第010話 魔物、来襲
事態は、想像していたより悪かった。
南の村へ着いたとき、避難はまだ半分も終わっていなかった。
教会の鐘が鳴り続ける。
女たちは子どもの手を引き、老人を荷車へ乗せ、東の橋へ向かっていた。家畜を連れ出そうとする者。納屋から麦袋を運び出そうとする者。何を持つべきか決められず、戸口で立ち尽くす者。
恐怖の中で、人は合理的には動かない。
大切なものが多すぎて、何から捨てればよいか分からなくなる。
「荷物を置け!」
ヴェルナの声が村中に響いた。
「人を先に東岸へ渡せ! 歩けない者と子どもを荷車へ! 橋の上では止まるな!」
兵が命令を繰り返す。
それでも、ある男は種籾の袋を手放そうとしなかった。
「これがなきゃ、来年がない!」
「命がなければ来年もない」
俺が言うと、男は歯を食いしばった。
「若様は、屋敷にまだ麦があるから言えるんだ!」
返す言葉がない。
彼にとって、この袋はただの荷物ではない。
冬と、来年と、家族の命だ。
「袋に家の印をつけて、教会の石床へ置いてください」
俺は言った。
「村が守れれば戻れます。守れなければ、東岸へ運んでも魔物に追いつかれます」
男は迷い、やがて袋を抱えて教会へ走った。
ヴェルナがこちらを見る。
「時間を使いすぎです」
「全部捨てろと言っても、隠れて戻ります」
「……次へ」
彼女はそれ以上責めなかった。
西の森から、低い遠吠えが届く。
近い。
「見張りは?」
ヴェルナが叫ぶ。
屋根の上の若者が答えた。
「森の縁! もう見えます!」
俺は村の西端へ目を向けた。
黒い影が木々の間を走っている。
数は、30より多いかもしれない。
避難完了まで、少なくとも四半刻。
兵は11人。
魔法を使えるのはヴェルナと、もう1人の騎士だけだった。
父と兄たちは、それぞれ別の砦と街道へ出ている。
この広い領地で、最も強い者が必要な場所は1つではない。
工房でヴェルナと話した「同時に2つを襲われたら」という仮定が、あまりにも早く現実になった。
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「西の畑で迎え撃つ」
ヴェルナが命じた。
「村へ入れれば家の間で散る。そうなれば止められない。槍兵は畦に2列。弓は後方。私とローデンが前へ出る」
「11人で?」
「避難まで時間を稼ぐには十分です」
勝つとは言わなかった。
時間を稼ぐ。
その後は?
聞く必要はない。
彼女たちは退路を断たれ、村人が逃げるまで戦う。
「東の橋を落とせば」
「村人が渡り終えた後です」
「兵は戻れない」
「そうならないよう戦います」
また同じだ。
守る者が少ないため、強い者がすべてを背負う。
ヴェルナ自身が、それを最善と信じているわけではない。
ほかに選択肢がないのだ。
俺は馬から降ろされ、教会脇の荷車の陰へ押し込まれた。
「ここから出ないでください」
「解析するには、見える場所が必要です」
「矢も牙も、見るだけで避けてはくれません」
「せめて鐘楼へ」
「却下」
「屋根の上なら、魔物の動きを――」
「ルクス様」
ヴェルナが腰を屈め、俺と目線を合わせた。
「あなたは、死ぬことが仕事ではない」
「あなたもです」
「私には、死ぬ危険を引き受ける責任がある」
「僕にはない?」
「今はありません」
言い切り、彼女は立った。
「生きて、見なさい。私たちがなぜ必要か。あなたの仕組みに何が足りないか」
それは皮肉ではなかった。
自分が倒れる場面まで、俺の学びに変えようとしている。
腹が立った。
同時に、怖かった。
この女は本当に、必要なら死ぬ。
「死なないでください」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「善処します」
ヴェルナは笑わず、西の畑へ歩いた。
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黒殻狼が森から現れた。
狼と呼ばれているが、前世の狼とは別物だ。
大きさは小牛ほど。
背から脚まで、黒い甲殻が重なっている。
口元には2本の牙。
赤く濁った目。
1頭が地面を蹴るたび、乾いた土が跳ねた。
