こちらが崩れたと思って追う。
狭い場所へさらに深く。
「今です、兄上」
ディークが北の窪地から立ち上がった。
残る焔隊は9人。
彼らは敵兵ではなく、空へ向けて焔を放つ。
巨大な火柱。
ファルケンハイトの血統がまだ生きていると見せつける光。
フェルゼンの魔術師たちが一斉にそちらを向いた。
防壁役の2人もディークの焔へ掌を向ける。
魔導銃の射線から守りが外れた。
---
「ルクス様!」
ヴェルナが隘路の陰から叫んだ。
「あの魔法使いどもをどうにかしなければ! このままでは焼き尽くされる!」
分かっていた。
あの高位魔法使いこそがフェルゼンの真の力だ。
あれを止めない限り、どんな仕組みも焼き払われて終わる。
だが――こちらの焔の使い手では格が違う。
まともに撃ち合えば、勝てない。
――だから俺は最初から"撃ち合う"つもりはなかった。
「ヴェルナ殿」
俺は静かに言った。
「予定通り。……"あれ"を使います」
「……よろしいのですか」
ヴェルナの声が硬い。
「一度抜けば……」
「村が焼かれる。それ以上の理由はいりません」
俺は隘路のいちばん奥、岩陰に隠しておいた者たちへ合図を送った。
テオと選び抜いた数人の若者。
彼らの手には――魔導銃が握られていた。
高位魔法使いたちは油断していた。
当然だ。
この距離で、彼らを脅かせる者などいない。
そう信じ切っている。
血統の力こそが絶対だと。
だからこそ、彼らは無防備に業火を練るためにその身をさらしていた。
「テオ」
俺は言った。
「――君の番だ」
6人の射手は岩陰で息を殺していた。
一番、テオ。
2番、ヴェルナ配下の兵。
3番から6番まで工房と村の若者。
狙う相手は事前に割り振ってある。
1人へ6発を重ねないためだ。
「白衣、左から1、2、3。防壁役は後ろの2人」
テオが小声で確認する。
射手の1人が震えていた。
銃口が石へ触れ、かすかな音を立てる。
「撃てない」
彼は正直に言った。
テオは責めなかった。
「6番、5番の目標も見る。5番は装填役へ」
役割が変わる。
引き金を引けなくても弾と魔力片を渡すことはできる。
戦場へ来た全員に人を殺せることを要求しない。
だが撃てない者がいる前提を持たなければ、残りの射線が空く。
ルクスは手を上げた。
まだ下ろさない。
敵魔術師の周囲には薄い風の防壁が残っている。
弓なら逸らされる。
魔導銃の弾が抜ける保証もない。
ディークの2本目の焔。
防壁役がさらに前へ出る。
その1人が術式を業火へ切り替えた。
風の膜が揺らぐ。
今。
ルクスが手を下ろす。
最初の破裂音。
テオの銃。
反動で肩が揺れる。
狙った魔術師の胸ではなく、腕へ当たった。
男が回転し、練っていた火球が崩れる。
2発目。
防壁役の腿。
3発目は岩を削った。
外れ。
4発目が白衣の腹へ入る。
5発目。
標的は動いている。
射手が追い、撃とうとした先へ味方兵が入り込む。
「待て!」
ヴェルナの声。
指が止まる。
味方が伏せる。
射線が開く。
5発目。
魔術師の肩を貫く。
6発目はない。
撃てないと告げた射手が装填役へ回ったからだ。
5発で、4人が倒れた。
死んだかは分からない。
だが術式は止まった。
業火が消える。
戦場にほんの一瞬、魔法のない空白が生まれた。
テオは銃を下ろせなかった。
撃った相手が地面で動いている。
訓練の鎧とは違う。
穴の向こうから血が流れる。
「テオ、装填!」
ルクスの声で、彼は戻った。
考えるのは後だ。
今は次に村人を焼こうとする者を止める。
使い終えた魔力片を抜く。
新しい1枚。
弾径を確かめた弾。
槊杖。
引き金から指を離したまま。
練習した順番が震える手を動かす。
敵の側では理解が追いついていなかった。
弓の音ではない。
魔法の光もない。
どこから攻撃されたか分からないまま、高位魔術師が倒れた。
兵が空を見上げる。
丘の魔術師を探す。
そこにいるのは粗末な服の少年と短い鉄筒だけ。
「平民が、魔法使いを殺した」
誰かの叫びが列を走る。
事実より速く恐怖が広がる。
1人が倒れた話が2人になり、6人になり、見えない魔法が貴族だけを狙うという噂へ変わる。
ゲルハルトの軍は血統魔法を中心に組まれている。
魔術師が盾を壊し、兵が進む。
魔術師が守り、兵が列を保つ。
中心が倒れた時、兵は次の命令を知らない。
ルクスが狙ったのは命ではない。
