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私だけを見て(2)

 閉まった扉から、微かに漏れ聞こえる先生のマイクの音を耳で拾うと、小百合はそのままこっそり教室の扉の小窓から授業を参観し、先生が冒頭で語る今年の授業方針を伺う。授業前に自分たちの勤務スペースと地続きである講師室へ出向いて年度開始と担当就任のご挨拶を済ませ、ある程度理解していても、先生の授業方針と同じ方向を生徒と一緒に見るための大事な再確認だ。

 同時に、手元の端末で確認できる座席表と実際の教室の状況の両方で出席チェックのない数名を確認する。ここから10分が次のラウンドになる。遅刻してくる何人かを教室へスムーズに引き入れるのだ。授業が始まってしまったため入りずらい心境の生徒を慮るのは勿論のこと、アプリだけ出席チェックして逃げる生徒が必ずいる。そんな彼らをいかに教室に入れるかがクラス運営のカギになるからだ。

 当初の予想通り、遅れてきた5−6人の生徒を教室へ誘導すると、小百合はひと段落だと満足して苦手な書類作業を早々にやっつけるため教務室へ向かった。可能な限り「りっちゃん」として生徒の目の前に在りたい以上、やらなくてはいけない仕事は迅速に最短で終わらせるに限る。 最初に段取りをつけていた通りに書類作業を可及的速やかに終え、あとは報告だけの状態にまで仕上げる。次の休憩時間に何を話すかの構想も前もって練った通りで良さそうなので、ここはひと段落か。

 と、「りっちゃん」と一人の生徒が窓口で声をかけてきた。チューターのデスクは自習室の貸出窓口に近く、生徒が声を抱えればわかりやすいように配置されている。見れば、水曜に担当している高校2年生クラスの担当生徒だった。時計を確認すると、そのまま教室へあがった方が良さそうな予感がする。端末と生徒への配布書類を抱えると、「そのまま上がるね」とだけ暁史に言い残して生徒の方へ向かった。

 一瞬、視界の端を過ぎった新入生の顔がいつもより強張っているように見えたのが目に入る。勤務初日には誰にでもあること。少しばかり懐かしささえ感じる状況に、「初日って新鮮だな」と、小百合はのんびり感じた。


 授業終了5分前。話しかけてくれた高校2年のクラスの生徒の対応を終え、バックヤードから黒板消しセットを抱えると教室の扉の前に立つ。小百合の場合、この次の3分間がその後の1年を方向付けると言っても過言では無い。特に伝えるべきことを数点、念の為に端末で確認する。続いて、ジャケットからパンツまで順にスーツのシワを伸ばし、お気に入りのヒールがお気に入りのスーツのパンツの裾を踏まないように確認。最後にジャケットのボタンをぐっと止め、息を吸い込む。ある程度、儀式になったルーティーンを重ねることで、小百合は自分自身を「りっちゃん」へと仕上げていく。

 終了のチャイムが鳴った。ここからが勝負だ。扉が開き、先生へ「ありがとうございました」と声をかけると、自分の中でスイッチが入った。さぁ、皆、私を見て。


「はぁい、皆さん、授業、お疲れ様でしたぁ!!」

授業の緊張感や生徒の集中力を敢えて壊すように、思いっきり声を張り上げた。大丈夫、生徒は誰も動かない。

「1時間目、どうだった?さて、これから3分だけ、喋るから聞いてね。残り7分は自由にしてもらってもちろん構わないので、1時間目と2時間目の間の休み時間のこの3分だけ、これから1年間、どうぞ私にくださいな?あ、トイレは行って貰って大丈夫。人間の生理的欲求の方が大事だからね。」