俺は『解析』を集中する。
表面。
骨格。
筋肉の動き。
マナの流れ。
視界へ情報が押し寄せ、こめかみが痛む。
硬い。
正面の甲殻は槍を弾く。
脇腹も厚い。
だが継ぎ目はある。
前脚の付け根。
顎の下。
目。
後ろ脚の内側。
「前脚の内側が薄い!」
俺は叫んだ。
ヴェルナが振り返らずに手を上げる。
聞こえたという合図だ。
最初の3頭が畑へ入る。
「弓、放て!」
矢が飛ぶ。
2本は甲殻へ当たり、乾いた音を立てて落ちた。
1本が目の近くへ刺さる。
獣が吠え、速度を上げた。
ヴェルナの掌に焔が集まる。
火球が先頭へ直撃し、黒い体を包んだ。
獣は数歩進み、倒れる。
1撃。
圧倒的な力だ。
だが後ろには、5頭、10頭、さらに影が続いている。
もう1人の騎士ローデンも焔を放つ。
2頭目が倒れる。
3頭目は火をかすめ、槍兵の列へ突っ込んだ。
「構え!」
3本の槍が向けられる。
正面の甲殻へ当たり、2本が滑る。
残る1本は肩の継ぎ目へ入った。
獣が体を捻り、槍ごと兵を跳ね飛ばす。
「下がれ!」
ヴェルナが横から斬り込む。
剣にまとった焔が顎の下を裂いた。
黒殻狼が崩れる。
兵が1人、肩を押さえて呻いている。
死んではいない。
だが一度の接触で、戦える人数が1人減った。
これが30回以上続く。
計算するまでもない。
持たない。
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最初の5頭を倒した時点で、ヴェルナの息は乱れていた。
火球1つの消費が大きい。
敵の甲殻を確実に焼くには、出力を下げられない。
ローデンはもっと苦しい。
6頭目へ放った焔は浅く、獣を怯ませただけだった。
「2列目、前へ!」
疲れた兵と交代する。
だが予備は少ない。
負傷者が増えれば、列を維持できない。
畑の広さも敵に有利だった。
黒殻狼は左右へ散り、兵の外側へ回ろうとする。
ヴェルナが走って塞ぐ。
右で1頭を斬る間に、左から2頭が近づく。
1人の強者がどれほど速くても、体は1つしかない。
「鐘楼! 左から3頭!」
俺は叫ぶ。
見張り役が鐘を2度鳴らす。
左への警告。
ヴェルナが反応し、1頭を焔で止める。
残り2頭へ槍兵が向かう。
合図が役に立った。
だが、その場で決めた音だ。兵の半分は意味を知らず、動きが遅れた。
訓練がない。
役割がない。
共有された合図がない。
個々は勇敢でも、全体が1つになっていない。
俺がヴェルナへ語った防衛の欠点が、目の前に並んでいた。
逆に言えば。
役割と合図を整えれば、今より戦える。
だが、今は準備がない。
「村人の避難、7割!」
橋から伝令が叫ぶ。
あと3割。
西畑の防衛線は、すでに最初の位置から50歩下がっている。
麦の若芽が、兵と魔物の足に踏み潰されていく。
育土杭が折れ、土から火花が散った。
胸が痛んだ。
けれど、畑より人だ。
今は迷うな。
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1頭が防衛線を抜けた。
負傷した兵の隙間を縫い、村の道へ走る。
「止めろ!」
弓兵が放つ。
矢は背へ弾かれた。
俺のいる荷車へ、黒い獣が向かってくる。
逃げろ。
身体が命じる。
足が動かない。
8歳の身体が、理屈より先に恐怖へ固まった。
牙。
赤い目。
地面を打つ音。
距離が縮まる。
『解析』だけが異様に冷静だった。
右前脚。
踏み込む瞬間、甲殻の継ぎ目が開く。
そこへ衝撃を入れれば、姿勢が崩れる。
だが俺には武器がない。
荷車に積まれていたのは、避難途中で置かれた農具と、テオが兵へ届けさせた火種盤の箱だった。
火種盤。
安全な小さな焔。
1枚で何ができる。
俺は箱を開き、1枚掴んだ。
起動部へ無理に魔力を流す。
俺自身の魔力は少ない。
それでも紋様が補助し、中央に火が灯る。
獣は止まらない。
俺は火種盤を地面へ叩きつけた。
銅板が石へ当たり、曲がる。
安全弁の溝が潰れ、行き場を失った魔力が一瞬だけ逆流した。
ぱん、と乾いた音。
火花。
威力はない。
だが黒殻狼が驚き、顔を背けた。
踏み込みがずれる。
右前脚の継ぎ目が開く。
「そこだ!」
横から槍が入った。
