46.出頭
翌日は土曜日であった。夜遅くなった筑波ホビークラブでは来館した会員のほとんどが既に退館し、クラブ内は先ほどまでの賑わいが消え去り、じっくりと話をするのには都合の良い時間帯が訪れていた。洋介が座っている椅子から少し距離をおいた正面には深刻そうな表情をした鹿子木が座り、洋介の斜め後ろには、いつもとは雰囲気が異なることを察知した愛が二人の話を聞き逃すまいという構えで陣取っていた。
「うちの署に出頭してきた片桐博光は、あの崖から岩宿を突き落としたのは自分だと言っているのです」
「えっ、突き落としたと言ったのですか?」
自分の描いたストーリーとは異なった供述だったので、洋介は怪訝そうに訊いた。
「そうなんです。片桐は中肉中背で、あの体格の良い岩宿を崖の上から突き落とすなんて、そう簡単にはできないと思うんですけどね」
「私の推理とは異なる方法で岩宿さんを崖から転落させたんでしょうかねえ……」
「そんなことは無理だと思うんです……。他にもいろいろと気に入らない話をしたんです、片桐が……」
「鹿子木さんにしては煮え切らない話し方ですね。順を追って聞かせてください」
鹿子木は洋介の言葉に頷くと、つくば東署で片桐が昨夜供述した内容を詳しく伝えた。
「今日も午前と午後、二回尋問したんですけど、片桐の言うことは昨夜とほとんど同じなんです」
話し終わった鹿子木が一息漏らし、洋介の方を見ると、頼みに思っている人はボーとした状態で一点を見つめたままであった。そのまま暫く黙ったまま待っていると、ようやく洋介が口を開いた。
「片桐さんの供述は、何かかが足りていませんね。何が足りないんだろう……。多分話している内容に真に迫る所がないというか、現実味に乏しいというか、自分自身の経験に基づいた話ではないようだというか……」
「実は、片桐の供述を聞いた時、私も同じような印象を持ったんです」
「鹿子木さんのようなベテラン刑事が抱いた印象は間違っていることはほとんどないでしょう」
急に褒められた鹿子木は少し頬を赤らめた。そんなことにはお構いなく、洋介は続けた。
「片桐さんは犯人が出題した問題の内容をきちんと把握していたんですかね?」
「それなんですよ。『鳥羽の淡海』のことを話題にした時も、片桐は直ぐには反応できなかったのです」
「それから、アルカロイドに関しても何一つ供述していませんね。鹿子木さんは意識的に片桐さんに喋らせようとしたんでしょう?」
そこまで戦略的に尋問をしていたわけではなかった鹿子木ではあったが、少し対面を気にして答えた。
「まあ、片桐からアルカロイドに関して発言があれば、犯人としての信憑性も上がると判断したものですからね」
「流石、名刑事さんですね。それと、突き落としたと供述しているわけで、鏡を使ったことも一切話には出なかったのですよね」
「そうです。岩宿を眩しく感じさせたなんてことは全く言っていません」
「要するに、片桐さんが犯人であるという物的証拠は勿論のこと、状況証拠さえ、何一つ示されてはいないのが現状なのですよね」
洋介が簡単にまとめた後、それまでただ黙って聞いていた愛が発言した。
「その片桐さんという方は真犯人ではなく、誰かを庇っているようにしか私には聞こえませんわ」
「鹿子木さん、私も愛ちゃんの見解に一票を投じます。まだ我々が掴んでいない、岩宿の自己中心主義の犠牲になった被害者かその近辺にいた人の中に、今回の加害者となった人物が存在しているのですよ。その人を早く探さなければいけないのではないでしょうか。まあ、片桐さんが庇うとしたら最も可能性の高い人は江曽島さんでしょうけど、我々はまだ何の確証も得てはいませんからね」
「まあ、ストーリーとしてはそういう感じなのですが、今の私にはどう動けば良いのか全く見当が付いていません。神尾さん、何とかしてくださいよ」
