第013話 長兄の圧力
長兄ディークが北の砦から戻ったのは、工房の看板を掲げて3日後だった。
城門から歓声が上がる。
焔の隊を率い、北の魔物を退けた凱旋だ。
先頭を走る白馬の上で、ディークは赤い外套を翻していた。
20歳。
ファルケンハイト家の長男。
父に似た大きな体格と、母譲りの整った顔立ち。
何より、家伝の焔術を兄弟で最も強く受け継いだ、次期当主の筆頭候補。
兵も使用人も、彼へ敬意を向ける。
当然のことだ。
彼は実際に砦を守り、兵を率い、魔物を倒して戻った。
だが、出迎えの列の端で、使用人たちが別の噂を囁いている。
「南の村では、ルクス様が30頭を」
「平民まで戦わせたそうだ」
「ヴェルナ様が協力しているとか」
声を潜めても届く距離だった。
ディークの視線が俺へ向いた。
一瞬だけ。
けれど、その目に浮かんだものは見逃さなかった。
驚き。
疑い。
そして、不快感。
自分が命を懸けて得た勝利の横で、出来損ないの四男の噂が同じ重さで語られている。
面白いはずがない。
俺は深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、兄上。北の砦でのご勝利、お祝い申し上げます」
「……ああ」
短い返事。
彼は馬を降り、俺の前を通り過ぎた。
その日の夕方、呼び出しが来た。
予想より早い。
---
長兄の私室には、戦場の匂いが残っていた。
壁へ立てかけた剣。
泥の落ちきっていない長靴。
机には北の地図。
ディークは鎧を脱いでいたが、腰の剣は外していない。
「説明しろ」
挨拶より先に言われた。
「何についてでしょう」
「私が留守の間に、お前がしたことを全部だ」
怒鳴ってはいない。
だが声の底に焔がある。
俺は事実から話した。
南の村の飢え。
育土杭の試験。
父の期限と許可。
黒殻狼の襲来。
避難と防衛。
工房の設立。
爆ぜる盤の管理。
途中で、彼の指が机を叩き始めた。
「つまり」
説明が終わると、ディークは言った。
「平民に魔法を使わせ、武器を持たせ、私がいない間に組織まで作った」
「育土杭は農具です。爆ぜる盤は騎士団の管理下にあります」
「言葉を飾るな」
机が鳴る。
「平民が魔力を流せば動く。ならば魔法だ。人へ向ければ傷つけられる。ならば武器だ。そして、お前を中心に人が集まっている。ならば組織だ」
正確だった。
感情的に見えても、長兄は愚かではない。
工房の本質を見抜いている。
「お前は自分が何をしているか分かっているのか」
「分かっているつもりです」
「分かっていない」
ディークは立ち上がった。
「この国の秩序は、力を持つ者と持たぬ者を分けることで成り立っている。貴族は魔法を持つから領地を守り、平民は守られる代わりに税を納める。お前は、その境を壊している」
「守られていない村もあります」
「すべてを同時には守れん」
「だから、自分たちで時間を稼げる仕組みを作りました」
「その力が領主へ向いたら?」
「管理と訓練が必要です」
「管理すれば反乱しないと?」
「力を奪えば忠実になるとも限りません」
空気が冷えた。
言いすぎたかもしれない。
だが、ディークは剣へ手を伸ばさなかった。
俺を見下ろし、低く言う。
「生意気になったな、ルクス」
この身体の記憶が震える。
幼い頃から、兄たちに逆らったことはない。
焔を灯せず、訓練場の端で笑われ、俯いていた。
身体は今も、長兄の怒りを恐れている。
けれど俺は目を逸らさなかった。
「工房を閉じろ」
ディークが命じた。
「育土杭の配布も止める。平民から爆ぜる盤の作り方を知る者を外し、図面は私が預かる。今なら、子どもの出来心として処理する」
逃げ道をくれている。
頭を下げれば、俺自身は守られる。
だが工房は消える。
ティナは責任者から鍛冶屋の娘へ戻る。
テオは帳簿を取り上げられ、小姓へ戻る。
村人は、また騎士が来るまで祈るだけになる。
受け入れられない。