皆、もっと私を見て。小百合は念じながら続けた。

「今日の連絡事項3つ。それと、このクラスについてっていう今日のテーマだけ、今から残り2分半で喋ります。ついてきてね?」

皆、もっと、もっと私を見て。皆の顔を私に見せて。必要な連絡事項を伝えながら、祈るように一人一人の顔を見ていく。

「じゃぁ、次で最後。今日のテーマということで!このクラスについて話をさせてね。」

各週にある程度のテーマ設定の中から何をどう話すのか、それは各チューターに任せられる。ある意味、チューター各自の腕の見せ所でもある。

「さて、皆が今いるこの『高3ハイレベル英語総合』という名のクラスは、実は100人弱、なんだけど。私は全員の顔も名前も、皆一人一人がどういうコなのかを覚える。そして、皆をずっと覚え続ける。これは私からの約束。」

なんとなく周りの様子を伺うような生徒の雰囲気に、畳み掛けるようにして続けた。

「『りっちゃん』の担当するこのクラスでは、皆で仲良くして欲しいなぁって思うの。隣に座る全員が蹴落とすべき憎きライバル!とかじゃないクラスであって欲しいなぁって。だってさ、ちょっと考えてみて?このクラスって『英語総合』っていう大雑把な括りだから、それこそ文系も理系も、国公立希望も私立希望も、ぜーんぶごちゃ混ぜになってるんだよ。志望校も志望学部も志望順位も事細かに誰かと一緒ですなんて、もはや奇跡的な確率。だから、ここにいる全員は、意地悪し合うんじゃ無く、『自分たちの希望に向かって、切磋琢磨して頑張る仲間』であって欲しいなぁって。学校行事とかでどうしてもこれない時にノートのコピーしあうとか、ちょっとわかんないところとか授業の進み具合を教えあったり。あるいはさ、話してみて同じトコがわかんなかったら一緒に先生に質問に行ったり。そういう積み重ねで、皆自身の力で自分たちを『ただの高校3年生』から『受験生』に引き上げていけたら良いなぁって。」

小百合は話しながら、熱を帯び始めた多くの視線に吸い込まれそうな錯覚に陥った。ここで一度、声のトーンを下げる。

「受験に限らず、平たく言えばさ、『自分が今戦っている相手を見間違えるな』ってことなのだけどね。」

身を奮い立たせて声のトーンを戻して、全身全霊で言葉に思いを込める。

「一生に一度しかない高校3年生の、しかも大切な土曜日のこの時間を、せっかくココに来てるんだから。ギスギスとかピリピリして来るたびにお腹痛くなるような思い出したくない時間じゃなくて。振り返った時にココで頑張った自分たちを誇れるような、ココで皆で一緒に頑張ったんだから大丈夫だって思える時間にして欲しいと思うんだ。もちろん、これは私の理想論だから、賛成できないっていう人ももちろんいて良いよ。どうしたいのか、どうありたいのか、選ぶのは最後は皆自身だからね。」

  真剣な色の眼差しを真摯に返す。どうか伝わりますように。皆が受験を目の前にした瞬間に決して一人じゃないと思えることに励まされる、その意味が。

「あ、ごめん、そう言えば自己紹介忘れてた。ま、次の休み時間にさくさくっとしちゃうので、まずは約束の3分間、ありがとう!残り7分、自由に過ごしてね!」 

ちょっとした笑いが漏れたので、上出来だ。それぞれが思い思いに席を立つのを確認すると、小百合は黒板を綺麗にし、翌月に催される模擬試験の受験票を各自に配り始めることにした。出来るだけ名簿を見ずに、名前を目の前で確かめながら。

