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45.新たな展開

 G製薬会社つくば研究所から引き返してきた鹿子木には元気の欠片(かけら)も見えなかった。周囲の若手の刑事たちも気を使って鹿子木には言葉を掛けないでいてくれた。翌日の夕方まで、珍しく自分のデスクに座ったまま、じっくりと考えてみたが、鹿子木には次に打つ手が思い付かなかった。こういう状況になったら、鹿子木が行く場所は一つしかなかった。


 その夜、会員たちのざわつきが収まった筑波ホビークラブの受付に鹿子木の姿があった。

「神尾さん、もう打つ手がありませんよ。どうしたら良いですかねえ」

 一昨日のG製薬会社つくば研究所での尋問の様子を細かく洋介に報告した後、鹿子木は途方に暮れたような目をして力なく言った。

「そうだったんですか。警察のことを良くは思ってない人たちも今の社会には存在していることでしょうから、協力的な態度でないという理由で直ぐに疑うわけにもいきませんしね。でも永倉さんからは口腔内細胞を採取できたのですよね。鑑定結果はいつ分かるのですか?」

「いやー、実はですね……、いつになるかまだ分からない状況なのですよ」

「えっ、何故ですか?」

「最近、私がDNA型鑑定をお願いした結果が全て予想とは異なっていたため、科捜研での私の評価が下がったって言えば、分かっていただけますかねえ」

「そういうことですか……」

「なので、他のもっと重要な検体の後になる、という話です。本当に困りました」

 そう言われると洋介には鹿子木に掛ける言葉が浮かばなかった。


 筑波ホビークラブの受付の電話が鳴った。洋介も鹿子木と同様の心理状態で電話に出る気力も薄れていた。

「はい、筑波ホビークラブです。……、しばらくお待ちください」

 受話器を取ったのは小野村愛であった。愛は最近の洋介の様子が心配で、帰宅する時間が遅くなっていて、この日もここに残っていた。

「鹿子木さん、つくば東署からお電話が入っていますよ」

 鹿子木は頷くと愛から受話器を受け取った。

「あれっ、愛ちゃん。まだいたの?」

 洋介が驚いたような表情で訊いた。

「洋介さんのことが心配で帰れませんわ。キッチンで片付けをしていたのですけれど、さっきから電話が鳴っているのにどなたも出ないので、慌てて受付に入ってきたのですよ。本当に、ここは私がいなければ日常的な運営さえ、おぼつかないようですね」

 少しの間、電話で話していた鹿子木が受話器を置いた後、洋介に報告した。

「神尾さん。こんな遅くになって、つくば東署に片桐博光が訪ねてきたそうです。私に話があると言っているようなので、直ぐに帰ります。神尾さん、何とか良い手を思い付いてくださいね。よろしくお願いします」

 そう言うと、あたふたと帰っていった。


 鹿子木がつくば東署に戻ると、若い刑事が待ち構えていた。

「鹿子木さん、片桐という男が来ましてね。重要な内容なので鹿子木さんにしか話さないと言っているので、取調室に入ってもらっています。会議室というわけにもいきませんでしたので」

「分かった。直ぐに行く」

 鹿子木は頷いてから小走りに取調室に入ると、中にいた別の若手の刑事が傍に来て耳打ちした。

「とにかく、この男、鹿子木さんに話す、としか言わないのです。よろしくお願いします」

 そう言うと、その刑事は入り口の傍に置いてある事務机の前の椅子に座り、調書を書く準備を始めた。

「やあ、お待たせしました。東京からわざわざつくばまで来ていただいたそうで、お疲れ様です」

 小さな取り調べ用の机の奥に座って下を向いていた片桐は、僅かな安堵の色を見せて顔を上げた。


「こんな遅い時間になってから突然、つくばまで来てしまいまして申し訳ありません。東京の刑事さんから電話がありまして、私の口腔内細胞のDNA型が一致しなかったと言われました。いきなりの質問で恐縮ですが、私のDNA型は何と一致しなかったのか、教えていただけないでしょうか?」

「本当は一々ご説明することではないのですが、片桐さんの場合、DNA型鑑定で一致しなかったので、もうお教えしても良いでしょう。比較したのは、犯行現場近くに残されていた白い手袋の中にあった皮膚片から得たDNA型です」

「やはりそうでしたか……。ええと……、実はあの手袋は私の物で、ある人に貸していたものを返してもらう時、私が無理に引っ張ったものですから、相手の掌を傷つけてしまったのです。それで、皮膚片が残っていたのだと思います」


「どなたに手袋を貸したのですか?」

「その人に迷惑が掛かりますから刑事さんには言えません」

「それでは、片桐さんの手袋を借りた人は、それで何をされたのでしょうかね?」

「ええと……、大事な書類を触るのに素手では拙いから貸して欲しいと言っていました」

「片桐さんはその人が書類を触っていたところを見たのですか?」

「ええ、見ていました。その後直ぐに私のスマホに電話がありまして、急いで出かけなければならなくなったものですから、手袋を返してもらったのです。その時、慌てていた私が無理に手袋を引っ張ったので相手の手を傷つけてしまったのです」