正面から「嫌だ」と言えば、権限の争いになる。
次期当主候補の長兄と、8歳の四男。
勝負にならない。
なら、争う場所を変える。
「兄上。北の討伐で、焔の隊は何日、砦を離れましたか」
ディークの眉が動く。
「質問しているのは私だ」
「工房を閉じるべきか判断するために必要です」
「5日だ」
「動員した兵は」
「32」
「負傷者は」
「7人。何が言いたい」
「費用です」
俺は持参した羊皮紙を広げた。
北の砦へ送る糧食。
馬の飼料。
魔石。
負傷者の治療。
留守になった場所へ回した予備兵。
正確な額は分からない。だが父の帳簿から推定した範囲は書ける。
「兄上の勝利に価値がないと言うつもりか」
声が鋭くなる。
「逆です。兄上にしか倒せない敵へ、兄上の力を使うべきだと言っています」
「……何?」
「南の黒殻狼は、村人と少数の騎士で退けました。兄上の焔の隊を呼ばずに。育土杭で収穫が増えれば、砦へ送る兵糧も増える。工房は兄上の敵ではありません。兄上が大きな敵と戦うために、小さな負担を減らす道具です」
見せ方を変える。
平民へ力を渡す工房。
そう言えば、秩序への脅威だ。
辺境の兵糧と防衛を支え、次期当主の軍を自由にする工房。
そう言えば、家の資産になる。
同じ事実でも、相手の目的へつなげれば意味が変わる。
「詭弁だ」
ディークは吐き捨てた。
「平民へ力を渡している事実は変わらん」
「兄上が管理者になればよいのでは」
彼の目が止まる。
「工房は父上の許可を得ています。防衛具はヴェルナ殿の管理です。さらに兄上が軍事用途の報告を受ける。そうすれば、勝手に兵を作っているとは言われません」
工房を差し出すつもりはない。
だが、完全に排除すれば敵になる長兄を、監督の側へ組み込む。
責任と情報を渡す代わりに、閉鎖の理由を減らす。
「私の名を盾にする気か」
「兄上の権限で、危険な用途を止めていただきたいのです」
「私がお前の尻拭いを?」
「南の村が自力で1刻耐えられれば、兄上の援軍が間に合います」
ディークは黙った。
彼の誇りへ訴えるだけでは足りない。
利益も示す。
「育土杭の試験では、発芽と生育に差が出ています。収穫が1割増えれば、あの村だけで18袋。領内へ広げれば、焔の隊を一度動かす兵糧の一部を賄える」
「まだ収穫していない」
「はい。だから半年の試験です。成果がなければ父上が閉じます」
「なら、今閉じても同じだ」
「試験前に閉じれば、利益があるか分かりません」
長兄は答えない。
怒りだけなら、命令を繰り返せばよい。
だが彼は次期当主だ。
家の利益になる可能性を、自分の感情だけで潰したと父に思われたくない。
「父上は、何と」
「半年で数字を示せと」
その一言が決め手になった。
父の判断を、長兄が勝手に覆す。
それは家中の秩序を守る彼自身ができない。
「……当面は置く」
ようやく言った。
勝利ではない。
処刑の延期だ。
「ただし、爆ぜる盤の製造数と保管場所を毎週、私にも報告しろ。村人の訓練はヴェルナの許可なしに増やすな。工房の者が武器を持ち出せば、即座に閉じる」
「承知しました」
「それから」
ディークが近づく。
「私がお前を認めたと思うな。お前の道具が家の害になると判断した瞬間、すべて焼く」
焔術の使い手らしい言葉だった。
「そのときは、害になるという数字を示してください」
彼の顔が歪む。
「出ていけ」
俺は一礼し部屋を出た。
扉が閉じてから、ようやく息を吐く。
背中に汗をかいていた。
政治の場では正しいだけでは守れない。
相手に「潰さない理由」を持たせなければならない。
今日、工房を守ったのは理想ではない。
父の許可。
将来の収穫。
軍事費の削減。
そして、長兄自身の利益。
少し苦い。
だが工房が残るなら、今はそれでいい。
---
その夜の食卓は、久しぶりに兄弟全員が揃った。
父の右にディーク。
次兄アルノルト。
三兄セドリック。
俺は末席。