「えっと、え?苗字呼びはやだ?じゃ。様付けにする?もっとやだ?じゃぁなんて呼べばいい?」

「えー。 ちゃんと顔と名前、覚え始めてるよー。ほんとだってば。だって、かーなーり笑いながら私の話を聞いてくれてたでしょ。初めはすっごい胡散臭そーにしてたけど。」

 出来るだけ生徒たちと同じ目線になるように、出来るだけ生徒たちの側に。可能な限り、小百合は自分自身をクラスの中へ溶け込ませて行く。

 無事に、2時間目開始のチャイムがなる。

「はーぃ。それでは2時間目、開始となります。60分、しっかり集中してね!」

 黒板消しセットと端末を抱えて教室を飛び出すと、すでに2・3時間目を担当される小島先生がいらしていた。

「どうぞよろしくお願いします。」

慌てて頭を下げると、先生は「相変わらずだね」と微笑みながら教室へ入っていく。

小百合も生徒として散々お世話になった先生だ。この「相変わらず」はどっちの意味だろう、次回はあと10秒稼がなくちゃなぁと気合を入れ直すと、改めて出席率を確認して今回は早々に教務室へ向かった。

 社員への本日の出席状況等の報告は3限目の授業の間、小百合たちはこれを3限裏と呼ぶのだが、にすればいいことになっているので、2限裏の今はまだ時間に余裕がある。

 小百合は講師室へ向かい、1時間目担当の初野先生から授業の進度を確認すると、クラスの雰囲気についても伺ってみる。

「まだまだ新高校3年生って雰囲気だけど、既に貴女が担当してるクラスだなぁって感じがするよ。」

良かった、滑り出しは好調ってことだ。心の中で小さくガッツポーズをし、お礼を述べて講師室を後にした。

 端末で書類作業を仕上げてしまいひと段落すると、小百合は先ほどから新入生の姿が見当たらないことに気づく。早速誰か生徒に呼び出されたのかな?と思うには、デスクの上が散乱している。配り切っていない大量の模試の受験票が雑多に積まれたままの状況に嫌な予感がして、彼の端末を確認する。案の定、明らかに状況を把握していない出席表が表示された。

 小声で暁史に確認してみる。

「あのさ、新人君の姿が見えないんだけど。。。」

「いや、さっき一緒に教室から教務室まで降りて来てたと思う、、、よ?」

と言った暁史だが、なんとなく同じように嫌な気配を感じたんだろう。忘れ物したフリしてもう一度確認してくる言って、慌てて上階へ上がっていく。

 少し経って、表情を硬くした暁史が戻って来た。

いない。空き教室も、トイレも、キャンティーンも休憩所もくまなく上階から確認したけれど、いなかった。ただ、チューター専用のロッカーにはカバンもコートも置きっぱなし。どこかにはいるはずだ。

 「念の為、裏方さんたちに聞ける?」

暁史が小百合に小声で訪ねた。小百合は頷くと、トイレに行くフリをして裏方さんたちと呼ばれる掃除などの校舎管理の担当の人たちが休憩している部屋へ向かう。自身の生徒時代にしょっちゅう体調を崩して救護室で休憩していた小百合は、自然と彼らと話す時間が多くなり、いつの間にか仲良くなったのだ。小百合の大学合格を知った時は、それこそ実の親より喜んでくれた。彼らは、校舎の隅々まで色んなことを知っている。一緒に働く側になった今、彼らの持つ情報にどれだけ助けられたことだろう。

 内密にと断ってから新人を見かけなかったか質問すると、そのうちの一人が1階校舎裏口の講師専用喫煙所あたりで若い男性を見かけたと教えてくれた。確かにそこは、人目にもつかない死角だ。お礼を述べると、平静を装って何事もなかったように暁史の隣に座る。

 自分たちが初日の新入りを明らかに放っておいたのは事実だったし、彼が何かしらの理由で叱責を初日から受けるような状況はできるだけ避けたい。「講師 喫煙所」とそっと紙に書くと、暁史が咳払いをした。俺がいくと、目が訴えている。件の新人が彼の元担当生徒だったことを考えれば、妥当だろう。「あれ?大丈夫?」と聞くことで、よろしくと意思表示をした。「うーん、ちょっと喉が痛いかもしれない」

