私だけを見て(1)
「さて、で、誰もいない。いや、まぁ、わかっちゃいるんだけど。」
暁史は周りを見渡した。本日は、採用では最も配属競争率の高いわずか3人の土曜日昼時間シフト。そして、チューター業務開始5分前。しかしながら、自分たちの勤務中の滞在場所であるはずの1階教務室のチューターデスクにいるのはただ自分一人。予想していなかったわけではない。けれど、予想通りすぎて、拍子抜けする。
先ほど社員に指示された通り、今日の業務に必要な書類やデータは暁史の手によって全て準備してある。チューターが使用する端末も確認済みだ。言い訳をすれば、今日は先に暁史が出社した暁史が準備しただけであって、小百合が先に出社した時は彼女が大概準備している。なんとなく、二人の間でそうなった慣習だった。
だいぶ前までは全て紙ベースの印刷物であった業務関連の書類は、情報の秘匿性や管理徹底のためほとんど共有のタッチパネル式の指定端末で見る状況になった。そのため、業務の準備は圧倒的に楽になったんだよと駿河アカデミーのチューター業務担当社員の夏観正吾さんは言う。が、この端末を教室のいかなる時でも常に小脇に抱えなくてはいけないのも、それなりに大変だと暁史は思う。この端末1つに、どれほどの情報量が詰まっていて、それを当たり前のように業務として携行させられている怖さ。そこまで意識してどれほどの人間がこの端末を携えているのか、想像したくないほどだ。小百合が自分の端末を敢えてこの教務室の暁史の前に置きっぱなしにしているのかが、暁史のもつ恐怖心が正しい方向だと認識させる。こういったことは出来るだけ考えたくないと、業務に向かう度に思う。
暁史が無意識に小さく息を吐くと、何かの気配を伝えるように、誰のものかすぐわかるグレーの洒落たジャケットが隣の椅子からするっと滑り落ちた。誰かが拾わなくちゃしょうがないじゃないかと自分でも訳の分からない言い訳をしながら暁史がそっと拾い上げると、自分のよく知る甘い香りがふわっと広がった。紛れも無い、小百合のものだ。
さきほど駆け込むように出勤してIDカードを通し、カバンとコートをチューターの業務時の指定のロッカーに文字通り放り投げてぶち込むと、新年度開始の挨拶をする間もなくそのまま生徒に「りっちゃん」と呼ばれて何処かに消えて行った。これは、暁史にとってはいつの間にか見慣れた景色だ。だから、わかる。わかるから、いい。だから、これはいつも通りだ。
けれど、来ている気配がある新入生の姿が見えないのが、暁史は無性に気になる。想像できない状況というのがあまり好きではない自分には、好ましくない。この状況から察するに、どうやら業務の説明も兼ねて小百合の仕事に付いて回っているようだ。
村田歩夢、国際経営学部、1年。芸能事務所に所属していると言われても何の違和感もない女性っぽい甘いルックスに、細身で、小柄。趣味もサークルも、ダンス。軽い口調でスッと場に馴染んで、笑いを取りながらいつの間にか場を自分色にしてしまう。私服はゆるっとスーツはピタッとという謎なセリフを吐きながら登場した件の業務チュートリアルでは、「これからクラブだな?」という謎な着こなしをしており、流石に社員に注意をされていた。完全に人工的な茶色の髪に生来の漆黒の瞳が絶妙なアンバランスさで、うっかり引き込まれそうになる雰囲気と相まって、非常に妖うい雰囲気だったのが記憶に新しい。本人はそんな自分の容姿の使い方を充分に熟知していて、異性関係が御多分に洩れずややこしい。同性の暁史からは理解できないが、しかしながらそのややこしさを女性陣に許す魅力が彼にはどうやらあるらしい。好き嫌いがハッキリとしていて誰でもくるもの拒まずではない地に足がついた恋愛活動をこなしているお陰でか、誰かさんと違って高嶺の花の王子様にはならないタイプというのが佳哉の酒の肴になっていた。要約すれば、毎回長続きしない浅い付き合いだけれど、取り敢えず女子から押しきられていつも好みの自分の範疇内に治まる彼女がいる様子だという。なんとなくカチンとしつつ発した「それは業務に関係ないのでは?」という暁史のツッコミに対して、「これから起こりそうな人間関係を把握する上では貴重な情報だよ」と佳哉は真面目に返答していたっけ。