長い卓には肉とパンが並んでいる。北の勝利を祝う食事だ。
父が杯を上げた。
「ディーク。北の砦を守った働き、見事だった」
「ありがとうございます」
長兄は誇らしげに頭を下げる。
兵の損耗を抑え、群れの主を自ら討ったと報告される。
次兄は東街道の巡回。
三兄は徴税と倉の確認。
それぞれが任務を報告する。
最後に父の視線が俺へ来た。
「ルクス。工房は」
長兄の手が止まる。
「育土杭は1日12本。火種盤20枚。不良率は1割未満です。南村の試験は継続中」
「爆ぜる盤は」
「15枚。全て騎士団の管理です」
「長兄にも毎週報告するそうだな」
「はい」
父は一度、ディークを見る。
「よい判断だ。軍に関わるものを次期当主候補が知らぬでは済まん」
長兄は頷くしかない。
俺が彼へ報告権を渡したことで、父の前では家の秩序を守る行動になった。
反対に、ここで閉鎖を主張すれば、自分へ与えられた監督の役割を放棄することになる。
政治とは、相手の口を塞ぐことではない。
相手が動ける道を、こちらの望む方向だけにすることだ。
「でも、不思議だな」
次兄アルノルトが口を挟んだ。
彼は兄弟の中で最も人当たりが柔らかい。
「ルクスは焔を使えないのに、どうやって火種盤を作った?」
「兄上たちの術を観察しました」
「見ただけで?」
「流れが少し見えるんです」
『解析』の詳細を、どこまで話すべきか。
まだ判断できない。
全てを隠せば不信を招く。
全てを明かせば、力そのものを奪われるかもしれない。
「では、私の術も分かるか?」
アルノルトが指先へ火を灯す。
長兄より小さいが、安定した焔だ。
『解析』を向ける。
魔力の導入。
圧縮。
燃焼。
長兄とは経路が少し違う。
「第二段階で、右へ流れが偏っています」
火が揺れた。
アルノルトの顔から笑みが消える。
「……昔、右腕を傷めた」
「その影響かもしれません」
「直せる?」
「体の術式は、まだ」
「まだ、か」
彼は興味深そうに俺を見る。
三兄セドリックは杯を置いた。
「兄上。出来損ないの遊びへ付き合う必要はありません」
彼の声には露骨な侮りがある。
「南の勝利も、ヴェルナ殿がいたからでしょう。平民が戦ったなど、家の威信を下げる噂です」
「死者なしで村を守った」
父が言う。
「結果は認める」
セドリックは口を閉じた。
長兄は黙って肉を切っている。
父が俺を評価するたび、彼の表情は硬くなる。
俺が欲しいのは家督ではない。
少なくとも今は。
けれど、周囲がどう見るかは別だ。
領民の信頼。
ヴェルナの協力。
父の評価。
工房という組織。
それらは、俺にその気がなくても政治的な力になる。
「ルクス」
父が言った。
「工房を、何のために大きくする」
「辺境で必要な道具を、必要な数だけ作るためです」
「それだけか」
問いの意味を考える。
父もまた、工房が生産設備以上のものだと見ている。
「人を、才の有無だけで捨てずに済む場所にしたいです」
三兄が鼻で笑う。
長兄は俺を見る。
父だけが、すぐには表情を変えなかった。
「理想は、金を食う」
「だから数字を示します」
「数字だけでも、人は動かん」
第十三話の長兄との会話を、父は知らないはずだ。
それでも、同じ問題を見ている。
「覚えておけ。正しい仕組みを作る者が、正しく力を使うとは限らん。お前自身も含めてだ」
ヴェルナと似た警告。
力を配る俺が、いつか配る側の権力へ酔う可能性。
否定できない。
「はい」
食事が終わり席を立つ。
廊下へ出たところで、ディークに呼び止められた。
「父上の前で、ずいぶん立派なことを言う」
「聞かれたので答えました」
「家督が欲しいのか」
直球だった。
「今は、工房を残したいだけです」
「今は?」
言葉を拾われた。
「8歳の僕に、20年後の答えを求めますか」
「お前は8歳らしい言い訳だけはするのだな」
長兄は近づき、低い声で言った。
