十二章 悪魔
うっすらと開いた目に映るのは、机の木目。
「レイが居眠りなんてめずらしいですわね」
掛けられた美しい声を、妙に懐かしく感じる。
顔を上げ声の主に視線を向けると、机の上に座るという行儀の悪さを感じさせない優雅さのサヤがいた。
制服姿だが、その日本人離れした風貌の為に留学生みたいなサヤを、西日が照らしヴェールのように光の尾を引く。
放課後の教室は静まり返り、校庭から僅かな賑わいが聞こえるだけ。
黒板と並ぶ机。独特のニオイが満たす慣れ親しんだ場所。なのに、この胸をかきむしるように込み上げて来る懐かしさはなんだろう?
「何か、とても長い夢を見ていた気がする」
サヤのテンションが上がる。
「まあ、どんな夢ですの?」
どんな夢?
まったく思い出せない。
夢の内容を忘れるなんて滅多にないのに、どうしたのだろう?
手のひらをじっと見詰める。その質感を確かめるように開いたり閉じたり、西日にかざして、その手が確かに存在していることを確認する。
「どうされましたの?」
確かに、私はいったい何をしているのだろう?
手があるのは当たり前だ。お化けじゃあるまいし、透けたりする訳もない。
「さあ、わからない」
サヤは、ふふふっと笑う。
「今日のレイはなんだか変ですわね。夜更かしでもされましたの?」
ふと思い出す。記憶が上書きされるみたいな変な感覚。まるでサヤの言葉で記憶の改ざんでもされたような違和感。
「そういえば徹夜で小説を書いていた」
口元に手を当て、驚くポーズ。仕草のひとつひとつが“絵に描いたよう”な女性らしい動きのサヤ。
「まあ、徹夜なんてお肌に悪いですわよ」
徹夜と聞いての第一声がなんともサヤっぽい。
それとは別に、興味津々に問う。
「それでそれで、どんな小説書いていましたの?」
頭に浮かぶのは幻想の風景。空中から水が湧き出す泉。針のような水晶の山。光石が満たす光の平原。果てしない礫砂漠。
「皆既日食の日に儀式をして、私たち四人が異世界に行く小説」
胸よりやや高い位置で、左右の指先だけを合わせて微笑むサヤ。
「まあ、素敵。面白そうな物語ですわね」
相変わらずの可愛さとポーズに、サヤの周りにだけキラキラと光る花々が見えそう。
その時、教室のドアが開く。
「あ~! やっぱりサヤがレイを独り占めしてる」
響いたのは、ほんわかするようなやわらかな声。
見れば、小柄で可憐なカナと、そのカナより頭ひとつ分以上高い黒髪の麗人ミキがいた。
どういうことかと首を傾げた私に、ミキが透き通った声で説明。
「お前を呼びに行ったサヤがいつまで経っても戻らないから見に来たんだ」
なるほど。私が寝ていたから、サヤは私が起きるのを黙って見ていたということか。
ちょっと変態なサヤが、ニマニマと私の寝顔を見ている姿は容易に想像が付く。
「あら、レイと二人切りの時間は、レイを呼びに来た者の特権でしてよ」
サヤはサヤで、相変わらずのサヤ節で意味不明なことを堂々と言っている。
いつものありふれたやり取りに、胸が締め付けられるような郷愁を感じるのはなぜだろう?
四人で駅前に繰り出しウィンドウショッピング。
デパートの中にある、女子向けの小物を売る店をぶらぶら。
カチューシャやバレッタ。手軽な値段のジャラジャラしたネックレス。シュシュにブレスレッド。カラフルな付け爪なんかも並ぶ。
店内には流行りの曲が流れ、アロマも売っているのでいい香りも漂う。
サヤに話したことのさわり部分を聞き、ミキが第一声。
「ほう、新作か。書き上がったら読ませろ」
インディアンでも付けそうな羽根飾りやネックレスを吟味しながらの発言。
全体的にリーズナブルな価格のお店で、店ごと買えそうなサヤだけれど、真剣に小物を選ぶ。
カナはワインレッドのリボンを髪に当てたりして鏡を見ている。
私は自分のことはそっちのけで、カナに似合いそうな髪飾りを探す。
「ん。書き上がったらね」
カナも会話に加わる。
「あたしも読みたい。本読むの苦手だけどレイの小説だけは好き」
友人のひいき目とわかっていても嬉しい言葉。
うさ耳カチューシャを付けているサヤも会話に加わる。
「わたくしたち四人が異世界に行くお話らしいですわ」
カナがワントーン高いきゃぴるんな声を上げる。
「面白そう。あたしも剣とか魔法で戦うの?」
カナには僧侶系が似合うだろう。あらゆる生き物が好きだから、魔物使いもいいかも。
サヤが意気揚々と言う。
「わたくしは王女がいいですわ。サヤ・ローエン・ブリュンハイム王女とかいかがかしら?」
うさ耳の王女様? ってか現実世界の私たち四人が異世界に行く設定だと言っているのに、なんで王女様役で登場したがる?