「とりあえず、うがいしてみたら?」

「さっき、思いっきりチョークの粉を吸っちゃったからなぁ。」

中身のない会話を続けながら、小百合は暁史を送り出した。

 そっと人目を避けるように講師専用の喫煙所へ向かう中、暁史は苛立ちを抑えるよう何度も深呼吸を重ねた。新入り、お前は一体何をやってるんだ。果たして彼は、そこにいた。うなだれたように、虚空を見つめて座り込んでいた。元来、講師以外立ち入り禁止だが、土曜日ゆえに人がいない。よくまぁこんな所を見つけたなと半ば呆れながら、ゆっくり声を掛ける。

「探した。とりあえず、戻ろう。」

隣にたち、そっと肩に手をおいた。

「アキ先輩、僕には向いていません。」

うなだれたまま、暁史を見ることなく歩夢が小さな声で答えた。

「今すぐ、辞表を出します。辞めたいです。」

偶然にも朝読んだ『新入社員が3日で辞表を出す』という新聞記事が、今まさに目の前で起こり掛けている。

「とにかく、ひとまず教務室に戻ろう。今日の仕事終了まで、まだあと2時間半もある。チューターの仕事の3分の1もやってみてないんだ。今日、最後までやってみてそれでもやっぱり辞めると決めるなら、言ってくれ。一緒に社員に頭を下げる。」

「でも。。。。」

躊躇したまま、なかなか顔を上げない歩夢がポツンと呟いた。

「何も、できなかったんです。最初、りっちゃんと教室に上がった時、こんな風にすればってできそうな気がしたんです。でも、実際に教室で生徒を前にしたら、何かを話すことも誰かに話しかけることも、何もできなくて。。。」

暁史は空を仰いだ。新人が一番心が折れるパターンに最初から追い込んでしまった。他の誰でもない、自分たちで。新人と3年目では、手腕に差があって当然。今の「りっちゃん」はあの雰囲気でさらっと簡単そうに何でもこなしてしまうけれど、決して昔からそうだったわけじゃない。加えて、彼女のチューター業務は他の誰よりも変わっていて、そもそもあんな風にその場を自分色に染めてしまえる人など滅多にいない。暁史だって、同じことをやれと言われたら匙を投げる。

暁史は目の高さを合わせられるように腰を落とし、今度は後輩としてではなく生徒にするように、語りかけた。

「歩夢、今は一緒に教務室に戻ろう。俺は歩夢がどういう生徒で、どういうヤツか知った上で言ってる。歩夢がどういう風に振る舞えるかを知っている。たった昨年1年だけじゃないかと言われたらそれまでだけど、それでも1年かけて適当に見て来たわけじゃない。」

「。。。。。」

「出来ると、歩夢自身が一度は思ったんだ。出来る。ただ、ちょっとスタートダッシュでつまづいただけだ。その原因は、歩夢なら出来そうだと思ってアドバイスをロクにしなかった俺らにある。」

「。。。。。。」

「本当はもっとちゃんと初回から俺らが丁寧に教えるべきことを、俺らがしなかった。申し訳ない。本来は、俺らが教えてやっとできるようになることが、出来るようになって知る楽しさがたくさんあるんだ。」

「。。。。。。」

「今更で自分勝手なお願いだと理解している。お願いだ、もう一度、俺らにチャンスをくれないか?歩夢が出来るというのを、証明したい。」

半信半疑と言った様子で、しぶしぶ頷いた歩夢に、念を押す。

「先に戻れ。で、何事もなかったように小百合に声をかけるんだ。わかったな?」

 暁史がわざと遅れて教務室に戻ると、歩夢に事細かに説明をしている小百合が目に入った。いつになく真剣な様子で聞き入っている歩夢の顔を見て、少しは落ち着いたかと胸をなでおろす。

