第22話 ブレンダと生きていく
ブレンダが屋敷からいなくなった。
朝、目を覚ました僕の隣には、彼女の姿がなかった。最初は庭にでも出ているのだと思った。けれど、屋敷の中を探しても見つからず、使用人たちに尋ねても、誰も彼女の行き先を知らなかった。
「……どうして」
昨夜の彼女は、いつもより元気がなかった。けれど、僕が抱きしめると、いつものように腕を回してくれた。だから、きっと大丈夫だと思っていた。僕はまた、彼女の笑顔に甘えていたのかもしれない。彼女がどれほど不安を抱えていたのか、どれほど自分を責めていたのか、僕はちゃんと分かっていなかった。
ユリウス団長に、彼女を侮辱されたとき、僕は怒った。ブレンダは僕にとって大切な人だと、彼女の価値を勝手に決めつけるなと、はっきり伝えた。あれで彼女を守れたと思っていた。けれど、本当に必要だったのは、彼女が何を感じていたのかを聞くことだったのだろう。
「ブレンダ……」
彼女がいない。それだけのことが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。いつも隣にいてくれた。朝食を一緒に食べて、他愛のない話をして、夜になれば同じ部屋で眠った。彼女が笑えば嬉しかったし、彼女が不安そうにしていれば、抱きしめて安心させてあげたかった。そんな当たり前になっていた毎日が、突然なくなってしまった。
僕は、すぐに屋敷を飛び出した。
彼女が行きそうな場所を探した。以前一緒に訪れた店も、よく立ち寄った広場も、街の宿も回った。けれど、どこにも彼女はいなかった。時間が過ぎるほど、不安ばかりが膨らんでいった。どこかで傷ついているのではないか。1人で苦しんでいるのではないか。僕の知らないところで、また自分を責めているのではないか。
彼女がいなくなった理由はよく分からない。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
僕は、ブレンダと一緒にいたい。
彼女が騎士団の副団長だったからでも、剣の腕が優れていたからでもない。僕を助けてくれるからでも、何かを返してくれるからでもない。彼女が笑ってくれることが嬉しい。彼女が安心して眠れる場所を作りたい。これから先、何年たっても、何十年たっても、隣で一緒に生きていたい。
それなのに、僕は彼女に、その気持ちを十分に伝えられていなかったのかもしれない。
必ず見つけよう。
そして、今度こそ伝えよう。僕がどれほど彼女を大切に思っているのかを。
捜索を続けて3日目の夕方、僕は街の外れにある古びた宿の前で足を止めた。
そこは、ブレンダと初めて出会った場所だった。
あの日、彼女は傷だらけの体で、3人の男たちに殴られていた。僕は彼女を助けようと割って入った。正直に言えば、あのときの僕は怖かった。相手は武装した男たちで、僕には彼らを力ずくでねじ伏せられる自信なんてなかった。それでも、彼女を見捨てて立ち去ることはできなかった。
あの出会いが、僕たちの始まりだった。
彼女は、あのときと同じように傷ついているのだろうか。今も、1人で苦しんでいるのだろうか。
僕は宿の扉を開けた。
「いらっしゃい……って、あんたか。何か用かい?」
宿の主人が顔を上げた。僕は息を整えながら、尋ねた。
「すみません。銀色の髪をした、背の高い女性を見ませんでしたか? 赤い目をしていて、元騎士の……ブレンダという人なんですが」
主人はしばらく僕を見つめたあと、ああ、と声を上げた。
「その女なら、2階の奥の部屋にいるよ。数日前から泊まってる」
その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けそうになった。
「……ありがとうございます!」
僕は頭を下げ、階段を駆け上がった。
早く会いたかった。無事な姿を見たい。声を聞きたい。どうして何も言わずに出ていったのか、聞きたいことはたくさんあった。けれど、いざ扉の前に立つと、胸がいっぱいになって、うまく息ができなくなった。
もし、彼女が僕に会いたくないと思っていたら。
もし、もう一緒にいたくないと言われたら。
怖くないわけではなかった。それでも、ここまで来たのだ。彼女の気持ちを聞かずに帰ることだけは、絶対にしたくなかった。
僕は、扉をノックした。
「……ブレンダ。僕です。ノーランです」
しばらくして、部屋の中から物音がした。
扉が、ゆっくりと開いた。
「……ノーラン?」
そこにいたブレンダは、驚いた顔で僕を見つめていた。少しやつれたように見えたけれど、怪我をしている様子はなかった。無事だった。その事実だけで、胸の奥に張り詰めていたものがほどけていく。
「……よかった。無事だったんですね」
安心した途端、声が震えた。
ブレンダは、何かを言おうとして口を開き、けれど何も言えずにうつむいた。
「どうして、ここに……」
「あなたを探していたんです」
「私は、自分から出ていったんだ。探す必要なんてなかっただろう」