「私はこの家を守るために、幼い頃から剣と魔法を学んだ。血を流し、兵を率い、北で仲間を失った。お前が納屋で妙な板を作っただけで、その上へ立てると思うな」
嫉妬だけではない。
彼には彼の積み重ねがある。
自分が背負うために鍛えてきたものを、俺が横から価値のないものへ変えようとしているように見えるのだ。
「兄上の力を、価値がないとは思いません」
「なら、平民へ真似事をさせるな」
「兄上が1人で全てを守れないからです」
彼の目に焔が宿る。
「いつか、その言葉を後悔させる」
「兄上が全て守れるようになれば、喜んで後悔します」
殴られるかと思った。
だがディークは拳を握り、背を向けた。
「半年だ。結果を出せ」
「はい」
対立は消えない。
ただ、期限と評価基準のある競争へ形を変えた。
それだけでも、今の俺には十分だった。
---
工房へ戻ると、鎚の音が止まっていた。
全員が俺を見る。
長兄に呼ばれたことは、もう伝わっている。
「閉じるの?」
ティナが先に聞いた。
「閉じない」
空気が一気に緩む。
テオが机へ手をつき、息を吐いた。
「ただし、監督が増える。爆ぜる盤の数は長兄にも報告。訓練の追加はヴェルナ殿の許可が必要」
「長兄様が、工房へ来る?」
「来るかもしれない」
作業者たちの顔が強張る。
平民にとって、次期当主は遠い存在だ。
その怒りが向けば、日当どころか家族の生活まで危ういと思うだろう。
「逃げたい人は、今言ってください」
誰も手を上げない。
だが、安心しているわけでもない。
「俺たちは、悪いことしてないですよね」
研磨担当の男が尋ねた。
「していない。でも、正しいと思うだけで守られるとは限らない」
俺は壁の工程表を指した。
「だから帳簿を合わせる。持ち出しを記録する。不良品も隠さない。誰が見に来ても、何を作り、どこへ渡したか説明できるようにする」
「疑われないため?」
テオが聞く。
「疑われても、事実で答えるため」
噂を止めることはできない。
人の悪意も、恐れも。
できるのは、記録を残すことだ。
ティナが鎚を持ち上げた。
「じゃあ、今日の12本を作る。長兄様が来ても不良は1本も見せない」
「不良は隠さず見せる」
「言い方!」
工房に笑いが戻った。
短い笑い。
それでも、皆が自分の場所へ戻るには十分だった。
---
その日の午後、本当にディークが来た。
従者2人を連れ、入口の看板を見上げる。
『魔導具試作工房』
「納屋だな」
「改修費を抑えました」
俺が答える。
彼は材料棚から完成品まで、ゆっくり歩いた。
作業者は緊張で手を止めかける。
ティナが叱る。
「手を止めない! 今の線がずれる!」
次期当主の前で、工房長として命令を出した。
ディークの視線が彼女へ向く。
「お前が責任者か」
ティナの顔から血の気が引く。
それでも鏨を置かない。
「製造責任者のティナです」
「女が?」
「腕で決めました」
俺が言うと兄は育土杭を1本取った。
「これが、畑を豊かにする?」
「試験中です。現時点では発芽率と根張りに差があります」
「魔法使いでなくても?」
テオが前へ出る。
「俺でも起動できます」
「お前は?」
「帳簿と試験を担当しています」
長兄は火種盤を起動させた。
小さな焔が灯る。
彼ほどの魔力を入れても、出口が制限され、火は一定以上にならない。
「私の力を抑えるのか」
「使い手が違っても同じ結果にするためです」
「侮辱的な道具だな」
ティナがむっとする。
俺は少しだけ笑った。
「畑に兄上の全力は必要ありません」
ディークは火を消し、盤を戻した。
次に赤い鍵箱を見る。
「爆ぜる盤は」
ヴェルナから借りた鍵を2つ使い、俺とテオが箱を開ける。
番号順に15枚。
製造日。
試験日。
持ち出し記録。
「面倒な仕組みだ」
「危険なものほど、面倒にします」
「盗む者は、鍵ごと壊す」
「だから数量を毎日確認します。なくなればすぐ分かる」
「分かったところで、使われた後では遅い」
「保管場所と見張りも改善します」
兄は欠点を指摘し続けた。