 自分が新入りの時は、適当の極みみたいな先輩のせいで小百合と二人で放置されて何もかも手探りだった。けれど、自分たちが放置されていてもなんとかなったからと、当時の自分たちと同じように周りを見て勝手に自分で仕事を覚えてくれと後輩たちに押し付けるのは、ちょっと違うんだろうなぁと改めて思った。自分たちが初めて面倒を見る1年生。どう育てるのか、ちゃんと小百合と話す必要がある。すでに今頃、彼女の頭の中では反省会とプラン作成が始まっているかもしれない。

 いつの間にか次の授業の終了チャイムの時間が迫っていた。各担当教室に上る直前、ふと小百合が歩夢に声をかけた。

「あのね、緊張っていうのは、自分を自分以上にカッコ良く見せようって思うから、するの。でもね、残念なことに、どうあがいたって歩夢は歩夢以上になる事はないの。だから、余計な欲を出さなければいい。」

そのまま自分の担当教室に向かってしまった小百合の背中を見て、暁史は仕方なく解釈を付け加えた。

「要は、変にカッコつけなきゃ心配はいらないよってこと。担当する高3なんて、歩夢にはただの1コ下だろう?つい数カ月前までは、同じ高校にいた生徒だっているくらいだ。下手に先輩ヅラするよりは、1コ違いの強みで部活の後輩と接するんだってくらいの気持ちでいけばいいさって事だよ。」

ちょっと待て、小百合?!直前の人の説得をぶち壊しかけやがって。俺がカバーしてるおかげで、小百合はこの瞬間イヤなヤツじゃなくて済んでるんだからな。ため息をそっと胸にしまうと、歩夢の背中を押した。

「行って来い。大丈夫だ。もう一度言うけれど、歩夢には出来る。」


 その頃、教室の前で黒板消しセットと端末を抱えながら、小百合は一人大反省会の真っただ中にいた。廊下で漏れてくるマイクを通した先生の声に、不思議と「自分が1年目の時はどうだったのか」と問いかけられている気になる。

「そっかぁ。新入りってことは、ちゃんと教えるっていうのが要るんだ。」

小百合自身、正直に言えば、適当大魔王の異名を誇る先輩の所為で何かを教えてもらった記憶がない。だから、1年目なんて何やってかわかんないうちに駆け抜けてしまったし、2年目でようやくなにかを掴んだ錯覚があった感じだった有様だ。自分が果たして仕事が出来ているか出来ていないのか悩む暇もなければ、悩むという選択肢もなかった。

 それでも思い起こせば、同じように訳がわからない状態で何をどうすべきか言いたいことぶつけあえる暁史がいてくれた。担当の先生方は自分自身が生徒時代にお世話になっていた先生ばかりで、たくさん助けられた。そして何より、これまで担当してきた生徒が「りっちゃん」がどう存ったら良いかを教えてくれた。結局は周りに甘えてたってことかと思うと、悔しさを超えて苛立ってくる。

 が、いかんいかん深呼吸だ。これから目の前にする生徒に何の咎もない。このまままの雰囲気丸出しだと、ただの八つ当たりになってしまう。じっと授業が終わるのを待ち構えて、小百合はいつものルーティーンを行なうことに集中した。スーツのシワを伸ばし、ヒールを確認する。そして、ぎゅっとウエストを絞るジャケットのボタンを締めて、深呼吸。

チャイムが2時間目の終わりを告げる。個人的にどんな心情であろうが、生徒の目の前に立った瞬間から、小百合は自分の全てが「りっちゃん」になる。抱える想いはただ1つ、「生徒の皆、一人一人をおもう」。それだけだ。

「はぁい、皆さん、2時間目の授業、お疲れサマでしたぁ!ここでもう一回、10分間の休憩になります。自由に過ごしてね!この時間、私は模試の受験票を皆に配りながら、うざーく話しかけちゃうので、面倒でもお返事してくれると嬉しいでーす。あ、ちなみに自己紹介なんだけど、、、、、えっと、『りっちゃん』って呼んでね。一応、真里谷小百合っていう名前があって、教養学部3年生。皆にはもしかしたら残念なお知らせですが、私は1年ほど遠回りをしてます。だからこそ、私みたいにプラス1年の受験生活を送らずに済むように、これだけはホントにやらないほうがいいよっていう、実はこれやったら成功しますっていうよりはすんなり素直に聞けるアドバイスができると思う。えっと、他にも聞きたいことあるかな?あったら1階に張り出してあるあの指名手配書みたいな自己紹介書チェックするとか、、せっかくだから直接聞いて!体重以外の質問なら基本的に答えるよー。」