そんな人物をチューターに勧誘してはどうかと社員に相談された時に暁史が迷い無く社員に推したのは、彼は自分の担当生徒として非常に真面目で好印象だったからだ。遅刻や欠席はない上、教室であっという間に高校の垣根を取り払って友人を作り、何かと相談を受けては応えていた。わからないことはわからないと素直に言えて、暁史にもわからないことを恥ずかしがらず質問していた彼は、生徒とどう接するチューターになりそうか容易に想像がついたのだ。何があっても生徒に手を出すなと親睦会で佳哉から直にキツく言われた以上、問題が起こることはないと信じるに足る要素も、生徒であった時から充分にあった。
業務開始、30秒前。そろそろ小百合を校内放送で呼び出すかと覚悟を決めると、何かが猛スピードで視界の端を動いた。暁史には、確認せずともわかる、いつもの光景。一瞬にして小百合がいつもの佇まいを整え、横で微笑んでいる。呆れるほど、相変わらず。彼女はそのまま「今年もよろしくね」と暁史に言って書類に目を通し始めると、その前で新入生が目を輝かせながら同時に着席した。
「真里谷さん、ありがとうございました。参考になりました。」
「そぉ?だと良いんだけれど。わかんないことあったら、遠慮なく聞いてね。」
「ハィ。」
「あ、呼び方、『りっちゃん』でいいから。」
「え、あ、ハィ。じゃ、僕は『歩夢』で。」
小百合が珍しく怯んだ。
「名前でいいの?」
「え?ダメなんですか?」
なぜ、そこでお互いが疑問形?という解決を許さず、すぐさま、社員による簡単な連絡事項の伝達が始まった。今日中に生徒に伝える事、渡す書類、受け取る書類の説明などだ。年間の大まかな事は年度開始前のチュートリアルで聞いてしまうので、勤務日はより詳細かつ具体的な指示になる。目の前では、眉間にシワを寄せた小百合の姿が目に入った。毎度のことだけれど、説明なんかろくに聞いちゃいない。既に月曜日から新学期の業務としてスタートしており、先に仕事を済ませた水曜シフトである程度の情報を聞いたからというより、自分勝手に担当クラスの名簿の暗記に集中しているのだろう。座席表を睨んだまま、微動だにしない。
呆気なく業務連絡が終わり、念の為にとそんな小百合を見つめる新人さんに補足説明を提案すると、「大丈夫そうです」とだけ、こちらはどこかうわの空のそっけない返事が返ってきた。そう言われてしまえば、暁史に出来ることは他にない。
そうだこうだしているうちに、上階にある教室へ向かう時間になる。それぞれが担当教室へいろんな思いを込めて向かう時間だ。これから、初めて自分が担当する生徒と会うのだ。
第一の声かけは、授業のための座席確認からだ。生徒は各自で教室の前後の入り口に設置されたスクリーンに専用アプリか専用カードをかざして出席チェックをし、その後アプリに表示された席を各自で確認して座る仕組みになっている。席の場所による不公平感の是正を考慮して毎週席次が変わるので、慣れてしまえばなんてことないが、最初は誰でも確認作業に手惑う。その際、各チューターは手元の端末で記名された座席表と照らし合わせながら声をかけるのだ。これが、1年を通じてコミュニケーションの基幹になる。チュートリアルでも、散々指摘をされていた。
さて、今年はどんなクラスが待っているのだろう。
賑やかな笑い声、緊張感、不安。時々投げかけられる、試すような視線。この時点で、小百合には既に全てが愛しい。高3年ハイレベル英語総合。略称、高3H英語。今年も担当できる喜びと、どんなクラスになるかの期待で、踊り出したくなるような高揚感ではちきれそうになる。初日だけは、授業開始3分前になるまで小百合できるだけ口を開かない。代わりに名簿を元に、小百合はゆっくりと教室を見渡す。8割は既に来ている。上出来だ。ここがグループ、こっちが別のまたグループ、多分、このコは一人で来ていて、この子たちが高2からの継続組、あちらは多分、今日が初、こっちが別曜日で既に他教科を受講済み、、、、出来るだけ正確に、ひとり一人の顔や髪型、服装をなぞっていく。