ハンスだった。
避難するはずの老農夫が、納屋の干し草用の長槍を握っている。
穂先が継ぎ目へ刺さる。
浅い。
それでも獣の姿勢が崩れた。
次の瞬間、ヴェルナの焔が横腹へ直撃する。
黒殻狼は俺の目の前で倒れた。
熱と獣臭が押し寄せる。
膝が震えた。
「ここから出るなと言ったはずです!」
ヴェルナが怒鳴る。
「出てません!」
「屁理屈を――」
新しい遠吠えが遮った。
彼女は舌打ちし、前線へ戻る。
ハンスが俺の腕を掴んだ。
「若様、東へ」
「なぜ残ったんです」
「わしの畑だ」
「畑より命です」
「若様がそれを言うか」
返せなかった。
ハンスは倒れた獣と、曲がった火種盤を見た。
「今の音、あいつは嫌がったな」
俺も見る。
火種盤は壊れている。
偶然に近い。
だが、現象には原因がある。
安全弁が潰れ、火と音が瞬間的に放出された。
威力は要らない。
突進を1秒止める。
視線を逸らす。
脚の継ぎ目を開かせる。
その1秒を、槍の1撃へつなぐ。
1人では倒せない。
火種盤だけでも倒せない。
槍だけでも硬い甲殻を抜けない。
だが、順番に重ねれば。
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「テオとティナは?」
俺は伝令へ尋ねた。
「屋敷の工房です。火種盤を点検していると」
「馬で戻れば、どれくらい」
「半刻以上」
遅い。
前線はそこまで持たない。
今ある火種盤は、箱に12枚。
兵へ予備として運ばれたものらしい。
安全弁を壊す方法なら、現場でもできる。
しかし1枚ずつ石へ叩きつければ、起動のタイミングも方向もばらつく。
使用者の手元で爆ぜる危険もある。
ティナなら、外周へ切れ目を入れ、衝撃が中央へ集まるよう加工するだろう。
俺は曲がった盤を拾い、『解析』した。
破断した線。
逆流した経路。
熱が逃げた方向。
再現できる。
完璧ではない。
だが、応急の型なら。
「金槌と鏨を集めてください。鍛冶場へ」
「若様?」
「火種盤を改造します」
ハンスが眉をひそめる。
「さっきみたいに壊すのか」
「同じ壊れ方をするように作る」
「壊れ方まで作るのか」
「毎回違うほうが危ない」
村の鍛冶場へ走る。
ティナの父親と弟子たちは避難を手伝っていたが、1人だけ若い弟子が残っていた。
俺は銅板へ線を引いた。
「ここを浅く切る。中央は触らない。起動した後、この縁を地面へ当てる」
「そんな急に言われても」
「試す時間はありません」
「爆ぜるんだろ?」
「手元で爆ぜる可能性もあります」
弟子の顔が引きつる。
俺は言葉を続けた。
「だから、使う人には隠さず伝えます。嫌なら持たせない」
無理に使わせれば、恐怖で手を離す。
必要なのは命令だけではない。
危険を理解した上で、自分の役割を選ぶ者だ。
弟子は外の戦闘音を聞いた。
「ティナなら、どう彫る」
「たぶん、もっときれいに」
「だろうな」
「でも今は、あなたしかいません」
彼は一度目を閉じ、鏨を握った。
「線を見せろ」
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最初の1枚を、鍛冶場の土間で試した。
長い棒の先へ固定し、紐で起動する。
乾いた破裂音。
火花は前方へ飛び、持ち手側にはほとんど来ない。
成功。
2枚目。
音が小さい。
切れ目が深すぎ、魔力が先に抜けた。
失敗。
3枚目。
1枚目より強く爆ぜ、銅片が土壁へ刺さった。
危険。
「駄目だ」
弟子が青ざめる。
「銅片が飛ばないよう、布で包む」
「布が燃える」
「濡らす。上から細い針金で留める」
火と音だけを逃がし、破片を包む。
4枚目。
十分な音。
閃光。
破片なし。
「これを基準にします」
「残り8枚だぞ」
「全部同じに」
時間がない。
それでも、1枚ごとに切れ目を型へ重ねて確認する。
焦りで手順を飛ばせば、使う人の手が飛ぶ。
前線から兵が来た。
「ヴェルナ様より、あと四半刻。避難は9割。負傷者4名」
「死者は」
「まだ、いません」
まだ。
その言葉が重い。
俺は完成した3枚を布袋へ入れた。
「先に持っていきます」
