初めての日(2)
見慣れない大人数に戸惑いながらそっと周りを見渡し、嬌声の元凶にげんなりしたのは、きっと一人ではない。
初めまして、憧れだったんです、シフトの曜日一緒です、今年はどのくらいご一緒できそうでしょうか、どこのクラスにいました、、、怒鳴っても叫んでも意思疎通に十分に支障をきたす相変わらずの騒音の中、仕方がなく声を張り上げた。
「ケイト、もう一本、赤レッド持ってる?」
賑やかな席で目を光らせ続ける大和撫子が、疲れを隠さずに頷いた。法令遵守がより尊ばれる昨今の情勢に合わせて、今年度から20歳未満の全員と帰路に運転する可能性のある親睦会参加者全員に赤いプラスチック製のリストバンドを強制的に着けさせることを決めた。最近、音楽フェス等でも使われている素材と同じもので、一度装着すればハサミなどで切り込みを入れるまで簡単には外せない。通称、紅組。この赤いリストバンドがなぜか「赤レッド」と言う重複した呼称になったのかはもはやご愛敬。一説には赤いリストバンド、赤いブレスレット、赤はレッドというどうしようもない言葉遊びからだと言われているが、真相は闇の中だ。彼らには、一切のアルコール類を口にさせない。席も「アルコール提供禁止区域」として一箇所にまとめ、テーブルには丁寧に結婚式会場のような立て札まで立て、お店の店員さんにも注意喚起して協力して貰うような態勢を整えた。S N S等でどこの誰に何がどう発信されるかわからないこのご時世。以前から今日のような現場の写真や出来事そのものは決してSNS等で公開しないようにチューターどうしで徹底させて来てはいた。が、今年からはさらに、部外者のバカッターのような存在に巻き込まれてせっかくの内定や社会的な信用を失ったりせぬよう、自分の身を守るのは自分達しかいないとして追加策を講じたのである。
「赤レッド?ある。ちょっと待って。」
カバンの中身を探す姿さえ絵になるなぁと、彼女の後ろ姿を改めてじっと見つめた。
大野恵叶、文学部国文学科、教職課程、3回生 。緑がかった背中まである真っ直ぐな黒髪に、透けるような白い肌。小柄でかなり華奢な体からは想像もつかないほど意志の強い目。黒いタイトスカートに腕まくりした白いシャツに、兄から拝借したと言う少しごつめの男性物の時計。シンプルな着こなしが逆に彼女自身を芯から一層引き立てて、学生が使うカジュアルなお店の雰囲気から明らかに浮いている。かれこれ中学生の時から一緒にいる仲間たちは口を揃えて言うのだけれど、恵叶以上の美人にまだ出会ったことがない。驚くべきは、恵叶は自分の容姿にまるで頓着していないことだろう。アナウンサーとかタレントに興味ないの?と昔にそれとなく尋ねたら、「私は安定を愛してるの。論外。」とバッサリ否定された。外見などという不確かなモノで自分の将来設計をするなど、彼女には無鉄砲としか思えないらしい。そんな恵叶のご家族は、確か国家公務員だ。安定志向・品行方正の鏡みたいな美女は、自然にチューター内でも風紀委員長のような役目を果たしてくれている。ただ、ライフワークとして中学生の頃から自分の好きなアーティストのライブに遠方含めせっせと通っているのだから、人間、どこかで何かのバランスをとっているのかもしれないとも思う。
「で、?これ、誰用?」
不機嫌を隠さずに恵叶が問えば、さらに不機嫌になれるような回答が遠慮なく返ってくる。
「王子様が、原チャで来たって言ってる。」
「はぁあああ?そこまで面倒みないよ?」
「うん。」
「私はイヤよ?」
「うん、わかってる。ダイジョブ、私が渡すから。あ、あと、カレが30分後くらいに来るって。よかったね。」
そして、恵叶は社員さんと秘密の社内恋愛中でもあるとかいう噂だ。いや、彼女が恋してない状態なんて、見たことないけれど。
「それ以上ここで言うと、会計全部回す。」
疲れもあって目が据わった恵叶に慌てて頭を下げる。
「あ、ハィ、言いません。じゃ、ちょっと戦ってきます。」
「姫は、ハート強いよなぁ。」
最も参加したくない種の女の戦場へ向かう後ろ姿へ恵叶がそっとエールを送っていると、上からのんびりした声が降ってきた。恵叶は思わず条件反射で唸る。
「見てたなら、高みの見物を決め込んでいないで注意してよ。元はと言えば、今年のリーダーになったアナタの仕事でしょ。」
見上げれば案の定、グラスを片手に上機嫌なメガネが、話題の王子様の輪に目を向けていた。
