第十三話
町の中をひと通り散策し終えた幽心が宿へ戻ると、部屋の中では五郎が大の字になって、盛大にいびきをかいて寝ていた。
そのすぐそばでは、先に戻ってきていた幸太郎が、器用に肉球で耳を塞ぎながら丸くなっている。
五郎のいびきがよほど耳障りなのだろう。猫とは思えぬほど、人間臭い迷惑そうな顔をしていた。
司にべったりの幸太郎が、わざわざ苦手な幽心のそばに来ているのだから、何か言いたいことでもあるのだろう。
幽心は、五郎の顔に持ってきていたタオルを無造作にぱさりとかけ、いびきを少しでも抑えながら幸太郎に声をかけた。
「村の中は、どうでしたか?」
幽心の声に、幸太郎はゆっくりと顔を上げ、のそりと体を起こすと、その場でぐんと伸びをした。
その猫らしい仕草に、幽心は思わずほほえみ、撫でようと手を伸ばす。
だが、幽心を苦手とする幸太郎は、その手をすり抜けるように身を翻し、少し離れた場所へ座り直してしまった。
「……少しくらい、触らせてくれてもいいのでは?」
『やだね。あんたに触られたら、存在が揺らぎそうだし』
「あぁ……猫又になってから日が浅いですからね。うっかり死の国へ引っ張っていってしまいそうだ」
『やめてくれ。まだ復讐も満足にできてないのに』
不機嫌そうにぱたん、ぱたんと尻尾を畳に叩きつける姿が妙に可愛らしい。
だが、それを口にすればさらに機嫌を損ねるのは目に見えている。
幽心は言葉を飲み込み、話題を逸らすようにそっと口を開いた。
「それで、なにか情報は得られましたか?」
幽心が問いかけると、幸太郎は少し考えるように目を細め、それから小さく頷いた。
『ここいらの猫が集まる寄合所があったから寄ってみたんだ。そこでいろいろ話を聞いてきた』
幸太郎が持ち帰った情報は、周辺に住む猫たちから聞いたものだ。
彼らは日々縄張りを巡回し、そのしなやかな体でどんな場所にも入り込んでいく天才である。
人の敷地だろうが関係なく、「縄張りだ」と決めればそこは彼らの領域だ。
その自由気ままな猫たちが持つ情報網は、侮れない。
『その猫たちの中に、俺と同じ猫又がいたんだ。そいつから話を聞けたんだが……どうやらこのあたりは昔から“化け物”の縄張りだったらしい。人間たちが住みつくより前から、ずっといる奴なんだとよ』
「化け物、ですか」
幽心は顎に指先を添え、思案するようにその言葉を反芻した。
山が切り開かれ、人が暮らし始めるよりも前から存在している“何か”。
そうした存在は、時代が進み開拓が広がるにつれて姿を消していったはずだ。
しかし、この土地では今もなお息づき、何らかの影響を及ぼしている可能性があるという。
「妖か、落神か……。いずれにしても、このあたりの瘴気の濃さは異常ですね。ほとんど異界と変わらない」
『瘴気って、あの……赤い霧みたいなやつのことか?』
「えぇ。これが漂う場所に長くいると、だんだんと精神が侵されて、正常な判断ができなくなるんですよ」
それは、幼き日の記憶――黄泉の国で耳にした教えだ。
瘴気とは、人々の行き場を失った負の感情が寄り集まったものである。
それらが積もりすぎると世界に歪みが生じ、異界と繋がってしまう。
鳴神村は、まさにその現象がいつ起きてもおかしくないほどに、瘴気が濃密に満ちていた。
数日この地に滞在する程度であれば、それほど深刻な影響は出ないだろう。
しかし、長年ここに住み続けている者たちには、少なからず瘴気の影響が蓄積しているはずだ。
その“異常”はあまりにも緩やかに進行するため、当の本人たちは自分がどれほど感覚を侵されているか――その異常さにすら、気づかない可能性がある。
宿の女将は、一見するとごく普通の人間に見えた。
だが、彼女がどの程度瘴気に汚染されているのかは分からない。
念のため、しばらくは注意を払っておいた方がいいだろう。
「オワライサマに、謎の化け物……。関連がないわけがありませんよねぇ。異形の多さ、民俗学者のレポートにあった秘祭、そして鳴神家の事件。……色々と闇が深そうです」
『ずいぶん冷静だな。こんな化け物だらけの場所で平然としてるなんて……お前、やっぱり変な奴だ』
猫又になったばかりの幸太郎にとって、幽霊や異形と頻繁に遭遇する環境は初めてだ。
そんな彼から見れば、幽心の落ち着きは不気味ですらあるのだろう。
幸太郎は眉をひそめ、警戒するようにじりりと距離を取った。
動物に好かれない自覚のある幽心は、寂しさを覚えながらも困ったように眉を下げる。
死に寄り添いすぎたせいか、死の匂いに敏感な動物にはどうしても避けられてしまうのだ。
「……んん、なんだ、これ……前が見えねぇ……」
幽心の声で五郎が目を覚ましたのだろう。
寝ぼけまなこをしぱしぱさせながら、顔にかけられたタオルをもぞもぞと剥ぎ取り、ゆっくりと上体を起こした。