出勤するなり社員から笑顔で手渡された小百合の担当生徒表には、初日で88人の名前と高校名が刻まれていた。けれど、小百合にはクラスに在籍する総数はどうだっていい。覚えておくべきは、あくまでコミュニケーションの基本はチューター1人対多勢の生徒ではなく、りっちゃん1人対生徒1人だということ。
授業開始まで、残り3分を切った。小百合は一度瞼を閉じてから、思いっきり深く息を吸い込む。ここが、全ての始まりだ。この最初の一言で、生徒に「あなたのことを想う」と、全身全霊で誓うのだ。 決意と共に、目を開けた。
「はぁい、皆さん、こんにちは!!!授業が始まる3分前。ということで、席についていないそのまんまの状況でいいから、聞いてもらえるかな?あ、トイレとか、全然行って貰って構わないからね。」
某有名アミューズメントパークのアトラクションの案内のお姉さん、或いは天気予報のお姉さん、または劇団員として発声しているようだと称される良く通る声が、教室中に響き渡った。200人近く収容できる大教室でも、小百合はマイクを使わない。小賢しくなった大人と違って。まだ柔らかい心がむき出しの状態の高校生だからこそ、小百合が真剣に出した声ほど生徒はちゃんと真剣に拾ってくれるからだ。
初めて小百合を目にした生徒はギョッとしたように、あるいは胡散臭そうに、または面倒そうに。反対に、昨年度高校2年生として担当した生徒はその様子を笑いを堪えて。各々の生徒がそれぞれの思いで、小百合を見つめる。
よし、このまま一気に惹きよせよう。今年も可能な限り敬語を使わない方がいい。それを今、小百合はこの場で決めた。息を注いで、出来るだけ一人一人の瞳を掴みながら、畳み掛ける。
「連絡事項だとか、自己紹介だとか、そういうのは次の休憩時間でするので、安心してね。今年度、この高3H英語のチューターを担当することになった『りっちゃん』です!それだけこの瞬間に覚えて!で、今は自分の席につくことと教科書出すことに集中してね!」
もはや呆気にとられるだけになった教室の雰囲気に満足すると、次の一押しに移る。
「うっかり教科書がないとか、この混乱だけ生んでくれるありがたーい座席表で迷ってたら、目でアピールして! 教科書のコピーもこっそりあるし、座席は一緒に探そう。」
授業開始のチャイムまで、残り、1分半。教室から不安と緊張感が薄れ、戸惑いと笑いと好奇心が増さった温度に変わっていくのを肌で感じる。大丈夫、きっとこれで、うまくいく。小百合は確信を深めると、助けを求めて揺れる瞳を探し出しては早速名前を確認し、それぞれの指定されている座席へと導く。計算通りに、順調に授業へ向けた席が整っていく。
残り30秒。ここで大事なルールを有無を言わせない勢いで押し込む。
「あ、後で他にも色々付け足すけど、まず1コ目のこのクラスのルール!今日の授業中に先生の説明でわかんないとこがあったら『ワカリマセン』っていうのを、テレビのバラエティ番組の隅っこに写る枠内での、あの顔芸に負けないクオリティで、顔全部で先生にアピールしてね!!」
小百合の勢い飲まれた空気に、楽しそうに叫ぶ。
「それでは第一限目、開始になります!」
端末を抱え、教室を飛び出す。と、1時間目の担当講師の初野先生がまさにこの教室へ向かっていらっしゃるのが目に入った。ベストなタイミングでチャイムが鳴り、目の前を通り過ぎる先生へ頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。」
閉まった教室の扉に、小百合はそっと呟いた。
「先生、今年も最高のクラスになりますよ。」