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前線は村のすぐ手前まで下がっていた。
ヴェルナの鎧には血がついている。
彼女自身のものか、魔物のものか分からない。
ローデンは片膝をつき、魔力切れで焔を出せなくなっていた。
残る黒殻狼は、20頭以上。
倒した数より、残った数のほうが多い。
「何を持ってきた」
ヴェルナが俺の袋を見る。
「爆ぜる火種盤です。足元へ投げれば、火と音で一瞬止められます」
「試したのか」
「4枚。2枚成功、1枚弱すぎ、1枚は破片が飛びました。対策を加えたものは、まだ1枚だけです」
正直に言う。
彼女の目が険しくなる。
「そんなものを兵に持たせろと?」
「今すぐ全員には無理です。まず1枚、盾の後ろから使います」
「失敗すれば」
「使用者が傷つきます」
「却下です」
「このままなら、全員が傷つきます」
「危険を比較して正当化するのですか」
「あなたが、いつもしているように」
言った瞬間、空気が張った。
だが撤回しない。
ヴェルナは守れる村を選ぶ。
兵をどこへ置くか選ぶ。
どの危険を引き受けるか選ぶ。
今、必要なのも同じだ。
「僕に使わせてください」
「論外」
「なら、誰か希望する兵に」
「訓練もない」
「役割は1つです。合図で起動し、前へ投げる。倒す必要はない。足を止めるだけ」
ヴェルナは黒殻狼の群れを見る。
避難完了まで、あとわずか。
橋を落とせば村人は逃げられる。
だが兵は残される。
村も畑も、魔物に蹂躙される。
「一度だけです」
彼女が言った。
盾兵の1人を呼ぶ。
「危険を説明しなさい」
俺は火種盤を見せた。
手元で爆ぜる可能性。
地面へ落とす方向。
起動後は握り続けないこと。
兵は黙って聞き、袋を受け取った。
「やります」
「怖くないのか」
俺が聞くと、兵は笑った。
「怖いですよ。だから、早く終わらせたい」
勇気とは、怖くないことではない。
怖いまま、自分の1つの役割を選ぶことだ。
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黒殻狼が3頭、並んで突進してきた。
「盾、前!」
兵が構える。
「まだ」
距離を測る。
早すぎれば、驚くだけで勢いを戻す。
遅すぎれば、投げる前に牙が届く。
『解析』で脚の動きを見る。
先頭が次の跳躍へ体を沈める。
「今!」
火種盤が投げられた。
地面へ当たる。
閃光。
破裂音。
3頭のうち2頭が顔を背け、足を乱した。
1頭は止まらない。
ヴェルナが正面へ入り、剣で受け流す。
「槍! 止まった2頭の前脚!」
俺の声に、兵が反応した。
槍が継ぎ目へ入る。
浅い。
だが、片脚を傷つけられた獣は走れない。
ヴェルナが1頭目を斬り、別の騎士が2頭目の喉を突く。
3頭を、これまでより少ない魔力で止めた。
防衛線に、わずかな余裕が生まれる。
「効いた……」
使用した兵が呟く。
「一度だけでは判断できません」
俺は言った。
だが可能性は見えた。
火種盤。
解析した弱点。
槍。
合図。
それぞれは小さい。
組み合わせれば、1頭を倒す工程になる。
「残りは」
ヴェルナが聞く。
「鍛冶場で製作中。あと5枚ほど」
「足りない」
「村に試作と不良品を含めれば、20枚以上あります。テオとティナが持って来られれば」
「屋敷からでは間に合わない」
「2人は工房にいます。こちらへ伝令を出せば、馬で」
ヴェルナは即座に兵を1人選びかけ、止まった。
1人減らせば前線が薄くなる。
どこまでも人が足りない。
「ハンス!」
俺は老農夫を呼ぶ。
「走れる馬は?」
「村長のところに荷馬が1頭」
「屋敷へ行って、テオとティナを連れてきてください。火種盤全部と、鏨、金槌、濡れ布を」
「わしが?」
「道を知っていて、今の危険を見た人が必要です」
ハンスは一瞬だけ迷い、頷いた。
「若様は」
「ここで、次を考えます」
彼は馬へ向かった。
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避難が完了した。
東の橋から合図の煙が上がる。
村人は川の向こうへ渡った。
橋を落とせば、最低限の命は守れる。
ヴェルナは剣を握り直した。