 笑いながら自分を見守り始めた生徒に嬉しく思うと、名前を確かめながら受験票を配り、可能な限り1対1で会話を重ねる。自分に向けられているのが、今はたとえだだの好奇心であっても、それさえ真っ直ぐに伝わってくるのが改めて愛しいなぁと思う。

早速、「りっちゃん」と呼んで話しかけてくれるグループも出始めた。ねぇ、この初日から皆のことを好きになりすぎると、逆に終わりの日を意識しちゃって今から震えちゃうよ。幸せな不安を抱えながら、言葉ではなく全身で「皆のこと、大好きだからね」を伝えていく。

 10分というのは、長いようで短い。あっという間に、3時間目の始まる3分前になったので、小百合はここで口を開いた。

「さーて!次の授業が始まる3分前になりました。普段は喋らないんだけど、今日は初日なのでちょーっと喋っちゃいます。今のそのまんまでいいよ。ドリンクを飲んだり、おやつをつまんだりしながら、ちょーっとだけ聞いてね。」

順にクラス全体を端から見渡していくと、生徒たちの聞く姿勢が初日から出来つつある事に気付く。予想以上の反応だ。

「このクラスのルール、2つめ!1コめは、さっきの『顔芸でワカリマセンを言おう』だったでしょ。理由なんだけど、皆が誰かと話している時、目の前の相手が仏頂面で微動だにしなくてどうして良いかわからない思いをした経験ってあるかな?相手からの反応を見て、話を調整した経験ってあるよね?ってこと。あれには、何がわからないからどう説明して欲しいのか、先生に分かってもらうっていう大事な役目もあるの。で、2つ目のルールなんだけど。『授業が始まる3分前は、神聖な時間!』です。先生方って、だいたいここにある教卓に到着された瞬間から、もう授業の全てがトップスピードでスタートしてるのね。」

小百合は、一段上になっているところに設置されている講師専用のデスクを指差す。小百合が敢えて、決して登らないところでもある。

「でも、皆が休み時間ギリギリまでわちゃわちゃしてまだちょっと休み時間モードだったりすると、先生はせっかくありったけの時間を使うために最初から最速で授業を開始されているので、皆と先生で開始時点で速度差がでちゃう。で、そういう小さいスピードの差が実は皆が授業でおいていかれる原因になっちゃったりするの。だから、授業がそろそろ始まりそうだーって時間になったら、先週どこまでやったっけな、さっきどこで授業が終わったっけなってちょっと思い出す時間にしてみてほしいな。その思い出し作業が、これから始まる授業への橋渡しになって、すんなり先生と一緒に始めからトップスピードで授業に臨めるようになるから。お、ごめん、私が話した所為で休み時間が残り1分になっちゃった。それでは、私からのお話はココまで!さぁ、ちょっとだけ、トイレとか急用がない限りは、騙されたと思って次の準備に取り掛かってみてね!」

小百合はさっと端末を抱えると、教室の外に出る準備をして見せた。すると、それまで思い思いに自由にしていた生徒たちが、自分の席で落ち着きを取り戻し始める。その光景をよしっと眺めると、切り替えのための一言を加えた。