南雲佳哉、理学部物理学科、3年。アパレル勤務ですと言っても疑われない抜群のセンスで、女子が羨むような小さな顔と細身の身体を、うっすら光沢のある素材のぴったりめのスーツで包んでいる。何かを分析して理論化することが好きで、だからと言って細かい枝葉にこだわりすぎず、結果的に全体像を俯瞰出来るところは誰もが尊敬している彼の美点だ。機転が利き、面倒ごとはちゃっかり誰かに任せてしまえる天才でもある。敢えてのメガネで柔らかな印象に仕上げて好青年の雰囲気をまとっているけれど、 あの個性的なメガネを外した姿を見た衝撃は、一生に一度あるかないかだろう。人畜無害に見えるけど実際は超絶有害という典型例だと恵叶は思う。そんな佳哉は恵叶と共に、昔からあの子を姫と呼ぶ少ない仲だ。
「俺は絶対にごめんだね、あの中に入るのは。ほら、1年女子の姫を見る目。昼ドラの世界そのまんまじゃん。タイトル、『アキ様と大奥』って、流石にそれじゃぁひねりがなさすぎか。でも、『姫と王子様』になったら彼女たちにはもっと不満だろうけどねぇ。」
正直どうでも今それはどうでもいいんだけど、と恵叶が言い返す前に、「それに」と佳哉が続けた。
「俺がリーダーになったのは、ただの消去法。王子様ならハーレムができあがっちゃうし、姫ならアイデアが暴走して崩壊。恵叶なら帝政エカテリーナになっちゃうから、良くも悪くも適度に適当な俺が選ばれただけ。と言うことで、腐れ縁も引き続き、よろしく。」
幼稚園の時から一緒なのがよりによってなんでアナタなのよ、しかも、よりによってエカテリーナってどういう意味よ?とため息を吐きながら改めて恵叶は佳哉の背中を突いた。
「流石にアレは目に余る。ゴチャゴチャ言わずにさっさと佳哉がお行き。」
「ハイハイ、そこの王子様、赤いお印をおつけ申し上げてもよろしゅうございますぅ?」
恵叶に押された勢いで結局飛び出さざるを得なかった佳哉は、嬌声の壁を超えられずに右往左往していた姫から赤いリストバンドを受け取ると、半ば強制的に該当人物の右手首に巻き付けた。
すぐさま、「もしかして、アキ様、今日はお車ですか?」と言う黄色い声の攻勢が始まる。どうやったら彼に家まで送って貰えるのか、彼と二人きりになれるのか、彼女たちの関心はそれだけなんだろう。俺の存在なんて完全に無視だよなぁとボヤきながら、佳哉はさっさとその場を退散して改めて彼とその取り巻きを眺めた。
高村暁史、理工学部電子化学科、3年生。長身、細身で筋肉質。ゆるいウェーブの茶色の髪に漆黒の瞳、通った鼻筋、健康的な焼けた色の肌。洒落たベージュのパンツに敢えての濃い茶色のジャケットを着崩し、モデルとサッカー部エースを足して2で割るときっとこんな感じに仕上がるんだろうなという出で立ちである。同性から見ても充分に非の打ち所がない。それに加え、どんな相手にも瞬時に笑顔を向けてゆっくりと同じ目線で柔らかく話しかけられる特技。出来上がるのは、老若男女のファン軍団。誰もが認める王子様体質である。
さて一体、今年は何人の女子が泣くのやら。取り敢えず彼1人がいてくれればその場の80%の人間はコントロールが可能になるから案外便利なんだけどなぁなどと佳哉は腹黒いことを考えながら、敢えて遠くから大きい声で告げた。
「ルールは絶対に守れ。何かあっても責任は自分でとれ。俺らは知らん。それと、姫がそろそろ帰る。」
「皆、ちょっとごめんね、少し席を外すけど、いいかな?」
ふわっと微笑んで席を立つと、周りにいた何人かの女子がパッと顔を赤らめて頷いた。暁史が自身の容姿や振る舞いがどうやら人に影響を与えるらしいと気付いたのは、早くも幼稚園生の頃だったように思う。小学校高学年の時には既に、笑顔と言葉次第で大体のことを無難に済ませられるようになっていた。なんとなくだけれど、こう振る舞えば大丈夫というのを感覚的に掴んでいったのだ。
結果的に女性に囲まれやすくなって、やっかみも兼ねて王子様扱いされるようになったけれど、実のところは厄介ごとや争いごとが苦手で、できれば何事も穏便にすませたいだけ。周りにいる女の子たちは可愛いとは思うけれど、それだけで特に関心はない。佳哉たちはとっくに自分のそんなところを見抜いている。だから、手厳しい。
「帰るなら駅まで送るけど。」
佳哉に貰ったその場から逃げ出す口実を口にすると、帰る支度をしていた彼女がひどく嫌そうな顔をして暁史を振り返った。言わずもがな、彼女には今、暁史の周りの女子から放たれる冷たい視線が無数に突き刺さっている。
