42.片桐博光
洋介と鹿子木が事件現場に行った二日後の朝、鹿子木は東京H署の春田刑事と共にG製薬会社本社の面談室にいた。ここが東京H署の管内であることから鹿子木が春田に気を使って同行することを依頼したのであった。先ず春田が口火を切った。
「先日は面倒くさいことをお願いしまして申し訳ありませんでした。お蔭様で、御社の帯織裕一郎さんへの疑念を晴らすことができました。ご協力、本当に有難うございました。それでですね、本日こうしてつくば東署の刑事である鹿子木康雄と一緒にお邪魔しましたのは、ここ本社の総務部に勤務されています片桐博光さんに関しまして、少々疑念が生じて参りましたものですから、今回もそれを晴らすべく、片桐さんから口腔内細胞を任意で提出していただきたいと思ったからなのです。よろしくお願い致します」
前回の春田からの要請時も最初に話を聞いてくれた本社の総務課長は、表面上笑顔を見せながら対応した。
「はい、分かりました。とにかく、弊社と致しましても、岩宿副本部長の今回の転落死に関しましては、早くきっちりと解決していただくことが一番でございますので、できる限りのことはさせていただくつもりでおります。さっそく、片桐を呼びますので少々お待ちください」
そう言うと本社総務課長は二人に深々と頭を下げてから面談室を出て行った。
三分も待たないうちに面談室のドアがノックされ、中肉中背でやや細長い顔に黒縁の眼鏡をかけた三十代後半に見える男が中に入ってきた。
「お待たせ致しました。私が片桐博光です。よろしくお願い致します」
片桐の喋り方はややゆっくりで落ち着いた感じを与えた。総務課長から簡単ではあるが一応の面会理由は聞かされてからここに来たのであろうが、あまり動揺しているようには見えなかった。片桐とは鹿子木ばかりでなく春田も初対面であったのと、春田が手で鹿子木にどうぞという合図を送ったため、最初から鹿子木が話をした。
「お忙しい所にお邪魔しまして申し訳ありません。本日は、七月二十五日に転落死されました岩宿副本部長の件でお邪魔しました」
「はい、先ほど総務課長に呼ばれた時、そう言われました。それで、何故私がここに呼ばれたのでしょうか?」
「岩宿副本部長の転落死には不審な点がいくつか見つかってきております。また、御社の偉かった方をこんなふうに言うのは大変失礼かと思いますが、岩宿さんという方は、周囲の人たちからあまり良く思われていなかったように聞いておりますので、岩宿さんに関係があった方々からお話をお訊きしております」
「そうですか……。つまりは私が警察の方々に疑われているということですね?」
「いやいや、皆さんからいろいろとお話を伺う一環として片桐さんにも今日このような形で面会させていただいているだけですから、あまりご心配されなくても大丈夫です」
「……、分かりました。私の知っていることでしたら、隠すことなくお話致します。どうぞ何でも訊いてください」
片桐はこういう状況でも取り乱すことがなく、目の動かし方や眼差しの強さから判断するといかにも頭は良さそうだ、と鹿子木は感じた。
「私たちが得た情報では、プロジェクトZAが臨床入りを達成できた頃は、片桐さんは岩宿さんと非常に良い関係だったそうですが、しばらくしてからその開発もご自分の手でされたいとの思いから、開発部門に異動を願い出たのだそうですね。それが岩宿さんの逆鱗に触れたらしく、つくば研究所からこちら本社の総務部に異動になってしまったとか。それが本当であるとすれば、酷い話ですね」
「まあ、ほとんど本当の話です。最初のうち、私は岩宿さんのことを少しは尊敬し、彼の指示に従って一所懸命研究してきました。プロジェクトが順調に進んでいるうちは、とても可愛がってくれました。でも、安田順一さんや太田哲也さんに対して岩宿さんが行なった仕打ちは、私にとって一つの教材になっていました。ゆくゆくは私も同じ目に逢うのだろうという予感が生まれてきたのです。そして、それが現実のものとなりました。
新たな薬を世の中に送り出すという作業は、本当に過酷なプロセスの連続なのです。太田さんたちが必死で見出してきた薬の種を私たちは引き継いだと考えていました。岩宿さんが酷い仕打ちで太田さんを追放したのは知っていましたが、私たちは決して彼からあのプロジェクトを奪い取ったなどとは考えていなかったのです。我々は太田さんから薬創りのバトンを受け渡されたと考え、臨床入りを目指して研究したのです。
