最終回 第30話 お疲れ様、勇者じゃない君へ
落ちてきた灯真を抱きとめたのは、コハクだった。
左腕のない体で、右腕と全身を使って無理やり受け止める。地面を何度も滑り、装甲の火花を散らし、それでも彼女は最後まで手を離さなかった。
「……あなたは、誰ですか」
震える声だった。
灯真の瞳は赤く濁り、呼吸も不規則で、顔つきのどこかがひどく遠かった。汚染率は限界を超えている。名前も記憶も、もうぐちゃぐちゃでもおかしくない。
灯真はうまく息を吸えないまま、かすれた声で答えようとした。
「おれ、は……」
続かない。
前世の名前と、鬼の残滓と、保守要員M-0MOと、勇者百瀬灯真が喉の所で絡まる。
その時、コハクが額をぶつけるみたいに近づいた。
「百瀬灯真です」
即答だった。
迷いがなかった。
「私が知っているあなたは、百瀬灯真です。桃太郎計画でも、中核個体でも、保守要員でもありません」
その断言が、深い所へ刺さる。
名前を思い出すというより、外側から拾い直してもらう感覚だった。
「……モモ」
シグレが膝をつく。
「雑魚のくせに、最後まで無茶しすぎ」
声音はいつも通り毒舌なのに、目が赤かった。
アヤメも降りてくる。
「地上へようこそ、です。今回はちゃんと、戻ってきましたね」
かぐらは春臣の棺を守り抜いたまま、よろめきつつ近づいた。
「灯真様。聞こえますか。世界は、止まりませんでした」
朱羅は少し離れた位置で腕を組み、鼻を鳴らす。
「死んでないなら文句は後で山ほどある」
その言い方が、妙にありがたかった。
まだ続きがある口調だ。ここで終わらせる気のない人間の声だ。
周囲では、鬼ヶ島の崩壊が進んでいた。
白い外殻が剥がれ、黒い核が霧みたいにほどけ、空から桃色の残光が雨みたいに降る。その下で、人と鬼が入り乱れて走っている。
兵士が、倒れた鬼の子どもを抱えて避難していた。
鬼の女が、瓦礫の下敷きになった人間の腕を引いていた。
市場で刃を向け合っていたはずの二人が、互いの顔を見て泣き崩れている。
全部が解決したわけじゃない。
むしろこれから、もっと揉める。怒りも混乱もぶり返す。戻された痛みはきっと重い。
でも、もう“知らないまま捨てる”ことだけはできない世界になった。
少し離れた所で、清嵐が膝をついていた。
祭祀符は焼け落ち、衣は破れ、あの整った穏やかさはもう残っていない。けれど彼はまだ立とうとしていた。
かぐらが静かに近づく。
「清嵐様」
清嵐は顔を上げる。
敗者の顔というより、ようやく数式の外を見せられた人間の顔だった。
「……私は間違えたのだろうか」
誰にともなく漏れた問い。
かぐらは少し考えてから答える。
「間違いだけでは、なかったと思います」
清嵐の目が揺れる。
「でも、正しさだけでもありませんでした。だから、これからは皆で引き受けます」
その言葉は断罪でも赦しでもない。ただ一人へ背負わせる時代を終わらせる宣言だった。
春臣の棺は、返還炉の灰銀光に包まれ、ゆっくり地上へ降ろされてくる。完全に目覚めるには時間がかかるだろう。けれどもう“返事できないまま固定される”未来だけは回避された。
一号勇者の輪郭は、崩れゆく空の上で薄くなっていく。
灯真はかすれた声で呼び止めた。
「おい」
白い旅装束の男が振り返る。
「先に言っとく。お疲れ」
一号勇者は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
『そっちもだ、後輩』
そのまま彼は光に溶けた。
どれだけの時間が経ったのか分からない。
気づけば朝だった。
崩れた鬼ヶ島の残骸から離れた野営地。焦げた鍋を、コハクが片腕で不器用に磨いている。左腕の代わりに簡易フレームがつき、そこからまだ時々火花が散る。
「貸すよ」
灯真が言うと、コハクは即座に首を振った。
「却下です。あなたは安静」
「その状態で鍋磨くやつに言われたくない」
「鍋は放置すると後で困ります」
理屈が細かい。
でもその細かさが、やけに嬉しい。
シグレは隣で配線束を睨みながらぼやいている。
「世界更新後の暫定運用、誰が設計するの。絶対クソ忙しいんだけど」
「言いながら楽しそうですね」とアヤメ。
彼女は地面から丸い小石を拾い、こっそり懐へ入れていた。こんな時でも地上の収集癖は健在らしい。
かぐらは少し離れた所で、目覚めきらない春臣の傍に座っている。まだ涙は乾いていない。でももう、泣くだけの顔ではなかった。
朱羅は避難民たちへ食料を配りながら、時々こちらを見る。その視線に剥き出しの敵意はない。かといって仲良しでもない。ちょうどいい距離だ。今の世界には、多分それが一番必要だった。
灯真は掌を開いた。
そこには割れた黍団子が半分残っている。いつから握っていたのかも曖昧だ。
「コハク」
「はい」
「半分こ」
差し出すと、彼女は一瞬だけ目を見開いたあと、そっと受け取った。
「……甘いですが、悪くありません」
「素直じゃねえな」