腹は立たない。
むしろ助かる。
敵意のある監査は、甘い仲間より穴を見つける。
「壁が薄い。外から火を放たれれば、箱ごと焼ける」
「防衛具だけ石造りの倉へ移す案を出します」
「工房内に武器を置くな。それだけで噂の種になる」
正論だ。
翌日から、爆ぜる盤は騎士団の武器庫へ完成ごとに移すことにした。
長兄は完全な敵のつもりで来た。
それでも、彼を監督へ組み込んだことで、工房の安全が1つ上がった。
人は賛同しなくても、役割を持てば全体へ利益を与える。
---
視察の最後、事件が起きた。
材料棚の鉄の本数と、帳簿が合わない。
記録では27本。
棚には25本。
テオの顔が真っ白になる。
「昨日は合ってました」
ディークの目が冷える。
「もう盗みか」
「調べます」
俺たちは作業を止めた。
受け入れ記録。
切断数。
不良品。
床。
赤い箱。
1本は、育土杭2本へ切り分けた後、元の材料数から引く記録が漏れていた。
残り1本は見つからない。
「誰かが持ち出した?」
作業者たちが互いを見る。
疑いが生まれる。
このまま犯人探しを始めれば、工房は割れる。
「昨日、鉄を触った人は」
3人。
切断担当。
ティナ。
鍛冶場から運んだ荷車の御者。
御者へ確認すると、1本が荷台の隙間に残っていた。
盗みではない。
受け入れ時に、荷車の本数と棚へ入れた本数を別々に確認していなかった。
「人の管理とは、この程度だ」
ディークが言う。
否定できない。
「受け入れを2人で数えます。荷車が空になったことも確認する」
「毎回?」
「毎回です」
「手間が増える」
「盗人を疑うより安い」
兄は鼻を鳴らした。
だが閉鎖とは言わなかった。
問題を隠さず、その場で原因と対策を示したからだ。
視察を終え、彼は入口で振り返る。
「半年後、お前の数字が嘘なら父上の前で私が閉じる」
「嘘は書きません」
「失敗の数字でも?」
「それこそ書きます」
長兄は理解できないものを見る目で俺を見た。
「変な弟だ」
そう言い、去った。
最初の圧力は凌いだ。
だが彼の監視は始まったばかりだ。
---
翌朝、別の問題が工房を止めた。
ティナが材料棚の前で腕を組んでいる。
「鉄、あと何日?」
テオが帳簿を確認する。
「今の生産なら6日です」
「次の荷は?」
「来ません」
「なぜ」
「街道の隊商が止まっています」
工房だけではない。
塩の値段が上がり。
薬草の買い付けが遅れ。
砦へ送る油も減っている。
交易路で盗賊が出るようになり、商人が辺境へ来なくなっていた。
「父上は兵を出しているはずです」
俺が言うと、ヴェルナが訪れた。
顔が険しい。
「焔の隊を2度出しました」
「兄上が?」
「一度は次兄、2度目はディーク様。どちらも空振りです。隊が近づく前に盗賊が山へ消える」
「被害は」
「この2月で隊商7つ。死者12。奪われた荷は鉄、塩、布、薬。狙う荷を選んでいます」
ただの野盗ではない。
情報を持っている。
隊商の日時。
積み荷。
護衛。
それを事前に知り、欲しいものだけを襲う。
「工房の鉄が尽きれば」
「育土杭も止まります」
ティナが答える。
長兄へ約束した利益を示す前に、生産自体が止まる。
工房は、内側から潰されるのではなく、材料を断たれて死ぬ。
「地図を見せてください」
俺は言った。
「盗賊を倒す気ですか」
ヴェルナが眉を上げる。
「まず、なぜ捕まらないかを知ります」
正面から焼けない相手を、さらに強い焔で追っても意味がない。
敵は力で勝っているのではない。
こちらより早く知り、先に動いている。
ならば戦う場所は、剣の間合いではない。
情報だ。
長兄との政治をどうにか凌いだ直後。
今度は辺境の命綱そのものが、静かに締め上げられ始めていた。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
是非評価、コメントをいただけますと励みになります。