ミキがニヤリと笑う。この笑い方は悪ノリする時の笑い方だ。
「私は魔王がいいな」
なんで魔王をやりたがる? 最終的に倒されたいのか?
カナがぽやんと言う。
「じゃあ、魔王ミキに拐われたサヤ王女を、あたしとレイで助けに行くんだね」
王女イコール魔王に拐われる的な発想?
カナのぽけぽけ発言に、サヤもふざける気満々のにまにま笑顔。
「あぁ、あなたはもしや魔王!?」
ミキが凶悪な笑みを浮かべ、下手な芝居を始める。
「ふはははっ、我は魔王なり。ブリュンハイム王女、お前をさらいに来た」
一歩二歩と後退るサヤ。
「あ~れ~、誰かお助けを~!」
王女と言うより、お侍さまに助けを求める娘みたいな台詞だぞ。
着てもいないマントをひるがえす動作を挟み、サヤを追うミキ。
「逃がさぬ。ま~て~!」
大根以下の芝居だかコントだかわからないものを始める二人。
ちなみに二人とも演劇部から助っ人を頼まれる程の芸達者なので、ふざけて下手くそな演技をしているだけ。
ってかこいつら本当に高校生か? ノリが小学生に近いんですけど。
それを見てカナは声を上げ笑っているし。
お店の人に迷惑だから、他所でやってくれである。
コブラツイストでサヤを捕まえたミキが、少し真顔になり言う。
「しかし、お前が実在の人物で小説を書くなんてめずらしいな」
?……確かに、私はなぜみんなが登場する小説など書いたのだろうか?
何かが、変だ。
そう思った瞬間、景色はぼやけ、みんなの姿が霞んで消えて行く。
まぶしさに目を覆う。
全身を包むやわらかな感触が気持ちいい。
清潔な部屋。リネンの香り。雑踏が奏でる人々の音。
何日も風の音しか聞こえない目覚めだったから、それだけで喜びが込み上げる。
人と出会い、この宿場町アセラに着いたのだ。
この世界に来て初めて半透明でない夢を見た。
半透明の夢を見続けていた方がどうかしているので、普通に戻ったとみるべきか? はたまた人と出会ったことで何か別のイベントスイッチでも入ったのか? 今は考えてもわからない。
身を起こすと、隣のベッドにカトレアさんがすぴすぴ寝ている。特に着替えなどは持っていなかったはずなのに、ベッド脇の棚には着ていた服どころか下着まで置いてある。全裸ですか? そういう文化かも知れないので気にしないでおくことに。
窓から差し込む朝日。朝日と言っても、この世界の時間であるグリニッジ標準時では現在19時過ぎ。夜の時間なので、夜日とでも言うのだろうか?