命令の流れだった。
「槍班、前へ! ただし石標を越えるな!」
第二線から盾と槍が押し出す。
敵の先頭は後ろへ下がろうとする。
しかし隘路外の後列はまだ前進命令のまま押してくる。
前と後ろが逆に動く。
狭い道で盾がぶつかる。
ディークの焔隊が側面へ火の帯を走らせ、退路を1つに絞る。
村人の第三群が最後の火種盤を投げる。
破裂。
閃光。
乾いた銃声とは違う音が重なり、敵は何に倒されるか分からなくなる。
ヴェルナが剣を抜いた。
「押せ! 追うな! 線まで!」
兵たちは命令を復唱する。
押せ。
追うな。
線まで。
勝ちの勢いに任せて深追いしない。
初戦のディークと同じ罠へ自分たちが入らないために。
乾いた、鋭い破裂音が幾つも重なった。
放たれた鉛の弾が無防備な魔法使いたちを撃ち抜く。
豪奢な装束が血に染まる。
業火を練っていた1人が崩れ落ちた。
もう1人も。
……あまりにあっけなく。
焔を灯すことすら、できないまま。
フェルゼンの軍に動揺が走った。
彼らの絶対の切り札。
血統の高位魔法使い。
それが――名もなき平民の鉄の筒に撃ち倒されたのだ。
「なっ……馬鹿な! 平民が魔法使いを……!?」
その動揺こそが俺の狙いだった。
血統の力を信じる者はその力が砕かれたとき、いちばん脆い。
拠り所を失うからだ。
「今です! ヴェルナ殿! 全軍、押し返せ!」
隘路の奥からヴェルナとディークの焔隊が突撃する。
丘の上からは爆ぜる火種盤の雨。
狭い道で、混乱し、切り札を失ったフェルゼンの軍は――数の利を活かせぬまま、じりじりと押し戻されていく。
血統の魔法という"質"に体系化された、地形と情報と道具と数という"仕組み"が――正面から拮抗し、そして押し始めていた。
---
ゲルハルトは退かなかった。
高位魔術師が倒れ、先鋒が押し戻されても本陣の旗は前へ出た。
彼は混乱する兵の間を馬で進み、自ら剣を抜く。
「見えぬ筒を恐れるな! 撃てる数は少ない! 盾を重ね、前へ出よ!」
正しい判断だった。
魔導銃は6丁。
すでに5発を使い、装填には時間がかかる。
恐怖の正体を数えれば、500を止める量ではない。
ゲルハルトは副官へ命じる。
精鋭50を南小道へ。
重盾兵を正面へ。
残った最上位魔術師を盾3枚で囲んで前進させる。
敵もまた、仕組みを組み直した。
重盾兵は短杭を踏み潰し、火種盤の残りが少ないことを見抜いて進む。
盾の隙間から弩が丘を狙う。
南小道では偽の轍に誘われた先頭が第二窪地へ入った。
ヴェルナ配下の伏兵が待つ。
だが敵は10人ではない。
50。
予定より多い。
「南から赤旗!」
伝令が叫ぶ。
突破の危険。
ルクスは予備隊を見る。
残るのはラルフたち村の槍兵20と負傷した焔隊6。
ここで南へ送れば正面の第二線が薄くなる。
送らなければ側面から魔導銃班を取られる。
どちらも正解ではない。
「ラルフ、12人で南へ。残り8人は正面」
「半分ずつで足りるか」
「足りない。だから時間を稼いで。倒そうとしなくていい。橋板を外し、狭いところで止める」
「承知!」
ラルフは笑わなかった。
自分の役割が最も危険な時間稼ぎだと分かっている。
それでも12人を率いて走った。
正面では盾に囲まれた魔術師が術式を完成させる。
これまでの業火より白い。
熱ではなく、光そのものに見えた。
「全班、伏せろ!」
白炎が隘路を貫く。
土嚢が焼け、槍の柄が炭になる。
第二線の左半分が消えた。
人が倒れる。
叫び声さえ炎に呑まれる。
ルクスの耳が一瞬何も聞こえなくなった。
テオが袖を引く。
「次の命令を!」
視界の端に倒れた者がいる。
名前を知っている。
育土杭を疑いながらも共同畑を貸した男。
工房へ炭を運んだ娘の父。
見なかったことにはできない。
だが今止まれば次の炎が来る。
「銃班、射点2へ移動! 正面槍班、右へ寄せろ。ディーク兄上、白炎を撃った魔術師へ焔を!」
命令が出る。
人が動く。
ディークの焔が盾列へぶつかる。
敵魔術師は次の術式へ入れない。
銃班は岩の裏を走る。
1人が弩の矢を脚に受けた。
銃を落とさないよう抱えたまま倒れる。
装填役だった若者が銃を受け取り代わりに射点へ入る。
役割は人に属していても仕事は止めない。
2度目の射撃。
3発。
盾1枚が弾を逸らす。
1発が貫き、魔術師の護衛を倒す。
最後の1発が術式板を砕いた。
