1話:太陽熱温水器とオイルショック
1950年2月10日、山倉光男は山梨県甲府市の山間の南斜面に建つ昔からの農家の家に生まれた。中学を出て近所の工務店、機械・自動車・バイク修理工場で働き小さい頃から機械いじり建築が大好きで何でも屋の工務店の社長から厳しく仕込まれて大工、左官、機械・バイク・車修理が得意だった。機械修理工場と工務店に籍を置いて近くの人から修理、車運転、運送、建築、アンテナ、電気工事、など、いわゆる・何でも屋の家業を継いだ。
大きな農家のに話にはロケットストーブを利用して煮炊き出来る手作りの調理場を作った。最近、東京から引っ越してきた人がピザ窯を造って欲しいと言われ、その写真を見ながらレンガを積んで最近作り、その店が繁盛しているようだった。1965年4月10日、まだ高台のこの地区は朝晩、0℃近くに気温が下がり昼間は直射日光で20℃をこえる日射しと寒暖の差が激しい地区。中学を卒業して佐藤工務店と加藤機械に就職して仕事があれば呼ばれ、普段は工務店の大工、左官屋の見習いと機械修理の見習い修行中だった。
一方、幼なじみの山手咲子は甲府の商業高校へ入り自転車で学校まで通い始めた。山手咲子の家は葡萄を作りワインやジュースを販売していて比較的裕福でその山手酒蔵所の店の仕事を将来やることになっていた。佐藤工務店の佐藤一朗社長65歳、1900年生と加藤機械の加藤博英社長65歳が新しもの好きで、愛知県のメーカーの太陽熱で熱をわかすと言う装置の代理店を始めた。山梨県は晴天日比率が日本で一番の土地であり太陽熱温水器の性能実験には最適の場所だった。そこで愛知県のメーカーの製品の性能テストを佐藤工務店で引き受けていた。
山倉の家と佐藤工務店と実家、加藤機械の工場と実家の合計5ヶ所で実験をしていた。どれも大型で山倉の家では同じ敷地に住む父の弟の家族の分まで1台220リットルタイプで供給できた。この実験の結果1966年には事前循環式の太陽熱温水器をこのメーカーは日本で初めて本格的に発売した。その後、1968年に日本初の自然循環式太陽熱温水器を発売して佐藤工務店と加藤機械が山梨県内の総代理店の契約して販売促進し、その担当者が山倉光男になった。
そして注文があると佐藤工務店が設置に行きその後のメンテナンスを加藤機械が行う様になった。甲府市内で知り合いの会社の社長に6人に会社の独身寮の風呂用に使ってもらい問題点、改良点を山倉光男がメーカーに報告した。自宅の灯油、ガス代を年間と太陽熱温水器を利用することにより10年で元が取れて、それ以上は利益になる事がわかり佐藤工務店と加藤機械では中卒、高校卒を6人採用して営業社員として育て上げるように、山倉光男に命じた。
その後、佐藤一朗社長と加藤機械の加藤勝社長が太陽熱温水器のリース事業も始めた。つまり、太陽熱温水器のメーカに10台単位で販売価格の6掛で購入して10年契約で年間2万円で近所の農家に貸し出すという物で10年後に太陽熱温水器を取り外して新しい商品と交換するというだった。月に1700円で最先端技術の太陽熱温水器が使えて今までの様に石油と入れたり高価なプロパンガスを使わなくてすむと評判となり1968年には甲府市内で30件のリース、その後バイクで甲府周辺に宣伝して歩くと1968年中に50件の引き合いがあり評判が良くなった。
その後、大月、山梨、甲州、富士吉田、韮崎、北杜まで営業活動として回り、翌年には長野県まで営業範囲を広げていった。1969年には山倉が営業課長となり車に4人が乗って長野県での営業を積極的に進めた。そして1969年3月には、長野県内も合わせて100件の太陽熱温水器販売が達成された。もう1人甲府工業高校卒業した鮫島伸一が静岡県を開拓することになり会社から車を借りて4人でチームになって営業活動に1969年、年末に累計200件のリースに成功した。
やがて1970年があけ、更に営業先を広げて長野県を2台、8人で回り、山梨を1台4人で回る事にして、1970年上半期で新規200件、累計400件、年末には600件、累計800件まで増えた。そして1971年に山倉光男が営業部長になり営業管理と営業部員の採用、教育を一手にやるようになり営業部員の人数が20人となった。そうして着実に太陽熱温水器の名前が浸透していき、1971年は上半期300件、年間600件、累計1400件となった。
1972年も年間で800件を新規に開拓して累計2200件となった。1973年も順調に進み9月末で単年度千件となった。その後1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に石油輸出国機構加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル
3.01ドルから5.12ドルへ70パーセント引き上げることを発表した。10月17日にはアラブ石油輸出国機構が原油生産の段階的削減・石油戦略
を決定した。
またアラブ石油輸出国機構諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国・アメリカ合衆国やオランダなどへの経済制裁・石油禁輸を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。日本では、1972年6月11日に、田中角栄が発表した政策綱領、列島改造論が発表され、列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。
日本の消費者物価指数で1974年は23パーセント上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果、1974年はマイナス1.2パーセントという戦後初めてのマイナス成長を経験し高度経済成長がここに終焉を迎えた。そのために、石油の消費を抑える、いわゆる、省エネルギー元年となり、デパートのエスカレーター運転中止。ネオンサインの早期消灯。ガソリンスタンドの日曜日休業。鉄道事業者における最終列車の繰り上げなどの処置。日本の地下鉄事業者が駅の照明を間引き。プロ野球のナイターの開始時間の繰り上げ、テレビ深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止などの対策が取られた。