「そうですか。それでは、その手袋を借りて書類を触った人にも詳しくお話しをお訊きしなければなりませんね」

「そんな必要はありません。私があの手袋を嵌めた手で岩宿副本部長をあの崖の上から突き落としたのです。犯人は私だったのです」

「何ですって! あなたが犯人だと言うのですか!」

「そうです。全て私がやったのです」

 片桐はもう犯人ではないと決め付けていた鹿子木にとっては非常に驚くべき発言で、一瞬冷静さを失いかけたが、深呼吸を一度行なってから質問した。


「分かりました。それでは最初から全てを話してください。片桐さんはどうして岩宿副本部長を殺害しようと思ったのでしょうか?」

「……、あの男はまともな感性を持ってはいなかったのです。あの男の行動は全てが自分の為でした。部下は勿論のこと、例え上司であろうと、自分の為に動いてくれない人に対しては常に敵として扱っていたのです。自分の都合に合った行動を取ってくれる人には表面上非常に優しく接し、処遇に関してもとても良いポジションを与えてくれたのです。でもそんな人でも、ひとたびあの男の為にはならないと判断すると、突然冷酷な対応を取るのです」

「私がいろいろな方から訊いたところによると、岩宿さんという人物は全くそのようなキャラクターだったようですね」

「刑事さんはつくば研究所の方に何回も足を運ばれたそうですから、もうご存知でしょうが、私だけではなく、太田哲也さんや安田順一さん、それから帯織裕一郎さん、夜須健司さんなども本当に酷い目に遭っていたのです。あんな男がこの会社の研究開発本部のトップになったら、この会社の真面目な基礎や開発の研究者たちにとって、まともな未来、公平感のある将来はなくなるのです。私はもうあの男を放置することができなくなったのです。それが動機です」

「そうですか……。実態をよくは知らない私でさえ、片桐さんの気持ちは分かるような気がしてきますねえ。それでは、事件当日の犯行に至るまでの片桐さんの行動やその時の気持ちをお話しください」


「七月二十五日の午後四時頃、私は何とか岩宿をあの崖の上に誘き出しました」

「そうでしたね。二回も超難問のクイズを出して、あの場所に来させたのですね。我々はあの問題を解くのに非常に苦労しましたけれど、岩宿さんがあの問題を容易く解くだろう、という自信が片桐さんにはあったのですか?」

「ええ、そうでなければ、あんなことはしませんよ」

「そうでしょうね。ところで、『鳥羽の()(うみ)』のことはどうやって知ったのですか?」

「えっ、何ですって? もう一度言ってください」

「『鳥羽の淡海』ですよ。ほら、二つ目の出題文に書かれたでしょう」

 片桐はほんの少し間をおいて思い出していたようであったが、直ぐに鹿子木の方を向き、応えた。

「ああ、二つ目の問題の事ですね。あんなことはインターネットで調べれば直ぐに見つかるのです。今はそういう時代ですから」

「そうなんですかねえ」

 あまりインターネットには詳しくない鹿子木には片桐の答えに共感はなかった。


「岩宿さんをあの崖の上に首尾よく誘き出すのに成功した片桐さんは、その後どう行動したのですか?」

「岩宿は崖の上で私が暗示しておいた書類を探し始めました。私は気付かれないように静かに近付き、崖下を覗き込んでいた岩宿を思いっ切り押したのです。そうしたらあの男は崖下に転落していきました」

「その時、あの白い手袋をしていたのですね?」

「はい、その通りです。万が一どこかに指紋が付いてしまったらいけませんので」

「では、片桐さん。あなたが岩宿さんを押した時には手袋は両手とも着けていたのですね?」

「はい、そうです」

「では、何故、片方の手袋が崖の途中の灌木に引っ掛かっていたのでしょうか?」

「ああ、そんな事ですか。岩宿をうまく突き落とせたので、安心して手袋を外したのです。その時、強い風が吹いてきて、誤って片方の手袋が風に飛ばされてしまったのです。回収しようと思いましたが、事件現場に長くいるのは拙いと思って諦めて帰ったのです。ただ、それだけですよ」


「そんなものですかねえ。ところで、あの崖の上で岩宿さんに気付かれずに近付くことがよくできましたねえ。崖の上には隠れる場所は全くなかったと思いますけど」

「あの男は自分の欲しいものを探すのに夢中でしたから、私には全く気付くことはありませんでした」

「しかし、もし気付かれたら、とは思わなかったのですか?」

「あの男は自分が有利になることをしている時は、他の事が頭に入らなくなるのです。だから私は全く心配してはいませんでした」

「そうですか……。岩宿さんの集中力は尋常なものではなかったのですかねえ。ええとそれから、岩宿さんが情報を得るために準備していたと思われるお金はどうされたのですか? 今のお話では受け取る機会はなかったように思えますけど」

「あの男は非常にケチでした。だからお金なんか持って来なかったのだと思いますよ」


「それでは、片桐さん。あなたが岩宿さんを崖から突き落としたという証拠は何かあるのでしょうか?」

「警察には自殺したと判断してもらうつもりで行なった行為です。証拠を残すようなことはしていませんよ」

「それでは、何故今日ここに出頭してきたのですかねえ?」

「それは……、刑事さんの追及が厳しくて、本社の私の所まで押しかけてきたからです。もう逃げきれないと判断したのです。それに本来の目的である岩宿に居なくなってもらうことができたので、もう私が警察に捕まっても構わないと思ったのです」

「そうですかねえ」

 鹿子木はそう言うと、その日の尋問は終わりにした。若い刑事に後を任せ、自分のデスクに戻り、一言も喋らずにただただ考え込んでいた。


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