エピローグ:変わらない場所
あの日から、少しだけ時間が経った。
季節はゆっくりと進み、空気もほんの少しだけ柔らかくなっている。
けれど。
変わらないものも、確かにあった。
昼休み。
弁当を食べ終えたあと、自然と立ち上がる。
もう迷うことはない。
廊下を歩き、いつもの扉の前に立つ。
コンコン、とノック。
「どうぞ」
変わらない声。
扉を開ける。
「いらっしゃい、神崎くん」
柔らかな笑顔。
それを見るだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
「来た」
短く返す。
「はい」
彼女は嬉しそうに頷く。
そのまま、自然に距離が縮まる。
もう、不自然さはない。
誰かに見られても、隠すこともない。
それでいて。
全部を見せるわけでもない。
二人だけが知っている距離。
その絶妙なバランスが、今の“かたち”だった。
「今日はどうしましたか?」
いつもの問い。
「別に、何もない」
「ふふっ」
彼女は小さく笑う。
「それが一番多いですね」
「悪いか?」
「いいえ」
やさしく首を振る。
「むしろ、嬉しいです」
その言葉に、少しだけ視線を逸らす。
慣れたはずなのに。
こういう一言には、まだ少しだけ照れる。
椅子に腰を下ろす。
彼女は、少しだけ近くに立つ。
何かをするわけでもない。
ただ、そこにいる。
それだけでいい空間。
「……静かだな」
ぽつりと呟く。
「はい」
彼女も頷く。
「最近は、落ち着いてきました」
あの騒ぎも、今ではほとんど話題にならない。
最初は色々言われた。
からかわれることもあった。
だが。
時間が経てば、人は慣れる。
そして――。
変わらないものだけが、残る。
「……良かったな」
「はい」
彼女は、穏やかに微笑む。
「今の方が、好きです」
その言葉に、少しだけ驚く。
「今の方が?」
「はい」
頷く。
「ちゃんと、自分で選んだので」
その声には、迷いがない。
あの頃とは違う。
揺れて、悩んで。
それでも選んだ結果。
だからこそ、強い。
「……そっか」
短く返す。
それだけで、十分だった。
「神崎くん」
名前を呼ばれる。
「なに」
「今日も、来てくれてありがとうございます」
少しだけ改まった言い方。
「今さらだろ」
苦笑する。
「それでも、です」
彼女は、やさしく笑った。
その笑顔を見て。
ふと思う。
最初は、ただの気まぐれだった。
なんとなく来て。
なんとなく話して。
それだけのはずだったのに。
今は違う。
ここは、“来る場所”になった。
理由なんて、いらない。
ただ――。
来たいから来る。
会いたいから会う。
それで十分だ。
「……桜井」
ふと名前を呼ぶ。
「はい?」
彼女がこちらを見る。
「また明日も来る」
先に言う。
一瞬、きょとんとした顔。
そして――。
「……はい」
嬉しそうに頷いた。
「待ってます」
その一言。
それだけで。
明日もここに来る理由になる。
夕焼けが、部屋を染める。
変わらない光。
変わらない場所。
そして。
少しだけ変わった二人。
その距離は、もう揺れない。
静かで、穏やかな時間が流れる。
それが、二人の日常。
それで、十分だった。
終幕