日の出も日の入りも不確かなこの世界にあって、朝昼晩の概念がどうなっているのか気になるところではある。
窓を開けてみると、すがすがしい風が吹き込む。
カトレアさんはまだ起きそうにないので、ちょっと散歩に出てみる。
人がいる。人がいる。カンドゥーラやアバヤ似の服を来た人々が往来を行き交う。カトレアさんの話の通り、日の出と共に活動するのかも知れない。
夜にはわからなかったが、町の中から防壁に登れるようで、階段が付いている。
特に侵入禁止っぽくはないので、誰が登ってもよさそうだ。
平地以外があるかを確認する為に登ってみるが、高所は相変わらず風が強い。
遠く稜線らしきものが見える。山がない世界と言う訳ではなさそうだ。
防壁の上には兵士の姿はない。櫓の中にはいるのかも知れないが、夜間に比べると警戒レベルはぐっと下がっている印象。
不意に、妙な感覚に立ち眩みでも起こしたように視界が揺れる。
何か、よくないことの前触れのような不安が込み上げるが、なんなのかわからない。
魔物の気配などどこにもない。危険などどこにもないはずだ。
足元に、私のものではない影が伸びる。
影の先を見上げると、男性がひとり浮いていた。
ロックバンドのメンバーみたいな黒い革製のコートを素肌に羽織り、黒い革製のパンツと、ガチャガチャと金具の付いたブーツ。背中には大剣も背負っている。
真っ赤な髪をツンツンに逆立て、燃えるような赤い目で私を見下ろしていた。
誰だ? いつからいた? 気配がまったく読めない。
目の前にいるのに、その気配に全身を包まれているような圧迫感。
「よう。お嬢ちゃん、ごきげんよう」
悪意でべっとりとコーティングしたような声音と表情。
そう感じるだけで、実はいい人と言うギャップキャラである可能性にすがり、挨拶をかわす。
「ごきげんよう。どちら様?」
ニタ~ッと凶悪に笑う男。
「俺様は火鳥使いのトロワだ。俺様の火鳥は強かったか?」
ゾクッとする程の敵意を、今になってようやく感じる。
前言撤回。こいつは、ギャップ萌えキャラでは決してない。
それに“火鳥使い”とはどういう意味だ? 魔物使いと言う意味か?
何の魔法で浮いていたかわからないが、謎の男トロワがゆっくりと下降し私の前に降り立つ。
一応とぼけてみる。
「火鳥ってなんのこと?」
トロワは、吹き出すように笑う。
「ふひゃ、あははっ、しらばっくれても無駄だ。自爆で浴びせたロファルスが、お前からプンプン臭う」
自爆で浴びせたロファルス!? あの時マーキングされていたのか。ロファルスと言う表現からして、水で洗ったくらいで落ちる類いのものではないのだろう。
「あの自爆で無傷とは、大したガキだな。お前がエリオット・ティセルか?」
エリオット・ティセル!? それは不可思議な半透明の夢のなかで、あの光石だらけの場所にいた少年が口にした言葉。
こいつは、あの時少年の命令で散開した奴等のひとりか!?
あれはやはりただの夢ではなかったのかとか、いろいろな思いが駆け巡るなか、トロワの表情が凶悪さを増す。
「ヒヒヒッ、その反応、お前エリオット・ティセルを知っているな?」
空気が変わる。脳を潰されたような不快感と、込み上げる吐き気。
目の前から浴びせられる絶対的殺意に、逃げるどころか立っていられない。
ガクガクと膝が震え、倒れそうになった時、トロワの左手が私の首を掴み、そのまま持ち上げる。
「がはっ、ぐぅ」
呻く私を見上げ、ケタケタ笑う。
「フヒャヒャ、安心しろ。俺様は優しいから、知っていることを全て話すまでは殺しはしない。殺してくれと懇願するまで拷問と治療を繰り返してやるからな。アーッハッハッハッ」
そして高笑い。
集中する時間も隙もないから、発動と同時に爆の魔法をばか笑いしている顔面に放つ。
“爆”喉を掴まれ声も出ないので、心の中だけの詠唱。
手のひらから放たれた紅蓮の光球がトロワの左目にピンポイントで直撃。爆発する。
魔法防御で効果が薄かったとしても、目は人体の急所。片目の視界だけでも奪えればと思ったが、爆発の黒煙が風で流れると無傷のトロワが首を傾げていた。
「なんだ今のしょぼい魔法は? そんな魔法しか使えずどうやって俺様の火鳥を倒したんだ?」
攻撃する属性を間違えた。火鳥使いなんて名乗るくらいなので、火や爆の魔法が得意で耐性があるのかも知れない。
なら、これならどうだ。“雷”頭の中でだけ叫び、私の首を掴む手を両手で掴み電流を流す。
ショートしたように瞬く雷光。だが、トロワは変わらずつまらなそうな顔。
「弱いな。けど、火に風に水か? 三つもの精霊に祝福されるたぁ、不相応な才能だな。これは努力を怠った報いだな」
まったく効いていない。
絶望が、ひしひしと絡み付く。
キングアースビートル戦は、まだ勝機があった。限りなくゼロに近くても。だが、この状況は?