そして、我々も夜を日に継いで研究に没頭し、ようやく臨床入りを達成できたのです。本来は開発部門の方にお任せするのが普通なのでしょうが、あのプロジェクトへの我々の思いと新たにプロジェクトに加わった人のそれとは比較にならない程の差があるのはご理解いただけるのではないかと思います」
「私どもには薬創りの難しさは十分には分かっていないのですが、確かに、その通りなのでしょうね」
「何が何でも薬として世の中に出したい、というのが我々のような研究部門に属している人間の強い願いなのです。もう一度、ゼロから一を生み出すような基礎研究を始めるよりは、あの化合物を薬として完成させたい、と願ったからこそ、私は開発部門への異動を願い出たのです。当時は研究部長だった岩宿副本部長の希望は、次々と新たなプロジェクトを開発部門に送り込み、ご自身の地位を高めたい、ということに尽きるのだと思います。それで、私には次の研究プロジェクトを立ち上げ、できるだけ早く良い化合物を見出させたかったのでしょう。従って、私の異動願など、とんでもない事だったのだと思っています」
「でも、一度異動希望を出しただけなら、直ぐに追い出されることはなかったのではないですか?」
それまで黙って聞いていた春田が口を挟んだ。
「はい、そうだったと思います。岩宿副本部長に最初の異動希望をお伝えした時は、驚かれた様子でしたが、怒ったりせず、長い時間を掛けて私が研究部門に残るよう説得されました。でも、私の強い思いは、副本部長の説得で変わるような生半可なものではなかったのです。三日後に私は文書で異動希望を提出したのです」
「そうでしたか。それで、本社の総務部に異動させられてしまったという訳ですね」
「はい、その通りです」
「そうなると、片桐さんは岩宿副本部長のことを相当恨んでいたのでしょうね?」
今度は鹿子木が質問した。
「恨んではいなかったと言えば、嘘になります。あの人は本当に自分の事しか考えなかった。人間であれば、誰でも少しはそういう醜い部分を持っているとは思いますが、岩宿さんの場合は度が過ぎていました」
「そうでしょうね。ところで、片桐さんは今年の七月二十五日土曜日の午後四時頃、どこにいましたか?」
「ああ、私のアリバイということですか……。ちょっとお待ちください。手帳を見ますから……。ええと、あの日の午後は皇居の周りをジョギングしていました。家を出たのが、午後一時半頃で、電車に乗って最寄り駅に着いてトイレで着替え、衣服をコインロッカーに入れ、皇居一周のスタート地点に着いたのが三時くらいでした。入念に準備運動を十五分くらいやってから走り出しました。私の走力はキロ七分前後で二周しましたから、一時間以上は走っていたと思います。それから汗をしっかりと拭き、駅のトイレに戻ってロッカーから出した衣服に着替えた後で近くにあるお店で軽くビールを飲みました。それから帰宅しましたから家に着いたのは六時半を回ったところくらいだったと思います」
「そうですか? 片桐さんはジョギングが趣味なのですね?」
「それほど一所懸命走っているわけではありませんが、つくばに勤務していた頃、走る場所に困ることはなく、また、つくばマラソンもありましたので、自然とジョギングをするようになったのです」
「確かに、つくばには遊歩道もありますから、走るのには『持って来い』の街ですね。それで、皇居の周りを走っていた時、どなたか知り合いの人と逢ったりしませんでしたか?」
「頻繁に皇居で走っていれば知り合いもできるのでしょうけれど、私が皇居に行けるのは、月に二、三回程度なものですから、まだ知り合いはいないのです。電車の中やビールを飲んだお店でも知り合いとは逢いませんでしたので、証言してくれる人はおりません」
「そうですか。ちなみに、片桐さんはどちらにお住まいですか?」
「つくばに勤務している時から守谷に住んでおります。本社にはTXで通勤しております」
「そうですか。守谷からなら車で四時前に事件のあった真壁に着くことは可能ではありますね。それでは大変心苦しいのですが、片桐さんの口腔内細胞を任意で提出していただくわけにはいきませんか?」
「何もしていないのに、そんな個人情報を開示するようなことはしたくありません、とお断りしたいところではありますが、この期に及んで、そんなことはできないでしょうね」
「なに、そんなにお手間を取らせるようなことではありません。この綿棒で頬っぺたの内側を擦っていただくだけで良いのです。どうかよろしくお願いします」
「分かりました」
鹿子木が片桐に綿棒二本を渡し口腔内細胞を採取してもらった後、二人はお礼を言って嬉しそうにG製薬会社本社を後にした。