白炎は2度目を放てなかった。
しかし正面の被害は消えない。
仕組みが血統魔法を上回ったのではない。
血統魔法の1撃を受けながら、それでも全体が止まらなかった。
その差だけが戦線を辛うじて支えていた。
だが戦はまだ終わっていなかった。
「……見事だ。実に見事だよ、小僧」
隘路の奥。
フェルゼンの本陣から1人の男が進み出た。
ひときわ豪奢な鎧。
フェルゼン領主ゲルハルト、その人だった。
彼の周りにはまだ温存されていた最精鋭の兵と――倒された者よりさらに格上の魔法使いが控えている。
「平民に魔法使いを討たせる、か。反吐が出る卑劣な策だ。だが――認めよう。貴様は危険だ」
領主の目が俺を射抜いた。
「ここで貴様をその忌々しい"仕組み"ごと根絶やしにする。……本当の地獄を見せてやろう」
彼が手を上げると温存されていた精鋭が一斉に動き出した。
押し返していたはずの戦局が再び軋みを上げる。
そして丘の斜面で――逃げ遅れた村人の1人が業火に呑まれかけていた。
俺の"仕組み"は勝ちを掴みかけている。
だがその勝利の代償が――今、まさにこの戦場で姿を現そうとしていた。
戦いの本当の決着は。
そしてその代償は。
――まだ、この隘路の火の中にあった。
ゲルハルト本隊が動くのと同時に南小道から別の角笛が響いた。
短く2回。
ラルフの班が使う後退の合図。
続いて1回。
退路遮断。
予定にない組み合わせだった。
「南が抜かれます!」
テオの声が裏返る。
地図の上では南小道は12人で半刻を稼げるはずだった。
だが敵精鋭は橋板を外される前に斥候を先へ渡していた。
伏兵の位置も偽の轍も見抜かれ始めている。
敵は同じ失敗を2度しない。
「ヴェルナ殿、予備の騎士を南へ」
「正面は?」
「兄上に預けます」
ディークが聞き、剣を上げた。
「行け! ここは私が保つ!」
少し前までならルクスの命令下に置かれることを拒んだ男が今は役割の継ぎ目を自ら引き受ける。
ヴェルナは騎士8人を連れ、南小道へ走った。
ルクスも後を追おうとする。
テオが腕を掴んだ。
「指揮所を空けたら正面の合図を出す人がいない!」
正しい。
ラルフを助けに行きたい。
だが自分が動けば100人の目が失われる。
「……ここに残る」
言葉が喉を削った。
指揮官の全権とは好きな者を助ける力ではない。
助けに行けない場所を選ぶ責任だった。
南の木立から炎が上がる。
味方の火種盤か敵の魔法か分からない。
角笛が一度。
2度。
途中で途切れた。
テオが記録板へ時刻を書く手を止めた。
「ラルフさんの班から報告が来ません」
ルクスは正面を見たまま答える。
「次の伝令を出して。2人1組。南小道には入らず第二窪地まで」
声は平らにした。
胸の内側では何かが冷たく沈んでいく。
正面ではゲルハルトが最精鋭を率いて進む。
南では村の若者たちが退路を守る。
魔導銃の残弾は減り、火種盤はほとんどない。
こちらは敵の切り札を砕いた。
敵の信じる秩序を揺らした。
それでも勝利はまだ名前を持たなかった。
ただ、誰かが稼いだ1呼吸ずつを燃やしながら、戦線が次の瞬間へ繋がっている。
ルクスは新しい旗を握った。
戦局は傾いた。
そして同じ角度で代償もこちらへ滑り落ち始めていた。
丘の下から担架が1つ上がってきた。
布をかけられた身体の靴をルクスは知っていた。
名前を呼びそうになり飲み込む。
今はまだ、確認する時ではない。
死者を数字にしないためにもまず生きている者を動かさなければならない。
「第三の旗を」
ルクスが言う。
テオが赤黒の旗を渡す。
敵本隊接近。
全班、最終線へ。
旗が上がると散らばっていた班が次の持ち場へ動いた。
泣く者も負傷した者も弾を込める者もいる。
数とは同じ人間を並べることではない。
違う恐怖、違う技量、違う傷を持つ者がそれでも互いの空いた場所を埋めることだった。
ゲルハルトの最精鋭が盾を揃える。
ディークの焔が低く燃える。
南からヴェルナの角笛が返る。
まだ戦線は切れていない。
ルクスは旗を振り下ろした。
次の衝突が始まった。
後方では救護班が新しい赤札を掲げた。
戦線が一歩進むたび、担架は反対へ一歩下がる。
勝利へ近づく動きと死から遠ざける動きが同じ隘路で逆向きに交差していた。
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