「あなたほどでは」
シグレが呆れたように笑い、アヤメがくすっと息を漏らす。かぐらも振り向き、朱羅が遠くで鼻を鳴らした。
その時だった。
避難民の一人――昨日まで鬼を怪物としか見ていなかった若い兵士が、鬼の子どもへ毛布をかけながら、小さく言った。
「……お疲れ様」
それは誰へ向けた言葉だったのか、本人にも分かっていなかったかもしれない。
けれどその一言が連鎖するみたいに、周囲でぽつり、ぽつりと同じ言葉が落ちる。
鬼へ。人へ。仲間へ。自分へ。
「お疲れ様」
「お疲れ」
「……お疲れ様でした」
最後に、コハクがまっすぐ灯真を見る。
「百瀬灯真」
「ん」
「お疲れ様です。勇者じゃない、あなたへ」
その一言で、前世の最後がようやく塗り替わる気がした。
誰にも労われず壊れた夜の先へ、今の声が届く。
灯真はうまく笑えないまま、それでも答える。
「……そっちも」
朝焼けの向こうで、壊れたはずの天上回線が一瞬だけ瞬いた。
完全な終わりじゃない。運用はここからだ。揉めるし、壊れるし、また直さなきゃいけない。
でもそれでいい。
不完全更新の世界で、今度は誰か一人だけを捨てないために。
桃から生まれた俺だけ、鬼の心臓に潜れた。
けれど世界を明日へ進めるのは、もう俺一人の仕事じゃない。
朝の風が、少しだけやさしかった。
朝焼けの野営地には、泣き声と怒鳴り声と、妙な静けさが同居していた。
痛みが戻れば終わり、ではない。ここからが面倒だ。返ってきた感情をどう扱うか、誰がどこまで責任を負うか、鬼と人間がどんな距離で暮らし直すか。答えはまだ一つも出ていない。
それでも、前とは決定的に違うものがある。
皆が“何かがおかしい”と、ちゃんと自分の感覚で言えることだ。
少し離れた所で、昨日鬼へ矢を向けていた兵士と、鬼の若者が殴り合い寸前になっていた。
だが次の瞬間、二人とも止まる。互いに流れ込んだ五秒が邪魔をするのだ。憎い。怖い。許せない。なのに、完全には相手を怪物扱いできない。
「最悪だな」
シグレがその光景を見てぼやく。
「でも多分、必要な最悪」
「うん」
灯真は頷いた。
「綺麗に始め直せるわけないしな」
かぐらは春臣の傍らで、新しい祭祀帳面を広げている。もう神の命令を書き写すためではない。返還後に起きた各地の混乱、必要な支援、人と鬼の共同避難区、感情暴発への対処。泥臭い運用メモだ。
「巫女姫って、もっと綺麗な仕事かと思ってた」
灯真が言うと、かぐらは少しだけ笑った。
「今は現場監督みたいな気分です」
「似合ってる」
朱羅は炊き出しの鍋をかき回しながら鼻を鳴らす。
「王国も鬼も、痛みが見えたくらいで急に仲良くなるほど単純じゃないよ」
「だろうな」
「でも、前よりは騙しにくくなった」
それはかなり大きい。
見えない所へ押し込めて終わり、が通りにくくなるだけで、世界の運用は相当変わる。
コハクが鍋を磨く手を止め、灯真へ視線を向けた。
「あなたの脳波はまだ不安定です。無理に立たないでください」
「分かったよ」
「本当ですか」
「……半分くらい」
「却下です」
即答で切られて、シグレが吹き出す。アヤメも肩を揺らした。
こんなやり取りひとつが、妙に胸へ沁みる。
前世では、壊れる側の自分へこんなふうに口うるさくしてくれる相手はいなかった。
止められるのは面倒なはずなのに、今はそれが救いだった。
やがて、避難民の輪の中から小さな歌が聞こえてきた。
鬼の子どもが、人間の村で流れていた子守歌の断片を口ずさみ、それに人間の子が続きを重ねる。完璧じゃない。音程もずれる。でも、その不揃いさのまま同じ歌になる。
灯真は目を閉じた。
痛みは消えない。
知ったうえで、それでも生きると選ぶことにしか、多分価値はない。
だからこそ、ここから先は“勇者の無双”じゃない。
揉めて、壊れて、謝って、また運用を作り直す毎日だ。
「しんどそうだな」
朱羅が言う。
「しんどいだろうな」
灯真は笑う。
「でも前よりは、だいぶマシ」
空を見上げると、壊れた天上回線の残光が細くまたたいた。
新しい世界の運用開始を告げる、雑で不安定な初回起動みたいな光だった。
灯真は割れた黍団子の残りを見つめ、それからもう一度、みんなの顔を順番に見た。
コハク。シグレ。アヤメ。かぐら。朱羅。救われた人たち。まだ怒っている人たち。これから文句を言う権利を取り戻した世界そのもの。
勇者じゃなくてもいい。
保守要員でもなくていい。
ただ、壊れたら一緒に直していける側へ、ようやく回れた気がした。
朝の風が吹く。
その冷たさを、もう誰も“なかったこと”にはできなかった。
完結まで読んでくださり、ありがとうございます。宿院です。
テーマとして「痛みは、消すものではない。
知ったうえで、それでも生きると選ぶことに、人間の価値がある」という思いを込めて執筆しました。
最後に評価★を一つでも頂けますと、次回作の励みになります。よろしくお願いします。