「それでは、3時間目、開始になります!」

チャイムが鳴り、教室の外へ飛び出す。

「よろしくお願いいたします。」

教室内へ向かう、3限目も同じく担当される水島先生に頭を下げると、小百合はほおっと息を吐き出した。やっぱり初日は、いつも以上にドキドキするのだ。端末でシステムが把握出来ている出席状況と教室を見渡した実際の出席状況に違いがないことを確認して、その場を後にした。このクラスをもっともっと好きになりすぎてどうしようという悩みが今後膨れ上がっていく幸せな予感に包まれながら。


 昼シフト3限裏の教務室は、夜シフトの面々が続々と到着する時間と重なる。予想していた通り、昼シフトの3人の時とは打って変わって、賑やかな雰囲気になっていた。緊張と不安でガチガチだった歩夢も、同期と話したり他の2年生と話す中で、やっと本来の姿を取り戻しつつある。ホッと胸をなで下ろすと、小百合は同時に賑やかさの中心にげんなりもする。御多分に洩れず、アキ様降臨といった状況の再開。いつものことだけれど、ここはホストクラブか何かかとツッコミたい気持ちを毎回抑えるのはなかなか至難の技なのだ。そういえば、歩夢も生徒の時から相当のプレイボーイで有名だったはず。先の懇親会でも、だいぶ注目の的になっていた。いったい社員は今年はどういう采配をしたんだろうかと、打ち合わせでのシフト発表の時に佳哉が相当面白がっていたっけ。小百合には、いい迷惑でしかない。

 面倒なので問題の芽でも発見するまではまとめて放置を決め込み、小百合はサクッと社員への業務報告を済ませる事にした。小百合の場合、この報告は最短時間に絞られる。

「今年は、どう?」

「まだまだ高校生だなぁって感じるところが多い分、素直に聞いてくれて順調なスタートです。仕上げるまでに、通常よりやや細やかな指導は必要かと思います。」

「100超えても、維持できる?」

「あ、いけますね、今年なら。」

「じゃ、そういう事で。電話だけ、掛けておいて。」

え、つまりはどういう事ですか、と聞き返す間も無く、社員は小百合の報告書を確認済みのフォルダへ送付した。

 まぁ終わったならいっか、と深く考えることは放棄して席に戻ると、少しばかり気の重い作業に入る。本日欠席となっている各生徒のご自宅にお電話するのである。留守の時もあれば、風邪や学校行事などという安心できる理由もある。ところが、うっかり保護者が欠席の事実にお怒りになられることもごくたまにあり、やってみるまで予測のつかないなスリル満点の業務である。これが得意な人は、いない。いるなら「神様」と呼びたいほどだ。

せっかくなので歩夢を呼び、3者通話機能をミュートにして実際に電話を聞いてもらいながら、どう対応するのかを見せることにした。同時並行で、暁史が歩夢用に原稿メモか何かを作っているはずである。実際に電話をかけてみれば、学校行事で欠席という想像以上に呆気ない理由が多く、さっさと終わったことにホッとした。初日にこれ以上の心理的負荷を、歩夢にさせずに済んだのだ。

 一通り業務の説明を付け加えると、今度は歩夢がいよいよ電話に取り組む番になる。ここはアキフミが原稿とともに側で一から教えるようだ。

 ふと、「りっちゃーん」と叫ぶ声が聞こえる。見れば、昨年高校3年生として担当し、今年もう一回頑張ると決めた元生徒だった。言っていいよと暁史の目が訴えているので、お言葉に甘え元生徒のところへ駆け出した。

 駿河アカデミーでは、勉強スペースの提供として主に高卒生クラスの生徒を中心に自習室を用意している。どうやら自習室へ通い、今日はその帰りに寄ってみてくれたらしい。高校生クラスでお世話になったからこそ、もう一度生徒としてチューターに声をかける勇気と意味を十分に身を以て知っている小百合は、嬉しさに飛び出していく。積もり積もる話をしているとあっという間に時間は過ぎる。名残惜しくも、時間には限りがある。「私、水・土に居るから。またいつでも寄って!」と告げると、笑いながら 「知ってる。またね!」と返してくれる。貰った返答に顔が緩むのが止まらない。しっかりしなくちゃと自分を叱咤して、端末を抱えて再び教室へ向かった。