真里谷小百合、教養学部人文学科、3年生。生徒からも担当講師からも「りっちゃん」と呼ばれる名物チューターだ。健康的でバランスの取れた体躯に、生来の白い肌を少し日焼けさせ、肩までのゆるいウェーブの茶色の髪。細身のグレーのジャケットに、同色のゆるめのラインのパンツ、黒のインナーの色に合わせたトレードマークのピンヒール。誰もが羨む小さい顔には、漫画のキャラクターか何かと突っ込みたくなるような大きさの不思議な緑がかった光彩の瞳に、ちょこんとした本人曰くコンプレックスの小さな鼻、愛嬌あるぷっくりした唇。独特な抑揚のある話し方と、自分は自分だと何色にも染まらない浮世離れした雰囲気は、長らく海外で生活していたことと関係あるんだろうか。恵叶や佳哉をはじめ彼女を昔から知る仲間たちは彼女を「姫」と呼んでいるけれど、不思議なくらい違和感がない。
「え、必要ないんだけど。」
予想通り小百合が冷たい瞳で素っ気なく答えた。暁史を囲む女子たちの視線が、さらに氷点下まで下がる。小百合が頷いても断っても、下がる温度には変わりない。ふと、小百合の冷たいままの瞳が、3年前の今日と同じような打ち合わせの場で初めて会った日の瞳と重なった。
緊張と期待感が湧き上がるよりも先に、誰にも呼ばれたことなかったファーストネームで突然呼ばれ、あろうことか丁寧語もすっ飛ばして尋ねられた、あの日。「暁史は、なんでチューターになったの?」。先輩に誘われたからと正直に答えた暁史に、彼女は「ふうん、そっか。頼まれたから、断れなかったんだ。」と苛立った口調で言い放った。事実だから、否定はしなかった。だけど、なぜそんなことをこの初対面の相手にこの場で言われなくちゃいけないんだと当時は腹ただしさしかなかった。かと言って何かを言い返すこともできず、あの日の自分も、今のように黙ってしまっただけ。
けれどあの日とは異なり、今日は自分の沈黙を許さんとばかりに氷のような言葉が突き刺さった。
「あっは。オバサンには、見送りなんて必要ないですよねぇ?」
目の前では暁史の意思などそっちのけで、新入生の一人がその場の勢いを借りて小百合へ言葉を放ち始めたのだ。数に背中を押されて、小百合を嘲笑う集団が徐々にでき上がっていく。
この状況下で次に何を言葉にすべきか暁史がうっかり迷っていると、靴を履きかけた小百合がため息をつき、恵叶を呼んでそのままどこかへ消えてしまった。取り急ぎ、暁史が小百合のカバンを手に彼女を待ちながらどうにかその場を収めようと四苦八苦していると、不意に手から重力が奪われる。隣から後輩の2年生の一人が小百合のカバンをさっと攫ったのだ。小百合の担当していたクラスの元生徒で、現在はチューターになった一人だ。
「りっちゃんは俺たちが数人で駅まできちんと送りますから。先輩は新入生ともっとお話してあげてください。」
「ちょっと、アイツ、何なのよ?!まだ仕事が始まってさえいないじゃない?!」
珍しく感情的になる恵叶に、小百合がぎゅっと抱きつく。いつものように、不自然にならないように、そっと体温を確かめるように。ずっと昔から続く、二人だけの「大丈夫」の合図。けれど、普段ならこれでだいぶ落ち着く恵叶が、今日は一向に収まりそうもない。荒れる前に比較的人通りがない非常階段までなんとか引っ張ってきたのだが、我慢をさせた分、爆発力が増してしまったのか。吐き捨てるように言う彼女は、いつもの冷静さをどこかにとっくに置いてきてしまっている。目の前の大通りを走る車の音が、いやに遠くに聞こえた。
「ケイト、ありがと。私なら、大丈夫だから。」
そっとお礼を伝えて、小百合は笑って見せる。
「ね、だから、落ち着いて席に戻ろう?心配するし。」
目の前でじっと小百合を見つめたまま、肩で息をして怒りをなんとか鎮めようとする恵叶が、いつに増して生きるエネルギーに満ちていて綺麗に見えてしまったのはそっと小百合の胸にしまい込む。
「このままだと、お節介に来ちゃうよ?それは癪じゃない?」
誰とは言わずとも、佳哉のことだと恵叶にはわかる。渋々頷くと、喧噪の中へ戻るためにゆっくり歩みを進めた。
「でも、次に同じことあったら、、、」
小百合を見て何かを決心する恵叶に、小百合は励ますようにもう一度笑みを浮かべる。
「もはや毎年のことだって。放っておけば、そのうち、落ち着く。」
気づけば恵叶が何事もなかったように宴の中へ戻っており、冒頭での宣言通りに自己紹介が始まりの合図を告げる。自動的に、暁史は再び嬌声の輪に引き戻された。もしかしてさっきは後輩に牽制されたのではと気づいた頃には、とっくに小百合の姿はなかった。今頃、後輩たちと駅に向かっているんだろう。彼らといる時の小百合の瞳は温かい。そしてその温かい瞳が暁史には向けられたことは、決してない。それが無性に気に入らないのに、訳もわからないままどこかで安心しているのは、3年前のあの日からやはり変わらない。