トロワの腕は鋼鉄のようにビクともしない。
“星弾”星の弾丸を至近距離で放つが、目に直撃したはずの弾丸は砕け散り霧散する。
私のように魔法耐性が高いのか、単純に魔法防御が高すぎるのか、魔法が全く効かない。
拷問とは具体的に何をする気だ?
こいつは心の能力には長けているのか?
絶望することなどない。逃げられないと決まった訳でもない。
煙や幻、まだまだ試せる魔法はあり、攻撃するだけが魔法ではない。撹乱する手立てならいくつもある。虫なみの思考では意味のない心理戦も、人が相手なら可能だ。
“知ってることを話せ”と言うからには、首から手を放し、私の言葉を聞く瞬間がある。その時がチャンスだ。
トロワが私の顔をじっと見る。
「すごいなお前。この状況で目が死んでねぇ。俺様のロファルスにあてられて震えていたのに、その震えも止まっている。打開する気満々か? すごい自信だな」
相手は、虫や獣ではない。私の一挙手一投足を観察している。
やばいな。震える子羊の演技をして油断させておくべきだった。
「まあ、俺様の火鳥を倒して生きてるくらいだ。ただ者な訳がねぇ。知ってることはてめえの脳に直接聞く。余計なまねが出来ねぇように今死ね」
!?ッ
脳に聞く? 今死ね?
突き刺さるような明確な殺意に、心臓を掴まれているように苦しくなる。
世界がスローモーションになるように感覚が遅延して行き、トロワがゆっくりと大剣を抜く。
走馬灯のように記憶の断片が頭の中に流れ、思考が駆け巡る。
これは死ぬ。確実に殺される。打開策がない。
トロワが、笑いをこらえ切れないと言った顔でニタニタ笑う。
「やっといい顔になったなぁ。怯えろ怯えろ。それでこそ殺し甲斐がある。ヒャッヒャッヒャッ」
もしこれが何か物語や小説ならば、颯爽と現れたヒーローが助けてくれたりするが、現実にはそんなことは起こり得ない。
私は死ぬ。殺される。
もしも、誰かが助けてくれるなんていう御都合主義的な展開が起きたとしたら、それは……。
頭に浮かぶ思考がその先の思いを言葉にする前に、頭の中に声が叩き付けられた。
『烈線!閃気!霧羽の太刀!』
音速を超える響きは、まさに刹那の一瞬で言葉の意味だけを頭に刻んだ。
次の瞬間には、私はトロワの手から解放され、しりもちをつくように地面に落下していた。
目の前には、羽毛のような羽根が何枚もひらひらと舞う。いや、羽根ではない。それは白く霧散して消えた。
その霞が消えた先を見れば、左腕を切断されたトロワが、だくだくと血の流れる左腕を見ていた。
「あ゛ぁ?」
深いしわを眉間に寄せ、トロワ自身、我が身に起きたことを理解していないようだった。
その時、可憐さだけで出来たような声音が響く。
「噂に違わぬ外道の極みですね。火鳥使いのトロワ。まさに悪魔の鑑と言ったところでしょうか?」
言葉に込められた侮蔑の意味に反し、その声はどこまでも優雅で美しい。
声のした方を振り返るトロワ。
その数メートル後方に、こちらを見るでもなく横向きに立ち、町の方を仏像のような半目で見詰める少女がいた。
見た瞬間、息が止まるかと思う程の美しさ。レベルの高い友人たちのおかげで美女は見慣れているが、それでも整い過ぎた顔立ちに驚く。
長い銀髪を風に靡かせ、薄く開けた目にはサファイアのような青い瞳。
ちびな私と変わらない華奢な身体を包むのは、鎧ではなく普通の衣服。裾の長いドレスのような白い服。まとうマントも純白。
中にパニエでも着ているのか? スカートの裾は大きく広がり、中から風にゆれるレースがひらひらと覗く。
手には、レイピアのような細身の剣。遠目でも柄まわりの意匠の細かさと美しさが際立つ代物。
そして、辺りに漂うのは濃密な花の香り。ひとつ二つの花ではない。いくつもの花のエッセンスで作り出したパフィームのような人工の香り。
私はこの香りを、どこかで嗅いだことがある気がする。