 廊下にわずかに聞こえる先生の授業のBGMに、小百合は端末を抱えていつもの身支度のルーティーンをこなす。この教室では夜シフトの授業が続いて行われるので、できるだけ早く次のチューターに教室を引き渡さなければならない。そうかと言って、追い立てるように生徒を帰してしまえば、せっかく小百合に声を掛けてくれようとする生徒から会話の機会を奪うことになってしまう。教室を出れば「授業が終わった」感覚が強くなるせいか、やっぱり声をかけなくてもいいや、という雰囲気に自然となりやすいのだ。どうやって雰囲気を作って会話までの導線を作るべきか、今年はやや考えあぐねていた。なるようにしかならないのは、経験からもわかっている。けれど、出来るだけ多くのパターンを先に想像して描いておくことで、可能な限りのベストな方法を見つけたいと思うのだ。

 3限目の終わりを告げるチャイムがなる。初日の仕上げだ。扉が開き、先生が退出される。「ありがとうございました。」といつも通り声をかけると、「後で、ちょっと講師室に来て」と仰られた。一瞬、成績が悪くて何度もお世話になった自分の過去が重なって動揺するが、すぐに立て直し「はい、伺います。」と返事をする。この時間の主役は小百合じゃない。主役は、今この教室にいる生徒たちなのだ。そして、自分は今、「りっちゃん」だ。

 「はぁい、3時間目、お疲れさまでしたぁ!これで今日の全部の授業が終わりになります。今日の分をしっかりお家で復習、で、来週の分の予習もしてね!予習・復習についての細かいことはまた別の日に説明します。」

帰り支度を始めている生徒が教室を出てしまう前に、この一言は押しこみたい。少しだけ声のトーンを上げて、早口で続ける。

「で、押し込みます、3つ目のクラスのルール!今日、お家に帰ったら、お家の人に『りっちゃん』のお話をして下さい。あんまり普段親と話さないーって人は、特に!今日の担当チューターが謎だったとか、どんな切り口でもいいの。今は、『えーっ、親に言うのー?』って疑問に思うかもだけど、これが後々、受験に関する特効薬になったりします。私は現役の時にそこで失敗したから、って言えば脅しになっちゃうかな?」

この一言で生徒に動揺が走らないことに、逆に小百合がちょっと動揺してしまった。うーん、なんだろう、この感覚。

「では、この後ココは次の授業で使われちゃうので、私は1階教務室のところにいます。しばらくは1階に居るから、『りっちゃーん』って声かけて!ポツンって私を一人ぼっちにさせないでね。」

ちょっと笑いが起こり、それぞれが教室を出て行く。

ふうっと息を吐き出すと、目の前に同じ高校の制服に身を包んだ女子3人が待ち構えていた。「下まで一緒に行っていい?」と可愛いことをお願いされたので、もちろんっと頷いて、他愛もない会話をしながら一緒に1階まで階段で降りて行った。初日からあれこれ相談というのは正直、なかなかない。あるとすれば、結構な厄介ごとだったりする。

「じゃーね、また来週!」

笑顔で手を振って生徒と別れると、お陰で先生に講師室へ呼ばれた理由がなんとなく想像できた。今年は素直な生徒がすごく多い。話もちゃんと聞いてくれるし、アドバイスをすれば早速チャレンジしてくれている様子だ。その分、全体的に例年よりやや幼い雰囲気なのだ。後ほど先生と改めてお話をして、小百合は自分の感じた感覚が正しかったことを悟る。こういう雰囲気だと、自分の発言一つが想像を超えた強さで伝わってしまう怖さがあり、逆に伝わって当然のはずの事柄が思いもよらずに伝わらない事態が出てきたりもしやすい。気をつけなくちゃな、と改めて背筋を伸ばした。

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