「うーん、現時点では私にも良いアイデアは浮かんできてはいません。片桐さんが白い手袋を貸したという相手が、片桐さんが庇おうとしている人物である可能性は非常に高いので、鹿子木さんの尋問テクニックで、片桐さんから何とか訊き出していただけないでしょうかね」
「昨夜の片桐の態度からすると、彼は自分が罪を被るつもりでつくばまで来ているわけですから、絶対にその人物の名前は言わないと思いますけどね……。まあ、今の所、それしか手立てがないわけですから、明日片桐に尋問してみますがね」
翌朝、つくば東署の取調室の中で鹿子木は片桐と机を挟んで向き合っていた。
「片桐さん、今朝はあなたにいくつかお訊きしたいことがあります」
「私が知っていることで、他の方の迷惑にならないことであれば、何でもお答え致します」
「それではよろしくお願いします。先ず一つ目から。片桐さんが白い手袋を貸した人はどなただったのですか?」
「それについては昨日もお話しました通り、今回の事件とは全く関係がないことですし、私がここでその人の名前を言えば、警察ではその人を訊問することになりますよね。関係のない人を巻き込むようなことは、私にはできません」
「しかしですね、警察ではあの白い手袋は重要な証拠品の一つである可能性が高いと考えているのです。少しでも疑問点を残すわけにはいかないのです。ですから、教えてください」
「いいえ、事件と関係のない人に迷惑を掛けるわけにはいきません。お答えできません」
「困りましたね……。それでは、二つ目の質問です。実は、あの白い手袋には、人の細胞片の他に、アルカロイドも付着していたのです。片桐さんに心当たりはありますか?」
「アルカロイドですか……。アルカロイドと言ったって、非常に多くの化合物があります。一体どんなアルカロイドが付着していたと言うのですか?」
「トロパン系アルカロイドの混合物です」
「トロパン系か……。あっ、そうだ。思い出しました。白い手袋を返してもらった後、私は間違ってチョウセンアサガオの種を踏み潰してしまったのです。知り合いに貰った種でしたが、来年は庭に蒔こうかと考えていたのです。袋に入れて保管していたのですが、他の物を取り出す際、一緒に出てきて、下に落ちてしまったのでしょうが、私は気付かなかったのです。袋ごと踏み潰して初めて気付きました。素手で触っては拙いと思い、ちょうどポケットに入っていた手袋を嵌めて片付けたのです。その時、アルカロイドが手袋に付着してしまったのだと思います」
「まあ、一応辻褄は合いますけどね」
鹿子木はそう言うと、黙って考え込んでしまった。片桐には随分長い時間のように感じられたが、実際はほんの二、三分の沈黙であった。鹿子木は鋭い目付きで片桐を見つめながら次の質問をした。
「片桐さん、あなたは岩宿さんを突き落としたのでしたよね。その時、岩宿さんはあなたの方を向いていたのですか、それともどこか別の所を見ていたのですか?」
「あの男は自分が欲しい情報のことで頭の中が占められていたのだと思います。夢中で崖の上の岩の下を探していました」
「つまり、岩宿さんの顔は片桐さんの方は向いていなかったのですね?」
「ええ、そういうことです」
「でも、それは少しおかしいですね。実は、岩宿さんの右手と顔面、特に目の周りにかなり高濃度のトロパン系アルカロイドが検出されているのですけどねえ」
「そんなことですか。刑事さん、人間、自分が突き落とされそうになった時、誰が何のためにそんなことをするのか瞬間的に確認するでしょう。多分、その時私の手がこちらを向いたあの男の顔を触ってしまったのではないでしょうか。その直後、あの男が右手で自分の顔を触ったため、右手にもアルカロイドが付着したのだと思いますよ」
片桐の言っていることは鹿子木を納得させるには不十分ではあったものの、それを覆すような材料を鹿子木は持っていなかった。
片桐への尋問の後、鹿子木は先ずは自分一人で考えてみようと思い、実行してみた。しかし、その気持ちは三十分と続かなかった。机の上の受話器を外し、洋介に先ほどの尋問結果を詳しく報告した。