「それでも、僕は会いたかったんです」
彼女の肩が小さく揺れた。
「ブレンダがいなくなって、ずっと心配していました。何かあったんじゃないかって、どこかで苦しんでいるんじゃないかって……。僕は、あなたがいないと寂しいんです」
僕は、彼女の目を見た。
「どうして出ていったのか、聞かせてもらえませんか?」
ブレンダは、唇をかみしめた。やがて、絞り出すような声で言った。
「……私は、君にふさわしくない」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
「お前はS級冒険者になり、男爵にもなった。これから先、もっと多くの人に認められていくはずだ。君の隣には、礼儀作法を知っていて、社交界でもうまく振る舞えて、君を支えられる女性がふさわしい。私のような女ではない」
「ブレンダ……」
「私は騎士団を追われた女だ。今は君に守られてばかりで、何も返せていない。君の役に立つどころか、怪我をさせてしまうことさえある。……いつか、お前は私を必要としなくなる。もっとふさわしい女性が現れたら、私は捨てられる。そうなる前に、自分から離れたほうがいいと思ったんだ」
彼女の目から涙がこぼれた。
「本当は、ノーランに嫌われるのが怖かった。だから……何も言わずに逃げたんだ。すまない」
ブレンダは顔を覆った。
僕は、すぐには言葉を返せなかった。
彼女がそんなことを考えていたなんて、知らなかった。僕は彼女と一緒にいられることが嬉しくて、彼女も同じように幸せだと思い込んでいた。彼女が自分の価値を信じられずにいたことも、いつか僕に捨てられるのではないかと怯えていたことも、ちゃんと分かっていなかった。
僕は、彼女の手にそっと触れた。
「僕が一緒にいたいのは、ブレンダです。礼儀作法が完璧な人でも、社交界でうまく立ち回れる人でもありません。あなたが剣を振るえるからでも、僕の役に立つからでもない。……あなたが、ブレンダだから好きなんです」
「……っ」
「ブレンダと一緒に朝ご飯を食べるのが好きです。くだらない話をするのも、眠る前に抱きしめるのも、楽しそうに笑ってくれるのも、全部好きなんです。あなたが僕を頼ってくれることも嬉しいですし、僕だって、あなたに頼りたいときがあります」
彼女の目から、また涙がこぼれた。
「僕は、あなたに何かを返してほしくて一緒にいるわけじゃありません。そんなことは関係ないんです。僕が、あなたと一緒にいたいんです。隣にいてくれるだけで、もう十分に返してもらってるんですから」
僕は、彼女の手を握った。
「だから、もう1人で決めないでください。苦しいことがあったら、僕に話してください。僕だって、あなたのことをもっと知りたい。あなたが何に悩んで、何を怖がっているのか、ちゃんと聞きたいんです」
「……私は、ノーランの隣にいてもいいのか?」
「もちろんです」
僕は、迷わず答えた。
ブレンダは、しばらく僕を見つめていた。やがて、こらえきれなくなったように僕の胸へ飛び込んできた。
「……ごめんなさい。ノーラン、ごめんなさい……!」
「もういいんです。無事でいてくれて、本当によかった」
僕は彼女を強く抱きしめた。
彼女の体は震えていた。ずっと泣くのを我慢していたのだろう。僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣いていた。
僕は、彼女の髪を何度もなでた。
もう大丈夫だと伝えたかった。何も心配しなくていいと、何度でも伝えたかった。けれど、言葉だけでは足りない気がした。
僕は、彼女と一緒に生きていきたい。
ただ恋人として一緒にいるだけではなく、これから先の人生を、ずっと隣で歩いていきたい。彼女が不安になったときは手を握り、僕が苦しいときは彼女に頼る。どちらか一方が支えるのではなく、2人で支え合っていきたい。
そして、いつか年を重ねても、同じように彼女を抱きしめていたい。
僕は、彼女の肩をそっと離し、顔を見つめた。
「……ブレンダ」
「……?」
彼女は涙をぬぐいながら、僕を見上げた。
僕は、彼女の手を両手で包んだ。そして左手の薬指に婚約指輪をはめた。
「僕と、結婚してくれませんか?」
「……え?」
ブレンダが目を見開いた。
「あなたと、これから先もずっと一緒にいたいんです。嬉しいことも、悲しいことも、全部一緒に経験したい。朝起きたらあなたがいて、夜になったらあなたを抱きしめて眠る。そんな毎日を、これから先も続けていきたいんです」
言葉にするほど、胸の奥にあった願いがはっきりしていった。
「僕は、ブレンダを愛してます」
ブレンダは、唇を震わせた。その瞳から、また涙がこぼれた。けれど今度は、悲しみだけの涙ではなかった。
「……本当に、私でいいのか?」
「ブレンダがいいんです」
「私も、ノーランを愛している。これから先も、ずっとお前の隣にいたい」
「……ありがとう、ブレンダ」
僕たちは、もう一度強く抱きしめ合った。