「ここまでです。兵を退かせ、橋を落とします」
「村を捨てる?」
「守りながら退く。畑も家も失うが、人は残る」
正しい判断だ。
今の戦力なら。
でも、火種盤の効果は見えた。
村には、避難した若者がいる。
槍を持てる者。
畑の狭い道を知る者。
育土杭を使い、手順に従うことを覚えた者。
「橋を落とすまで、もう少し待ってください」
「何をする気です」
「村人を10人だけ戻します」
ヴェルナの目が冷たくなる。
「却下したはずです」
「全員を戦士にするのではありません。役割を3つに分ける。火種盤を投げる人。止まった魔物の弱点へ槍を出す人。道具を運ぶ人」
「死にます」
「広い畑では。だから西の切り通しへ誘います」
村の北西。
両側を土手に挟まれた農道がある。
荷車1台が通れる幅。
群れが一度に入れるのは2、3頭。
30頭の数を、地形で分けられる。
「前はヴェルナ殿と騎士が支える。村人は土手の上と後ろから、自分の1つだけをする」
「訓練は」
「今から最低限を。合図は鐘。間違えにくい3種類だけ」
「成功する保証は」
「ありません」
「失敗した場合は」
「切り通しの後ろに荷車で第二の壁を作る。崩れたら東へ退き、橋を落とす」
完全な賭けではない。
撤退線を残す。
失敗しても、全滅しないようにする。
ヴェルナは俺を睨み続けた。
遠くから馬の蹄が聞こえる。
ハンス。
その後ろに、テオとティナが乗った馬。
布袋を抱えている。
間に合った。
テオの顔は恐怖で強張っている。
ティナも青ざめている。
それでも来た。
「ルクス様!」
「点検は」
「火種盤、動くものが17枚。不良品が6枚!」
「改造の型、作ったわ!」
ティナが金属板を掲げる。
さすがだった。
一度説明しただけで、俺の応急加工より精度の高い型を作っている。
ヴェルナは2人を見た。
次に、川の向こうでこちらを見守る村人たちを見る。
「あなたの言う数とは、子どもまで数に入れるのですか」
「2人は前へ出しません。作る者と、運用する者です」
「それでも戦場です」
「安全な場所は、もうありません」
鐘が鳴る。
前線からの警告。
次の群れが来る。
ヴェルナは目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。
「10人」
「はい」
「志願者だけ。家族に説明する。私の命令でいつでも撤退する。あなたは切り通しの後方から出ない」
「分かりました」
「爆ぜる盤は、1つずつ私が確認する」
「はい」
「死者が出たら」
彼女は言葉を止めた。
責任を問うと言うのかと思った。
だが違った。
「私たちは、その理由を全部記録し、二度と同じ死なせ方をしない」
工房で俺が語った失敗の扱いを、彼女は覚えていた。
「それでも、死者は戻りません」
「ええ」
「だから、出さないように作ります」
「なら見せなさい」
ヴェルナは剣を上げた。
「あなたの仕組みが、剣を持たぬ者を本当に守り手へ変えられるのか」
川の向こうへ伝令が走る。
村の若者たちが、家族と話し始める。
泣いて止める者。
拳を握る者。
こちらへ戻る橋を渡り始める者。
俺は地面へ切り通しの図を描いた。
敵の進路。
荷車の壁。
投擲の位置。
槍の列。
交代の順番。
1人の英雄が戦う図ではない。
誰もが、小さな1つを担当する図だ。
火種盤は17。
槍は9。
志願者は、まだ数えている途中。
敵は20頭以上。
条件は悪い。
時間もない。
それでも、さっきまでなかった選択肢が1つ生まれた。
村を捨てるか。
騎士が死ぬまで耐えるか。
その2つだけではない。
普通の人間が、仕組みと数で抗う。
第三の道。
「テオ。使う順番を番号で書いて」
「はい!」
「ティナ。改造は1枚ずつ。試験済みと未試験を混ぜない」
「分かってる!」
「ヴェルナ殿。切り通しまで敵を引く役を」
「私と騎士3名で行います」
命令が役割へ変わる。
恐怖が手順へ変わる。
ばらばらだった人間が、1つの目的へ並び始める。
俺の数の魔法は、まだ1頭も倒していない。
だが今。
初めて本物の戦場で、起動しようとしていた。
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